第30話 不安

 奈央の病室へ向かう途中の廊下で――、

「一応言っておきますが、今後こんなことがあれば、庇いたて出来ませんからね。肝に銘じておいてください」

「はい、分かりました」

 ――俺はお叱りを受けていた。『すいません』の言葉がまた咽喉から出そうになったが、さっきも言っていたので、これ以上言うと安くなる気がして理解したことに留めた。

 この世界では俺と知り合いのナースさんも、本気で謝罪を求めている感じではなかったので、あまりしつこく謝らない方が良いと考えたのも理由の一つだ。

「それと前にも言いましたが、病院には面会時間というものがあります。ですが、あなたの場合は特別で私の権利で、長い時間病院にいることを許可していますが、こう騒がれてはいけないことも理解していてくださいね。私は、稟太郎くんの彼女に対する想いを否定するつもりはありませんから……」

 短く俺は『はい』と一言。

 ……だけど、少しだけ……この世界の俺の行動に疑問を感じた。

 生前の俺も、毎日奈央のお見舞いに来ていたが、病院の面会時間の終了までには帰るようにしていた。死んだときはたまたま屋上に行こうと思ったが、いつもは奈央と二、三会話したらすぐに帰っていた。

 ――のに、こっちの世界の俺は面会時間が過ぎてもここにいたようだ。確かに、心の通じ合った今なら、いくらでも奈央と一緒に居ても苦ではないだろうが、想い合っていない時に、そんなに長く居れるものだろうか?

 もしかしたら、この世界の俺と奈央はすれ違いなどなく、普通に想いあっているのかもしれない。それだったら、面会時間が過ぎてもここにいてもおかしくはない。

 ……だけど、そう思うと胸の辺りが締め付けられるように苦しくなった。自分のことだから喜ばしいはずなのに、俺の記憶のない自分と、奈央が想い合っていたってのは……なんか、嫌だな……。

 そういえば、俺も別の世界の奈央と思い合ってキス……したよな。あれはやっぱり浮気……になるんだろうか? それだったら俺もとやかく言えないよな……。

 奈央が、他人と仲良くしていたわけではないし、自分自身であるんだから、やきもちを妬くというのは、自分自身に妬くということになってわけがわからなくなってしまう。

 ――ていうか、そもそもこの世界の奈央は死んでまで俺を追いかけてきた、あの奈央なのだろうか? 俺が愛したのはあの奈央であって他の奈央ではない。

 ……いや、でも、別の世界の奈央が『あたしを否定することは奈央そのものを否定することと同義』とか言っていたよな。だったら奈央であることには変わらないのだから、あまり深く考えない方が良いのだろうか?

 記憶が残っているのが恨めしい。世界の混乱だけじゃなく、こうゆうことがあるから記憶は本来消すのだろうな。

 ……でも、やっぱり、俺が愛したのは死んでまで追いかけてきてくれたあの奈央だ。あの奈央も、この世界に来てくれていたらいいんだけ――、

「着きましたよ」

 突然の到着に思考を止めて立ち止まる。考えながらだったが、一応ちゃんとついてこれていたようだ。

 ナースはこちらに向き直って、左手の平を、俺から見て右側の部屋に向ける。

「こちらです。こちらの病室に奈央ちゃんがいます」

 ……ここか。道順は覚えていなかったから、病室の番号を覚えておく。番号さえ分かれば、何度でもここに来ることが出来る。

「消灯時間まで、まだまだ時間はありますが、すでに面会の時間は過ぎていることはお忘れなくお願いします」

「はい、わかりました」

 俺はそう答えると、いつものように扉にノックをしようと……いや、待てよ。確か、今日は一回ここに来ているから、これで二回目になるはずだ。だったら、もしかしたら奈央は寝ているかもしれない。……一回帰った後に忘れ物をして戻ってきたら、奈央が寝ていたということがあった。奈央に訊いてみたら、俺が帰ったらいつも寝ていると言っていたから、今回も寝ている可能性がある。……いや、死に神の世界の記憶を持っている奈央なら、俺が来るのを心待ちにしているはずだろうから起きているのかも……。

 いったいどうすれば……。

「あのう、一つ訊いても良いですか?」

「……えっ? はい、なんですか?」

 悩んでいたところにナースさんに話かけられたので振り返る。まだ帰ってなかったんだ……。

「今……ノック……しようとしましたよね? どうしてですか?」

 質問の意図が分からなかった俺は、いったいどんな顔をしていただろうか? とりあえず当たり前のことを答える。

「……だって、もしかしたら、今都合が悪いかもしれないじゃないですか。入って良いのかを確認するためのノックですよ。それが礼儀でしょ?」

 人がいる部屋に入る場合の礼儀だと思ってそう答えた。だけど、俺の行為が不自然に感じたのか、眼の前のナースから返ってきたのは返事ではなく、俺を疑うような視線。

 どういうことだろうか?

