寒い日のハプニング

志月さら

寒い日のハプニング

 三学期が始まったばかりのとある日。朝から晴れてはいるけれど最低気温は氷点下五度を下回っていて、登校中はコートとマフラー、分厚いタイツに手袋と完全防備でも冷たい風に身体が震えた。雪が降った日に生まれたから『霜月しもつき真雪まゆき』と名付けられたわたしだけど、寒いのは大の苦手だ。

「さむいー!」と呟きながら歩いていたら、一緒に登校している幼馴染の伊波いなみ颯太そうたくんが新品の使い捨てカイロを手渡してくれた。


 彼からもらったカイロは、授業中のいまもスカートのポケットの中で身体を温めてくれている。わたしの席は窓際なので、暖房が効いている室内でも少し肌寒さを感じる。ひざ掛けを使ってはいるけれど、温かいカイロの存在は有難かった。


 一時間目の数学の授業中。数式をまったく理解できないままノートに書き写していると、突然、教室のスピーカーから校内放送が流れ出した。

 教頭先生の落ち着いた声が告げる。


『生徒、職員の皆さんにお知らせします。現在、急な水道管の故障により断水を行っています。復旧するまで午前中いっぱい校舎の水道、トイレは使用できません。特別教室棟の水道、トイレは使用できるので、そちらを使うようにしてください』


 ――校舎のトイレが使えない。

 突然告げられた内容に衝撃を受けていると、クラスメイトたちのざわめきが耳に入ってきた。みんな少なからず動揺しているようだ。

 放送が流れている間、授業の手を止めていた数学の山本先生が軽く両手叩いて生徒たちに注意する。


「静かにしなさい。いま教頭先生から放送があったが、校舎のトイレは使えないようなので特別教室棟へ行くように。授業に戻るぞ」


 問三の問題を解くように、という山本先生の指示を聞きながら、一抹の不安が胸を過った。


***


「真雪ー、トイレ行っとく?」

「あー、うん」


 休み時間に入った途端、何人かの女子が慌てた様子で教室を出ていった。きっとトイレに行ったのだろう。わたしも友達の間宮まみや早紀さきちゃんに誘われて一緒に特別教室棟へと向かった。

 一年生の教室から向かうには一階の渡り廊下を通るのが近道だが、屋外にあるため吹き曝しだ。歩いている途中で冷たい風が頬を撫でて、二人して思わず小さな悲鳴を上げてしまった。


「ひゃー!!」

「やばっ、寒っ! 二階から行ったほうがよかったかも」

「帰りはそっちにしよ!」


 足早に廊下を渡って特別教室棟に入る。一階のトイレには――予想以上の長蛇の列ができていた。並んでいるのはほとんど一年生だ。上級生はきっと上の階のトイレに行っているのだろう。特別教室棟にあるトイレは校舎内のトイレよりも個室の数が少ない。とても十分間の休み時間で捌ける人数だとは思えなかった。


「並ぶ?」

「ん-……、そんなに行きたくないからいまはいいや……」

「そだね。次の休み時間にしよ」


 早紀ちゃんも念のために行っておきたいというだけだったようで、この列に並ぶ気力はないようだ。次の休み時間ならここまでは並ばないかもしれないし、それくらいの時間は余裕で我慢できる。

 外が寒いので戻るときは二階にある屋内の渡り廊下を使うことにする。階段を上がり、ちら、と視線を移すとやはり二階のトイレにも列ができていた。きっと三階も同じような状態だろう。


 教室に戻って自分の席に座ったけれど、なんだか気持ちが落ち着かない。

 べつに、いますぐにトイレに行きたいというわけではないのに、いつも使っている教室近くのトイレには行けないと思うと、なんとなくそわそわしてしまう。

 授業開始のチャイムが鳴っても何人かの生徒は教室に戻ってこなかった。きっとトイレに並んでいて間に合わなかったのだろう。


 世界史の清水先生が教室に入ってきたのは、チャイムが鳴って少し経ってからだった。それからほどなくして、ばたばたという足音とともにさっきまでは教室にいなかった女子生徒三人が戻ってきた。三人とも息を切らせている。


