ヴァンピールとビターチョコレート
里内アキ
第1話
四時間目の終わりを告げるチャイムとともに、教室内が騒がしくなる。
小野寺唯華は教科書をしまい、鞄から弁当を取り出して教室を出た。教室内では早くも他の女子たちが友達同士でグループをつくり、クラスに十人程度しかいない男子は一ヶ所に集まってひっそりと弁当を広げ始める。学食に走る生徒もいた。
唯華は廊下を歩く生徒の間をすりぬけ、ひとけのない方へ歩いてゆく。
着いたのは、化学実験室。生徒でにぎわう三年生の教室棟から階段をはさんだ生物室のさらに隣にある教室で、このふたつの教室が授業以外で使うことはめったになかった。
なにしろ、雰囲気が暗い。北校舎の最も日の当たらない場所にあり、日光が窓際の一部分にしか当たらないし、あまり使われていないせいか空気がどこかよそよそしい。しかも薬品の臭いなのかカビの臭いなのか、独特のにおいがする。梅雨前の暑さのなか、この冷たい空気はありがたいが、こんな薄暗い教室では楽しいランチとはいかないだろう。
唯華は科学実験室に入る前にドアを少し開けて中に誰もいないことを確認した。幸いなことに、誰もいないようだった。
安心して教室に入り、窓際の陽の当たる席に座ろうと椅子を引いたとき。
床に丸い小粒のチョコレートが落ちているのに気がついた。しゃがんでそれを拾い上げると、まだいくつも落ちているのを見つけた。てんてんと落ちているチョコレートを拾っていくと、蓋が開いたままのチョコレートの容器が転がっていた。その先を目で追う。袋に入っている菓子パン、またパン、次に教科書、マンガ、スクールバッグ、ネクタイ。
最後に、男子生徒。
「…えっ?」
猫が眠るように丸くなり、床の上で目を閉じる様子は、痛む胸やおなかを押さえているように見えなくもない。席を立とうとして、急に具合が悪くなったのか。
唯華は男子生徒の肩をつかんで揺すった。
「きみ、どうしたの」
返事はない。
まさか深刻な状態なのか。不安になり、全力で彼の肩を揺すってみる。
「ねぇ、きみ!」
彼の長い前髪がさらさらと流れ、唯華の知っている顔があらわれた。
目を閉じていても恐ろしいほど端正な容貌。白い肌。背は高いがどう見てもモヤシっ子で体が丈夫そうでない彼の名前は神田蒼人という。唯華と同じクラスで、唯華の次の出席番号で唯華の後ろの席に座っている男子生徒だ。
「神田君、だいじょうぶ?」
色白のため、よけいに具合が悪そうに見えた。
保健の先生を呼んでこよう。
焦って立ち上がるのと同時に、神田蒼人がふっと目を開いた。唯華が彼を見下ろす形で目が合った。
「あー…唯華」
寝ぼけた声で名前を呼ばれた。親しくもないのに勝手に下の名前で呼ぶとは、ちょっとなれなれしいと思う。
「神田君、なに…どうしたの」
「ん……寝てただけだよ」
「まぎらわしすぎるよ!」
寝ているならば、もう少しわかりやすく広めのスペースで「眠っています」というポーズで寝ていてほしかった。
「あれ? 俺、机にうつぶせじゃなかった?」
「寝相わるっ! 心配して損した」
唯華が思わず大声を出すと彼は少々困ったように眉をひそめながら笑って、顎を掻いた。寝起きのためか、頬が赤くなっている。椅子から落ちても目を覚まさなかった図太さが恥ずかしくなったのかもしれない。
「普段はそんなに寝相は悪くないんだけどなぁ…それから、唯華のために言いたいんだけど。いや、言おうかどうかすごく迷うんだけど。もうちょーっとこの状態を楽しみたいという気持ちもあるんだけど」
「なに?」
「パンツ丸見え」
誰の、と思ったが、蒼人が唯華を見上げているという事実。丸見えなのは、唯華のパンツに間違いなかった。
「そ、そういう事は早く言って!」
慌てて青のチェックプリーツスカートを押さえたが、もう遅い。恥ずかしさで顔がみるみる熱くなる。どうすれば蒼人の視界を塞げるか、手は使っているから足しかないと思って持ち上げた右足は、簡単に彼につかまれてしまう。それでも足に力を込める。
「待って! 俺が唯華のパンツ見ちゃったのは偶然が重なった不幸な結果だから! 顔は踏まないで! せめてボディにして!」
「こんなところでまぎらわしい寝方してた神田君が全面的に悪いっ!」
「誰にも唯華のパンツは白いレースと青いリボンがついててすげー可愛いやつだったなんて言わないから。ていうか絶対誰にも教えないし!」
「あたりまえだ、馬鹿!」
「俺の心の中だけにしまっておくもん」
「しまっておくな!」
「ごめん! 冗談です! ほら、足上げてたらまたパンツ見えちゃうよ」
なにも言い返せなくなって、悔しいが素直に足を下ろした。状況的に蒼人を避難することも難しいのが悔しい。蒼人は起き上がると床に散らかった私物を拾って鞄に入れてから立ち上がる。
正面に立たれると、かなりの威圧感があった。蒼人は痩せているが背が高く、スタイルの良さは制服を着ていてもプロのモデルのような迫力があるのだ。みんなが振り返る端正な容貌はイケメンというより美男子。小顔で手足が長く、誰もが振り返ってしまうのもわかる美貌だ。
しかし残念なことに、彼の制服は乱れており、せっかくの美貌も長い前髪で目元まで隠れている。そういうだらしなさまで似合ってしまうのだから驚きだ。