「確かに、今の稟太郎くんの言い分には納得できます。ですが、さっきのナースステーションのあなたが尾を引いているのか、妙な違和感を感じます。……ですので、無礼と承知しながら訊かせて貰います。奈央ちゃんの都合が良い時というのは、いつですか?」

「無礼って……そんなたいした質問じゃないじゃないですか。まあ、答えますけど、都合の良い時っていうのはもちろん、彼女が起きている時ですよ。じゃないと話をすることが出来ないじゃないですか。それと、さっきノックするのをためらったのは、もしかしたら寝ているかもしれないと思ったからですよ」

 ナースの眼が泳いでいる。……人間の眼が泳ぐ時は、嘘を吐いた時が一般的だが、今回は違う気がする、嘘ではなく動揺。心理学者ではないから詳しくはわからないが、俺はそう思った。

「稟太郎くんは……彼女が起きている時に会ったことがあるのですか? それに話しもしたことがあると?」

「そうですよ」

 俺は迷いなく答えると、ナースの俺の気を疑うような視線はついに諦めになった。

「それが本当であれば喜ばしいことなのですが……。あなたが奈央ちゃんのお見舞いに毎日来ているように、私も奈央ちゃんの部屋に毎日来ています。……ですが、私は彼女が起きているところを見たことがありませんし、ましてや、会話なんてこともしたこともありません」

 ……この人は、いったいなにを言っているんだ?

「……そんなに信じられないのであれば、ドアを開けて中に入って確かめたらどうですか?」

 ナースは、再度を奈央が居るであろう部屋に手の平を向ける。

「あなたの幻想が正しいか、それとも私の現実が正しいか分かるはずです。……一応言っておきますが、ノックをしても返事は返ってはきませんよ」

 ナースの言い分に、『嘘だ!』と高々に叫びたかった。だけど、俺のいた世界とは少し勝手が違うのは先ほど経験済み。

 だから、このナースは本当のことを言っているんじゃないかと思ってしまう。だけど、それを認めてしまうと、俺は……。

 葛藤と戦いながら、俺は扉の前に立つ。

 ……もしかしたら、この先には待つのは悲しみかもしれないと知りつつも、知りたいという好奇心に身を任せて、扉に手をかける。

 まるで『パンドラの箱』だな――災いが詰まっていると知りつつも、好奇心から箱を開けてしまい、地上に災いが降り注いでしまった、だけど、すぐに『パンドラの箱』を閉じることで希望が残った――そんな物語。

 この話は、開けてはいけない箱もあるという訓告のようなものだが、俺からすれば、開けなければ箱の中身は分からないままだし、それに『パンドラの箱』を開けてしまっても、すぐ閉じようと対処したからこそ、希望が生まれたんだと思う。

 だから、この部屋の中の真実を知っても、俺は受け止めて見せる――。

 そう誓い、俺は扉をスライドさせて中に入った。



「…………奈央……」

 部屋の中には確かに会いたかった奈央がいたが、ナースの言っていたように起きてはいなかった。だけど、まだ悲観するには早い。俺が予想していた通り、俺が帰った後に寝てしまっただけかもしれない。

 俺は奈央を起こそうとベッドに近づく。寝顔は生きていることを物語っていたが、肌の色は不健康そうに血色が悪かった。俺の世界の奈央も、病院で寝たきりではあったが、ここまで不健康そうな肌はしていなかったことが、俺の不安をかきたてる。

「寝ているところ悪いんだけど、起きてくれないか? 奈央」

 ……奈央からの返事はない。

 今度は右肩を軽く揺すってみる。

「なあ、奈央……寝ているんだけだろ? 起きてくれよ……」

 ……返ってくるのは規則的な寝息のみ。

「なあ、起きてくれよ。奈央!」

 強く肩を揺する。これで寝ている人間は起きてしまうし、もし、寝ているふりなら、何らかのアクションを起こすだろう――が、何の返事も動きもなく無反応。

「なあ! 起きて――」

「もういいでしょう!」

 いきなりの肩に衝撃がくると、俺は奈央から離れていく。思わず手が伸びる。

「奈央!」

 だけど、奈央には届かず段々と離れていく。俺を奈央から引き離したのはナースだと、壁際まで引き離されるまで気付けなかった。

「奈央ちゃんは、この病院に来てから一度も意識を取り戻したことはありません。あなただって承知していたことでしょう?」

 奈央の容態を実際に見てからの再度通告に、俺はまた膝から崩れ落ちた。

「……そん、な……奈央……」

 俺の視線の先には認めたくない事実があり、そこから視線を外したかったが、外した瞬間にでも奈央が起き上がるんじゃないかなんて、淡い気持ちがまだあったが……俺はすでに理解していたし、これで、俺が奈央の病室に長く居た理由が分かった。

 奈央に意識がなかったから、長く病室に居ても気まずくなることがなかったんだ。それに、前の世界では、会話をしてすれ違って遠慮して気まずくなって、俺は一人称を『僕』に変えていたが。たぶん、こっちの世界の俺は、会話をしていないから気まずくなることもなっていないはずだ。だから、一人称を変えずに最初から『俺』なんだと思う。

 会話がない……つまり意識がない……それを認めたくない、認めたく……なかったんだ……。

「……奈央……」

 認めてしまった俺の眼からこぼれるものがあったが、それらを拭う気力など、俺にはなかった――。

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