「こら、廊下は走らない」

「はーい」

「せんせー、許して! トイレめっちゃ並んでたの!」

「ほんとに! やばい!」

「遅れたのは仕方ないから、早く席につきなさい」


 清水先生は軽く苦笑するだけでそれ以上の注意はなかった。

 女子三人が席に着くと、先生は授業を始める前に口を開いた。


「えー、皆さん知っているかもしれませんがさっきの休み時間、特別教室棟のトイレはとても混んでいたので、授業中でもトイレに行って構いません。でも、一声かけてから行ってね。じゃあ授業を始めます。前回の続きから――」


 清水先生が教科書を開いて黒板に板書をする。ノートに書き写しながら、わたしはそっと膝を擦り合わせた。だんだんと尿意が気になってきた。

 どうしよう。トイレ行かせてもらおうかな。でも、まだ授業始まったばかりだし、と躊躇いが生まれる。それに、トイレに行きたいと言い出す一人目になるのも恥ずかしくて嫌だ。

 誰かが言ってくれればあとに続けるのにな……と思いながらもじっと授業を受けていると、ふいに前の方の席の男子がそっと手を挙げた。


「先生、トイレ行ってきていいですか」

「どうぞー」

「せんせー、俺もトイレ!」

「はい、どうぞ。授業中だから静かにね」


 男子二人が教室を出ていくけれど、女子は誰も言い出さない。やっぱり、これでは恥ずかしくてトイレに行きたいとは言えない。躊躇っているうちにも授業は進んでいき、さっきの二人も教室に戻ってきた。それ以降、離席する生徒はいない。

 先生の解説を聞きながら、そっと時計を盗み見た。あと十分。それくらい、余裕だ。全然大丈夫。我慢できる。あの長い列に並ぶのは嫌なので、休み時間になったらすぐトイレにダッシュすると決めて、残りの授業時間をやり過ごす。


「それでは今日はここまで。教科係の人は休み時間の間にノートを集めて持ってきてください」


 しまった。教科係はわたしだった。もう一人、同じ係の男子もいるけれど、今日は欠席しているので一人でノートを集めないといけない。

 急がないと、と思いつつ席を立つと、先日の席替えで隣の席になった颯太くんが声をかけてきた。


「男子の分、俺が集めるよ」

「あ、ありがとう」


 正直助かるので遠慮することなく頼んでしまい、女子の分のノートを集めていく。


「ごめん、真雪。先トイレ行ってるね!」

「うん、いいよ」


 少し焦った様子の早紀ちゃんに声をかけられて頷く。颯太くんの協力もあり早々にノートを集められたので、怒られない程度の早足で職員室へと向かった。

 途中通りがかったトイレの入り口にはPPテープが張られて、使用禁止の貼り紙まで見えた。やっぱり使えないんだ……と心の内で落胆してしまう。


「うわ……並んでる……」


 集めたノートを提出したあと、寒いのも構わずに一階の渡り廊下を通って急いで特別教室棟へ向かったけど、さっきの休み時間と大差ないくらいの数の生徒が女子トイレに並んでいた。最後尾に並んでみるけれど、短い休み時間はあと少しで終わってしまう。前に並んでいた何人かが諦めたように列から抜けていく。


 少しだけ人数が減ったけれど、それでもまだわたしの順番が回ってくるまでは時間がかかりそうだった。前に並んでいる子たちはみんな、授業に遅れてもトイレに行きたいくらい切羽詰まっているのかもしれない。

 どうしよう。そっとお腹を触ってみる。――まだ大丈夫。あと五十分くらいなら、なんとか。どうしても我慢できなくなったら授業中に行けばいいし。遅れて教室に入るのはなんとなく嫌だった。


 ほんの少しの躊躇いの末、わたしはそっと踵を返した。時間がないので帰りも一階にある屋外の渡り廊下を走り抜ける。

 冷たい風に晒されて、ぶるりと身体が震えた。膀胱に溜まったおしっこが存在を主張してくる。やっぱりあのまま並んでいたらよかった、と一瞬で後悔するけれど、もう今更戻ることもできない。


