イヤホン家に置いてきた

戦国 卵白

第1話 イヤホン家に置いてきた

「あ、イヤホン家に置いてきた…。」


 黒のビジネスバッグを持った、スーツにベージュのトレンチコートを羽織った男性が駅のホームでそう独り言をもらす。


 彼は普段この駅のホームでイヤホンを両耳に挿し、少し経つと周囲にばれないようにわずかに足だけリズムを取りはじめ、9:22発の電車に乗りこむ。おすすめで流れてくる曲を聴いて気に入ったものには高評価をおし、コメントを閲覧、気分ではない曲であれば、すぐに次の曲に切り替えるようにして時間をつぶしている。


 今日の彼は2、3度ホームの階段と左腕につけた腕時計を交互に見る動作を繰り返していたが、やがてガックシと肩を落とした。


 手持ち無沙汰なまま9:22の電車が到着し、いつもと同じ開いた扉の向かい側の扉に向かって進み、座席の衝立と扉の間にあるわずかなスペースに身を寄せる。


 いつもと同様にスマホで音楽アプリは開いてみるものの、音を直接出すわけにもいかず、何曲かタイトルをみてからアプリをタスクキルした。次に検索アプリを開き、気になったネット記事を開いてみる。


 おいしいレタスの見分け方


 画像で二つのレタスを乗せ、記事の全文を表示ボタンを押すとスマホの画面に広告が表示される。それに嫌気がさしたのか検索アプリもタスクキルして、スマホをスリープモードにしてからポケットにしまった。

 彼が窓の外の景色を見ようとしたとき、目が合いそうになってしまったため、あくまで自然に目をそらす。


 何度も通っている場所のはずなのに、今日はスマホの画面ではなく次々と過ぎ去っていく景色の先を穏やかな顔でじっと見つめている。この電車は快速。終点を含めて2か所でしか止まる場所がなく、次の停車駅では多くの人がこの電車に乗るため、ゆったりと乗れていられるのはこの5分ほどしかない。


 過ぎ去っていく景色を眺めていると、やがてゆっくりと景色が動くのをやめ次の駅についた。今いる場所とは反対側の扉が開き、わらわらと人が入ってくる。次から次へと人を奥に押し込むようにして、入りきったころには少し動くと人と人がぶつかってしまうくらいの距離感になっていた。


 皆それぞれのパーソナルスペースを確保してスマホを触り、ある人は音楽に耳を傾け、ある人は動画を楽しみ、ある人はゲームに興じ、ある人はネットニュースを読み漁る。そのようにして各個人の時間を過ごしていた。


 電車が出発する瞬間、動き始めとともに何人かがつり革をつかんだ。その動きにつられて、視線を動かした時。なんとも不思議に思える光景を見た。


 つり革をつかむ手が、皆違っているのである。

 当然だが、いつもは気がつくことができなかった。9:22の電車に乗っている人間はロボットのような存在で、自分以外の人間とは関わりを持たない。物のような状態になっていると思っていた。

 しかし、それぞれの吊り革を掴む手には個性があって、しわとシミが刻まれた手が本来の体の位置からは遠い場所でつり革をつかみ、仕立ての良いスーツの袖から少しだけ見える良い腕時計をつけた手は余裕をもってつり革をつかんでいる。ピンクのネイルがきれいな手はちょうど中指と薬指が第一関節までかかるくらいだけつり革をつかんでいる。

 その手からここにいる皆が一様なのではなく一個人としてここに生きていて、それぞれが違った生き方をしているのだと妙に納得した。

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