カレーライスは風景画たりえるか?

ディンガー

たりえる訳がない

カレーライスは風景画たりえるか? 普通に考えたらあり得ない。

では普通に考えなかったら?


まず前提の確認からだ。カレーライスとは、インド発祥の料理で、複数のスパイスや肉、野菜などを煮込んで米にかけたものだ。米と分けて皿に盛る派閥も存在するが、ここでは割愛しようと思う。

そして風景画とは、風景を絵に描いたものである。そのまま過ぎるが、これ以上に説明しようもない。


以上ふたつに共通点もなければ親和性もない。葛飾北斎の富岳三十六景に書かれている富士山がカレーライスだったら、何のしまりもない現代アートになるだろう。


そこで逆に考える。カレーライスが風景画たりえるには、何をしたら良い?


有名な絵画の背景にカレーライスを置いてみよう。

モナリザの後ろに置いてみるとどうだろう、大きさにもよるが、風景画としてのカレーライスが描かれているとなると、山ほどの大きさのものになるだろうか。

何だか「これから私はこれを完食します」と言い張る大食いの女性に見えてきた。言われてみれば少しふくよかな体形で、より説得力が増している。

確かに背景にはなったが、これでは風景画というよりも売れない芸人のアーティスト写真である。没。


次は「牛乳を注ぐ女」フェルメールで攻めてみよう。

この背景のどこにカレーライスを配置するかで、センスを問われる。牛乳を注がれているのがカレーライスか? 確かにまろやかな味わいになり子供でも親しみやすい味になるだろうが、それではありきたり過ぎる。センスがない。

ではいっその事壁をカレーライスにしてみるか? もう意味不明だ。スパイシーな部屋で呑気に牛乳を注いでいられる女性に感服してしまう。

では他にどこをカレーライスにするか? そう、この絵にカレーライスを配置しようとする事自体がナンセンスなのである。没。


「青いターバンの少女」これでどうだ。

別名「真珠の耳飾りをつけた少女」とも言うこの絵だから、まずはアイデンティティを簒奪しに行こう。耳飾りがカレーライスの少女。ああ、こういう変なピアスを付けた女子高生をよく見る。マクドナルドで数時間会話を続ける類の人種だ。それに風景画ではない。

風景画とさせるには、やはりこの少女の後ろに配置するか? ああ、駄目だ。大食いモナリザの再来だ。これは没にするしかない。


またダヴィンチ先生に登場願おう。「最後の晩餐」

嫌だ。非常に嫌な絵になってしまった。頭に浮かぶぞ。キリストが水をカレーに変え、石をパンに変えて、さらにそのパンを熱々で炊き立ての米に変えている姿が。

ワイングラスの中には熱々のカレーが入っており、皿には米。カレーは飲み物である事を証明してしまう問題作となり果ててしまった。

この絵で最も重要なのは、裏切りのユダの立ち位置である。ユダはキリストのワイングラスに手を伸ばし……。ああ! 何という事か! ナンを! キリストの熱々カレーにナンをディップしておられる! これはカレーライスを食べる上で、非常に重篤な罪と言えるだろう。お前は何を言っているんだ。没。


さて、ここまで様々な名画をスパイス臭くしてきたが、カレーライスが風景となる絵画は見当たらない。

やはりカレーライス如きに風景は務まらないのか、と落胆しているそこの君。まだとっておきの実験を残してある。


ここに一枚のキャンバスがある。炊き立ての白米のようにまっさらで、汚れを知らない純粋なキャンバスが。

何をするのかもうわかっただろう。そう、熱々のカレーライスに筆をディップし、心のままに風景を描くのだ。

何という逆転の発想か! カレーライスが風景画として成り立たないのであれば、カレーライスで風景を描いてしまえば良いのだ。肉の油分で油絵となり、経年による色の変化まで楽しめる(カビとも言う)。しかも、ライスで立体的な造形ができるから、まるでそこに窓があるかのような錯覚にすら陥る。立体感のある風景はさながら粒立ちの良い釜炊きご飯。スパイシーな香りを運ぶコウノトリだ。


私はここに、完璧な画材の完成を宣言す。それ即ち、カレーライスなり。


以上で筆を置かせて貰おうと思う。カレーライスは、風景画たりえる。

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