 授業開始のチャイムとほぼ同時に教室に滑り込んで、自分の席に着いた。

 三時間目は英語の授業だ。すぐに担任の廣瀬先生が教室に入ってきて、日直の生徒が「起立!」と号令をかける。

 立ち上がった途端、一瞬おしっこが出そうな気がして、わたしは思わずスカートの前を一瞬押さえてしまった。礼をしている間になんとか波が過ぎ去ったので、そっと手を離して席に着く。授業終わるまで我慢できるかな。やばい、かもしれない。


 どうしよう。でも、授業始まってすぐに「先生、トイレ!」なんて言えるわけがない。せめて、もう少し我慢してから言わないと。でも、いつ言い出そう。はやくトイレ行きたい。お腹が苦しい。おしっこ、したい。焦りとともに冷や汗が浮かんでくる。

 膝をきつく寄せて、教科書も開かないままじっと座っていると、隣の席の颯太くんがそっと声をかけてきた。


「ゆき、大丈夫か?」

「え? なにが?」

「トイレ。さっき行けなかったんじゃないか?」

「べつに、大丈夫だし」


 心配そうな顔をしている彼に小声で答えて、ふい、と顔を逸らしてしまう。さっきの、颯太くんに見られていたのかもしれない。恥ずかしくて頬が熱を持つ。

 なんとか教科書とノートを開いて授業を聞こうとするけれど、だんだんと尿意は強くなってくる一方だった。太腿をきつく寄せても、膝を擦り合わせても、ちっとも楽にならない。

 どうせもう颯太くんにバレてるならいいかと思って、ひざ掛けで隠しながら時々スカートの前を片手で押さえてしまう。おしっこ、したい。もう、先生に言おうかな。でも、いざ口にしようとすると声が出そうにない。


 授業が始まってからまだ十五分も経っていないが、もう先生の話なんて耳に入ってこなかった。トイレに行きたい、おしっこがしたいということだけが頭の中を埋め尽くしていた。座っているのもしんどくて、そわそわと身体を揺すってしまう。もうだめ、おしっこ我慢できない。早く、言わなきゃいけないのに。手を挙げて、トイレに行ってきますって。それだけでいいのに、片手はスカートの前を押さえたまま、もう片手はひざ掛けを握っていて動かせない。


 しゅう、といきなり下着が温かくなった。身体が震える。だめ、だめ、まだ出ちゃダメ。教室で、おもらしなんて、絶対にだめ。必死に自分に言い聞かせるが、温かな感触がじわじわと広がっていく。スカートを押さえた手が生温かくなってくる。もうだめ。出てる。出ちゃってる。早く、教室から出ないと。トイレに急がないと。

 意を決して片手を挙げようとした瞬間――隣の席の颯太くんが、そっと、右手を挙げた。


「先生、霜月さんが具合悪そうなので保健室に――」


 彼が言い終わらないうちに、小さな水音が床を叩いた。ぴちゃぴちゃと、授業中の教室に相応しくない音が、わたしの椅子の下から響いている。下着から溢れて、椅子の上に広がって、零れ落ちてしまったおしっこ。滴り落ちる水音は次第に勢いを増していく。


「……っ!」


 思わず顔を俯けた。身じろぎさえできない。我慢していたおしっこは止まらない。

 授業中なのに、教室で、おもらししちゃってる。みんなに見られている。きっと、颯太くんにも。


「……ごめん」


 颯太くんが小さく謝る声が耳に入った。何に対しての謝罪なのか、頭の中が真っ白になっていて理解が追い付かない。お尻の下が温かくて、気持ち悪い。生徒たちがざわついている。おしっこはまだ止まらない。お願い、止まって。はやくこの時間が終わってほしい。

 教壇に立っていた廣瀬先生が両手を軽く叩く。


「はいはい、みんな静かに。騒がないの」


 先生は落ち着いた声で告げて、騒然としていた生徒たちを窘めた。教室が静かになるとともに、ようやく水音が止んだ。廣瀬先生の足音が近づいてくるが、顔を上げることができない。握り締めていたひざ掛けはびちゃびちゃで、椅子の下には大きな水溜まりができあがっている。


