第2話

 夢のようだと思った。翌日、図書室に向かうと、僕が形にしたかった話が出来上がっていた。原稿用紙にして五十枚の、僕が原案の作品が目の前にあった。青羽先輩はカウンターの内側で本を読んでいる。僕は少し離れた位置で、出来上がった物語を読んで感動していた。

「凄い……。こんな話を読みたかったんですよ!」

 青羽先輩が本に向けていた視線を上げた。そして、冷ややかに言う。

「図書室では静かに」

「す、すみません……」

 でも、僕の興奮は冷めることなくて、原稿用紙を何度も繰り返しめくる。ずっと、構想ばかりが浮かんでいた話を、こうも綺麗にまとめて物語にしてしまうなんて。

 青羽先輩は、細くて綺麗な指先で本を閉じる。読み終わったのだろうか。僕はタイミングを見計らっていた。ノートの一ヶ所に付箋を貼っている。それを、青羽先輩に渡した。青羽先輩が再び視線を落として、ノートの中身をまじまじと眺めている。うつむいているせいで、どんな表情をしているかは分からないけれど僕には自信があった。

「もし、この話が面白かったら、続きを書いてくれませんか?」

 彼女は黙ってこちらを見た後、自分の通学鞄から一本の万年筆と原稿用紙を取り出した。あの細長い指先が、正しいペンの持ち方をしていて上品さをかもし出している。彼女はさらさら、と滑らかに万年筆を走らせて、原稿用紙に何かを書いている。綺麗な字を次々に速記していく。その速度といったら、僕が打つ、覚えたてのローマ字キーボードを人差し指でタイピングするよりも早い。

 何を書いているのだろう、と覗き込んだ。先頭行には、第二話と書かれていた。僕はそれを見て、ガッツポーズをする。

「ありがとうございます、青羽先輩――」

 パッと上げた顔で、気が付く。僕と青羽先輩の顔が、あまりにも近い距離にあった。僕はそれが異様に気恥ずかしくなった。前髪がもう少しで触れそうな位置にある長いまつげに、柔らかそうな唇が眼前にあって。けれど先輩は顔色一つ変えず、僕から視線を離すとノートと原稿用紙を見比べている。

 僕はその青羽先輩の様子を、ずっと見ていたかった。けれど、夕方五時を知らせる校内放送のチャイムが聞こえて、それを聞くなり先輩は図書委員としての仕事を終える。まるで店仕舞いでもするかのように、立ち上がってカーテンを閉めていく。僕は慌てて、荷物を持って図書室を出た。先輩が図書室の鍵を閉めて、職員室に向かって歩き出す。僕はその後ろ姿についていく。

「あの、青羽先輩」

 青羽先輩は答えてくれずに、スタスタと歩いて行く。別館から本館へと向かう渡り廊下で呼び止めても、立ち止まることはない。僕は青羽先輩のことを少しでも知りたくて、話題を振りたかった。それこそ、さっき読んでいた本って何ですか、とか、そんななんでもいい話だ。

「黒木君」

 口を開こうとした矢先、先輩が首を少しだけこちらに見返る。僕は何かを言ってくれる、青羽先輩のことを知れるという期待でワクワクしていた。けれど、青羽先輩は淡々と言い放つ。

「私、あなたには興味ないの」

 その言葉は、少なからずともショックを受けた。分かってたよ、そんな上手くいく話なんてないことは。でも、少なくとも僕を期待させたのは青羽先輩だ。僕の妄想に過ぎない、理想の世界を描き出せる人。そんな人と、出会ってしまったら。

 こんなの、運命だと思っても仕方ないじゃないか。

 僕は、食らいつく。せっかく先輩が口を開いてくれたチャンスなんだ。みすみす逃してたまるものか。

「それでもいいんです。僕の、このノートだけでも気に入ってもらえたら」

 青羽先輩は、ただ黙っていた。その瞳が、少しだけ揺れていた気がした。僕は、多分だけれど、彼女が申し訳なさを感じているように思えた。だから、僕は笑みを崩さない。

「いつか、この物語を本にしたいんです。協力してください、青羽先輩!」

 僕は夢見ている。合作でいい。原案を僕が作って、それを青羽先輩に文章へと落とし込んでもらう。そして、どんな形でもいいから一冊の本にしたい。それが広く知れ渡ってくれたら、もっといい。そんな希望を、勝手に持っていた。

「……あんまり、期待しないで」

 青羽先輩は呆れたように溜息をついて、そう言って一人帰っていった。僕は手の中にあるノートを見て、もっと思いついたことを書き留めなきゃ、と思った。想像だけが、僕の生きがいだから。