しかし唯華は見た目がだらしない人はあまり好きではない。見た目で人を判断することはよくないことだが、第一印象なんて見た目が十割だ。どう判断してほしいかは自分で考えて、外見を整えればいい。
蒼人が急に「あっ」と声を漏らす。
「ねぇ、これからお昼?」
「そうだけど」
「じゃあ一緒に食べようよ。最近ずっと一人で寂しくて」
唯華の気持ちなど無視して、蒼人は席についた。ひとつだけ引かれたままになっていた椅子の隣の席だ。
逃げよう。
いい考えだが自分のその姿を想像して、諦めた。ここで誘いを断って弁当を抱えて逃げたら、あからさまに彼を避ける形になる。まだお昼は食べていないと言ってしまった後なので、「もうお昼は済んだから」と言うわけにはいかないだろう。
唯華は人づき合いが苦手だ。親友の都合が悪いときには一人でこんなところに弁当を抱えて来るのだから、それは間違いない。だけれども、自分から進んで人を避けたいわけではないのだ。
断ったら「感じ悪いな」なんて思われてしまうかも。神田君を不快にさせてしまうかも。人の気持ちを考えない奴だと思われてしまうかも。
唯華は普段から感じのいい人間とは言い難く、親しいクラスメイトがいない。そんな人間が、クラスの中心にいる人の誘いを断るようなことは…。
いろいろ考えたすえ、結局唯華は蒼人の隣に座った。
その時にまだチョコレートが手のひらの上にあることに気がついた。
「これ、落ちてたよ」
手の平を蒼人に見せてみる。
「あげるよ」
「落ちてたやつ」
蒼人はちょっと眉をひそめて唯華に手を差し出した。どうするのかと思ったが、その手のひらにチョコレートをこぼす。彼はじぃっと手のひらの上のコロコロとしたチョコレートを見つめ、あーんと口を開いた。唯華は素早く彼の手に自分の手をかざした。
「落ちてたやつだよ」
「もったいない」
「でも汚いよ。それに、私が触って、しょっぱいかも」
口を尖らせながら、蒼人は残念そうに渋々チョコレートをゴミ箱に捨てた。
やっと落ち着いたところで弁当の包みを開いた。蓋を開けたら、蒼人が横から弁当を覗いてくる。
「うわっ、うまそう!」
隣を見ると、キラキラ輝く瞳と視線が合った。その無邪気な表情を見せるため、彼はさりげなく前髪をかきあげている。
瞳の色は青空色。
カラコンは校則違反にならないのだろうか。
「…どうしたの? まるで無邪気な子供のようだよ」
「だし巻きちょうだい」
動物に例えるなら、彼は猫だ。少しつり上がり気味の目と細い顎、伸びやかな手足。甘えた顔で擦り寄ってきても無駄だ。こんなにでかい子猫がいてたまるか。
「制服、ちゃんと着るならいいよ」
早く食べてさっさと出て行こうと思っていたのに、余計なことを言われたせいで、つい意地悪な口調になってしまう。制服を正せというのはただ彼の制服の乱れが目に止まったからで、特に理由はない。
「本当に?」
蒼人は立ち上がるといそいそ制服の乱れを整え、また座った。ネクタイまできちんと締められては、意地悪を言った自分が虚しくなる。
「はい、ちゃんとしたよ」
「こだわりじゃなかったんだ…」
「制服にはね。顔隠したくて違うところ派手にしちゃおうかな~って」
「どうして?」
「だって俺の顔、かっこよすぎるから」
言いながら、蒼人はなにやらかっこいいようなそうでもないようなポーズを決める。そんな彼をどんな顔で見ればいいのか、わからない。しかし蒼人は唯華の気持ちなど想像もしないで笑った。
「あ、だけどナルシストじゃないよ。覚えといて。俺は見かけだけの人間だから。勉強できないし。そんなことよりだし巻きちょうだい」
甘えるような、半分おどけたような表情で蒼人は徐々に擦り寄ってくる。
唯華は蒼人の方に弁当を押しやった。
「いいよ、全部あげる」
「いいの?」
「馬鹿って言ったおわびもかねて」
「じゃあパンツ見ちゃった事件は水に流すってことでいいのかな?」
「…蒸し返さないで」
その件についてはやっと忘れてきたところだったのに。
「はい、では遠慮なくいただきまーす!」
蒼人はにこにこ笑って嬉しそうに手を合わせた。意外にも行儀が良い。
「あ、これ代わりに食べて」
一度箸を下ろして、蒼人は鞄の中から購買のパンをいくつか取り出した。
森のパン屋さんバナナメロンパンチョコチップ&カスタードクリーム。森パンのヤキソバパンキャベツ入り。森パンのイタリア風ピザトースト目玉焼きのせ。
唯華は味が気になったバナナメロンパンを選んだ。体に悪そうな黄色が目に痛い。
「うわ、このだし巻きうま~」
おかずの一つ一つに感想を述べながら、唯華がパンを食べ終えるまでに蒼人はぺろりと弁当をたいらげ、残り二つのパンを胃に収めてしまった。ガリモヤシでも彼は食欲旺盛な成長期の男の子だった。
「は~、ごちそうさま。唯華の弁当すっごくおいしかった。唯華のお母さんが作ったの?」
「…私が作った」
「本当に? すごッ! 唯華、俺明日は唐揚げがいい!」
「だから?」
「唐揚げ食べたい…」
蒼人の青空色の瞳がうるうる潤んだ。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまでしつこくお願いされて、断る理由を作るのが面倒になった唯華は結局頷いてしまった。
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