「霜月さん、保健室で着替えておいで」

「は、い……」


 なんとか頷いたものの、すぐに立ち上がることができない。動けないままでいると、斜め後ろの席から椅子を引いて立ち上がる音が聞こえた。


「先生、あたし付き添います!」


 早紀ちゃんが机に駆け寄ってくる。彼女はべつに保健委員というわけではないが、先生は付き添いを許可してくれた。


「お願いね、間宮さん」

「行こ、真雪」


 早紀ちゃんに手を引かれてなんとか立ち上がると、濡れたプリーツスカートからぽたぽたと雫が滴り落ちた。歩き出そうとした足を思わず止める。このままでは教室の床や廊下を更に汚してしまう。


「ゆき、使って」


 立ち尽くしていると、颯太くんが鞄の中から取り出したスポーツタオルを差し出してきた。有難いけれど、彼のタオルを汚してしまうのは申し訳ない。


「でも……」

「いいよ、大丈夫」


 汚して構わない、と言うかのように、颯太くんはわたしの手にタオルを押し付けた。

 彼のタオルを受け取り、濡れた手とスカートの水気を軽く拭きとってから、早紀ちゃんに連れられて教室を出ていく。タオルと、ひざ掛けも手に持ったまま。

 歩いている間、わたしも早紀ちゃんも無言だった。授業中のしん……とした廊下に、二人の足音だけが小さく響く。上履きが濡れているので、結局歩いたところは微かに濡れてしまうがどうしようもなかった。

 階段を上がって二階の渡り廊下を通る。保健室は特別教室棟の一階にある。


「トイレ寄ってく?」

「……いい」


 階段を下りてから早紀ちゃんに訊かれて、小さく首を振った。お腹の中は空っぽですっかり軽くなっている。

 保健室の前にたどり着くと、早紀ちゃんがドアをノックしてくれた。養護教諭の先生が「どうぞー」と応えるが、ドアを開けるのを躊躇ってしまう。どうしよう。先生になんて言えばいいのだろう。立ち尽くしていると、早紀ちゃんがドアに手をかけた。


「失礼しまーす」

「し、失礼します……」


 先に保健室に足を踏み入れた彼女のあとに慌ててついていく。


「はーい。どうしたの……あら、」


 何かの書類に目を通していたらしい養護教諭の野中先生は、顔を上げてわたしの姿を見るなり目を丸くした。


「あの、一年二組の霜月真雪です。えっと、あの……」


 おもらししたので着替えを貸してください、と言わなければいけないとわかっていても口に出せずにもごもごとしてしまう。野中先生はひとつ頷くと目を細めた。


「いま着替え用意するから、こっちにおいで。付き添いの子は先に教室に戻っていなさい」

「え、待ってちゃだめですか」

「だめよ、授業中でしょ」

「でも……」

「早紀ちゃん、先に戻ってて大丈夫だよ。ついてきてくれて、ありがとう」

「……ん。わかった」


 慌てて早紀ちゃんにお礼を言うと、彼女は渋々とだが納得した様子で踵を返した。

 先生に促されて奥のベッドに歩み寄る。先生は床に新聞紙を敷くと、すぐにぬるま湯の入った洗面器にタオル、着替えのジャージと下着、靴下とスリッパも用意してくれた。


「今日、寒いから冷えちゃったよね。トイレも混んでて大変だったでしょうし、気にしなくていいのよ」

「はい……」


 野中先生は柔らかな声でそう言うと、ベッドの周りのカーテンを閉めてくれた。

 一人きりになって少し心細く思いながらも、上履きを脱いで新聞紙に上がる。ぐっしょりと濡れたタイツとスカート、下着も脱いでから絞ったタオルで濡れたところを拭いていく。

 温かなタオルの感触に、落ち込んでいた気持ちが少しだけ落ち着いてくる。

 借りた下着とジャージを穿いてから、制服のブレザーも脱いでジャージを羽織っていると、急に保健室のドアがノックされた。対応する声が微かに聞こえてくる。


「せんせー。トイレ間に合わなくて、やっちゃった……」

「あらら、着替えましょうか。いま他の子もいるから、静かにね」


 聞こえてきた会話にドキッとした。どうやら三年生の先輩のようだ。彼女も粗相をしてしまったらしい。聞いてはいけないことを聞いてしまったようでドキドキしながらも、自分だけではなかったことに少しだけ安心する。