 それから、あっという間に冬が来た。僕たちは休みを除いて、ほとんど毎日放課後の図書室で会っていた。僕がちゃんと新しい想像を書き留めたノートを持って行けば、青羽先輩は翌日、ある程度の枚数の原稿を書いてくれていた。

 けれど、最近ではその枚数が一枚、また一枚と減っていて、今日は原稿用紙がついに二枚だけになってしまった。僕は少し、じれったさを覚えていた。青羽先輩ならもっと書けるはずなのに、どうして。そんな思いがつのって、僕はつい言ってしまった。

「青羽先輩。この話面白くなかったですか? 悪いところがあるなら教えてください」

 青羽先輩は首を横に振った。言うことはない、という先輩なりの受け答えの仕方であるのは、この数か月の付き合いでなんとなく分かっていた。けれど僕はそれでは納得できなくて、詰め寄る。

「じゃあどうして、二枚なんですか。前はもっと書いてくれたのに」

 分かっている。これは僕の我儘なんだ。青羽先輩には青羽先輩の都合があることも分かっているのだけれど、期待している分、理由が欲しかった。

 僕が悪いわけではないのなら、先輩に問題がある。けれどそう言うと、本当に責め立ててしまうようになるから、別の言い方をした。けれど先輩は黙っていた。何を言うか迷っている、そんな風にも受け取れた。

 結局、いつものように夕方五時のチャイムが鳴ってしまう。僕もつい無言で、荷物を手に図書室を出ていく。青羽先輩がカーテンを全て閉め切って出てきた。

 青羽先輩は職員室に鍵を返しに行く。僕はそれに付いていく。お互い、何も喋らない時間だ。青羽先輩が職員室に入っていく間、僕はガラス窓からその様子を眺めていた。

 見たことのない男の先生が、青羽先輩を呼び止めていた。眼鏡をかけていて、五十代くらい。クラス担任とか、その辺だろうか。青羽先輩は一切口を開くことなく、ただ何度か頷いていた。

 そのまま、先輩が出てきたから一緒に靴箱へと向かう。その間にも、僕はある一つの物語を空想していた。

「青羽先輩、こんな話はどうですか? まず――」

 口頭でバーッとまくし立てるように思いついたことを口にした。簡単に言えば、深い海の中に住まう人魚達が空を目指す話。それを、ただ先輩に言い聞かせるように僕は話し続けていた。

 僕自身が盛り上がって、一方的な話が続いた、その時だった。青羽先輩がクリアファイルを大事そうに抱えていた。それを見て、僕は足が止まった。

 隣を歩いていた僕が急に立ち止まったからか、数歩先を歩いていた青羽先輩が振り向く。逆光で、顔色もなにも分からないけれど。青羽先輩の手に収まっているものがなんなのかは分かる。

 ――進路希望票だ。

 もうそんな時期なんだ、と僕は急に押し寄せてきた現実を直視するのに、時間がかかった。

「……どこの高校に行くんですか」

 そう聞くと、彼女はクリアファイルから紙を取り出して、僕に見せてきた。そこに載っている校名は、まだ中学一年生の僕でも知っている、有名な高等学校だった。優秀な成績で名を知られている人でも容易に落ちる可能性が高いと噂の、超名門校だ。

 途端に、青羽先輩を遠くに感じた。青羽先輩はきっと、僕の運命ではなかったんだ。そんな思いが込み上げてきて。

「ご、めんなさい、僕」

 震えかけた声で、呟く。僕が青羽先輩に物語を押し付けた形になっている。けれど、僕はそんなつもりじゃなかったんだ、と言いたくて。

「受験生、ですもんね」

 それは、書けないよな。自分の人生か、他人の趣味か。どちらも天秤てんびんにかけた時、どちらがより大切かなんて答えは簡単に出せる。

 何も言わない青羽先輩との沈黙に耐えきれなくなって、僕は逃げるように走り出していた。

 自分が恥ずかしかった。誰かにノートの中身を見られる以上に、羞恥心でいっぱいだった。僕は自分のことしか考えてなかった、と思い知らされるのがこんなにも顔を熱くさせるものだなんて思ってもいなかった。

 青羽先輩は、僕に興味なんてない。最初からそう言っていたじゃないか。なのに僕は勝手に、彼女の特別ななにかになれたような気でいた。

 彼女の運命も人生も、彼女自身のものなのに。僕はどうしよくもなく、それらが欲しかった。

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