 隣のベッドのカーテンが閉められたのを確認してから、借りたスリッパを履いてそっとカーテンを開けた。

 音に気付いた野中先生がこちらを振り向く。


「着替え終わった? 少しは落ち着いたかな」

「はい……」

「よかった。じゃあ、濡れたものはそこの水道で洗いましょうか。保健室に置いておいていいから、帰りに取りに来てね」


 頷いて、保健室に備え付けの水道で濡れた下着とタイツ、スカート、上履き、ひざ掛けに颯太くんから借りたタオルを水洗いする。タオルは新しいものを買って返そうと思いながら、洗ったものを軽く絞って先生から貰ったビニール袋に入れていると、急に校内放送が流れた。朝に続いて再び教頭先生の声が聞こえてくる。

 水道管の工事が予定より長引きそうなので、今日は三時間目で授業を終え下校するという内容だった。


 もう少しで授業は終わる時間だが、ホームルームには出るようにと野中先生に促されて教室へ戻る。歩いている途中で授業終わりのチャイムが鳴り響き、教室に戻るとちょうどホームルームが始まるところだった。

 自分だけジャージ姿でいることにほんの少し気まずさを感じながらも席につく。汚した椅子や床は綺麗に片付けられていた。


 担任の廣瀬先生が明日の連絡事項と寄り道をせずに帰宅するようにという注意を述べて、ホームルームは手短に終わった。挨拶を終えて、生徒たちは各々帰り支度を始める。

 わたしも鞄に手を掛けると、何人かの女子が机の周りに集まってきた。仲が良い子も普段あまり話さない子もいて、みんな気遣う表情を浮かべている。


「真雪ちゃん、大丈夫? あんまり気にしないでね!」

「トイレ混んでてやばかったもんね」

「ねー! あたしも実はやばかった!」

「霜月さん、チョコあげる。これ食べて元気出して」

「え、あ、ありがとう……!」


 普段はあまり関わることのない華やかな雰囲気の加瀬さんが、赤い包み紙の高級そうな丸いチョコをふたつ手渡してくれた。面食らいながら受け取り、慌ててお礼を言う。

 集まってきた女子たちはさらりと気遣う言葉を口にするとすぐに自分たちの席に戻っていった。教室内で揶揄するような声はひとつも聞こえてこなかった。


「真雪、駅まで一緒に帰ろ。伊波くんも」

「あ、うん」

「ああ」


 早紀ちゃんに誘われて、慌てて鞄に教科書やペンケースを詰め込む。颯太くんも既に帰り支度を終えていた。三人で昇降口に向かって歩きながら、ふと足を止める。このまま帰るわけにはいかない。


「あっ、ごめん。わたし、ちょっと、保健室寄らないといけなくて……」

「じゃあ、下駄箱で待ってる」

「うん。待ってるよー」


 汚れものを取りに行くのに二人についてこられると気恥ずかしいので、下駄箱のところで待っていてもらえることに少し安心しつつ踵を返す。数歩足を進めてから、急に「ゆき!」と颯太くんから呼び止められた。


「そーたくん? どうしたの?」

「……」


 足を止めて首を傾げる。駆け寄ってきた颯太くんは、どこか気まずそうな顔で言い淀んだ。数秒の沈黙の末に、彼は口を開いた。


「……俺、言うの遅くてごめん」

「ううん。……気にしないでっ」


 授業中にもされた謝罪の意味をようやく理解して、わたしは小さく首を振った。

 もっと早く声を上げていれば、と思っていたのだろう。でも、本当ならわたしが自分からトイレに行きたいと言わなければいけないことだった。どう考えても今日の粗相は自分のせいなので、颯太くんが謝る必要なんてちっともない。

 カイロをくれたのも、ノートを集めるのを手伝ってくれたのも、教室から連れ出してくれようとしたのも、タオルを貸してくれたのも。彼の気遣いには感謝しかしていない。


「色々、ありがと。だいじょーぶだよ」


 言葉を口にすると、自然と表情が緩んだ。

 高校生にもなっておもらしをしてしまって。恥ずかしくて、情けなかったはずなのに。不思議と嫌な気持ちはあんまり残っていなかった。



END

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寒い日のハプニング 志月さら @shidukisara

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