大東亜共栄帝国に住まう少女の失恋

狛咲らき

帝国の大原則

『大東亜共栄帝国言論統制省から帝国民の皆様にお知らせです。1月2日午前0時になりました。本日の禁語をお知らせします。


 本日より“朝ご飯”を禁止します。


以上、大東亜共栄帝国言論統制省でした』

















 正月は最高だ。


 布団に包まりながらそう思う。お年玉貰えるし、餅は美味しいし、こうして日中ごろごろしていてもお母さんが文句を言いに部屋に来ることはない。これが年末だったら「ちゃんと掃除しなさい」とか言ってくるし、正月が終われば「もうすぐ学校だけど、宿題やったの?」と何度も確認しにくるだろう。だけど今は正月だから、お母さんも下のリビングでお汁粉でも啜りながらテレビを楽しんでいるに違いない。


 1年で最も人の気が緩む時期。それが正月なのだ。


「でも、そろそろ準備しなきゃ」


 スマホに表示された10時30分という時間を見て、私は持てる力のすべてを使って何とか布団から抜け出した。


 立ち上がり、ほんの数秒前まで堪能していた天国を見下ろすと、もう少しだけ寝転がっていても良いんじゃないかなんて誘惑に駆られそうになる。だけど、私は今日という日を楽しみに待っていたのだ。冬の天使の囁きから目を逸らし、クローゼットを開ける。それから、昨晩何時間も考えて決めたコーデに着替えた後、リビングへ向かった。


「あら、おはよう」


 リビングでは案の定、お母さんがお汁粉を啜りながら正月特番を観ていた。


「どこかにお出かけ?」


「おはよ。まぁね」


「ふーん……楽しんできてね」


 私の服装をまじまじと眺めて、ニヤニヤしながらお母さんは言った。


「何笑ってんの」


「別にぃ? ふふっ、大丈夫よ。ちゃんと可愛いから」


「……ならいいけど」


「それで、どうするの? お汁粉いる? 向こうで食べてくの?」


「ちょっとだけちょうだい。お昼は一緒にって約束だけど、代わりに」


「はーい。すぐできるから待っててね」


 そうして私はお汁粉を堪能し、諸々の準備を済ませた後、玄関へと向かった。









 チッチッチッ、と進む腕時計の針に呼応するかのように、胸の高鳴りは大きくなっていく。

 電車に揺られて数分、高校から1駅のところの改札口で約束の時間を今か今かと待っている。


 スマホのカメラを使って最終チェックだ。寝癖はないか。メイクはミスってないか。彼に「可愛い」って言ってもらえるか。


「大丈夫。お母さんにも言ってもらえたし」


 スマホをお気に入りのバッグにしまい、彼の最寄りの駅の路線のホームに続く階段に視線を向ける。1〜2分ほど待つと、数え切れない人達が駆け上ってきた。

 楽しそうに子どもと手を繫ぐおばさん、正月なのにスーツを着てる老け顔のおじさん、髪を赤やピンクや白に染めてる頭もおめでたそうな大学生っぽいお姉さん、それから──。


「おまたせ〜。待った?」


「う、ううん、今来たとこ」


 大好きな彼と目が合い、思わず息を呑んだ。


 黒いジャケットの外からでも分かるくらい、不審者に襲われても守ってくれそうな筋肉質な身体に、部活で日焼けした肌。でも顔や髪は毎日手入れをしているのか艶があって、漢らしく精悍な顔立ちの中に、真面目さや他者を気遣う優しい一面が垣間見える。安心したようにふっと笑みを浮かべる彼の周囲には、シトラスの香水の匂いが漂っている。


 私が愛していて、私を愛してくれている彼だ。


だね」


「だね。


 正月の挨拶を早々に終わらせ、私が「それじゃ、行こっか」と彼の手を引こうとすると。


「待って」


 彼は一歩後ろに下がって、下から上に、私の姿をじっくりと眺め始めた。お母さんの時と同じように、いや、お母さんよりも丁寧に。


「一言だけ良い?」


「な、何?」


 ドキドキしながら返答を待つ。まるで何か大きな大会の決勝戦で、今にも審査員の評価が下されようとしている場面のような、1年の運命を決定付ける瞬間だ。

 大吉だとかだとか、そんなくだらないことじゃない。今年も彼が好きな私でいられるかという、根本的な話なのだ。


 もし彼がこのコーデが好きじゃなかったら。イマイチな反応をしたら。

 そんな不安を抱える私に、彼は笑顔でこう言った。


「めっっっちゃ可愛い! 超似合ってる! 流石俺の彼女!」


「……三言じゃん」


 気付けば、自然と私も笑顔になっていた。

















 彼に思い切って告白したのは2年前の秋。文化祭の前日だった。


 あの時の緊張は今でもよく覚えている。明日は全力で楽しもう、なんて言いながら皆が帰った後、日がほとんど沈んでしまった時間。縁日のような飾り付けが施された教室で、勇気を出して彼に伝えたのだ。


「初めて会った時からずっと好きでした」


 きっと私以外にも彼のことが気になっていた子は沢山いたんだと思う。実際、彼に告白して見事に玉砕してしまった、なんて話も何度か聞いたことがあった。その子達は私なんかよりもずっと可愛くて、ずっと良い子だった。


 そんな彼女達が振られてしまったのだ。だから私なんてそもそも眼中にないだろうと思っていた。

 いろんな子達からの好意に埋もれてしまった私のことなんて、何にも思ってないのだと。


「付き合ってください」


 それでも、私はその言葉を口にしたかった。


 ダメ元で、なんてわけじゃなくて、ただただこの想いを伝えたかったのだ。

 彼と一緒にいたい。彼と他愛もない話をしたい。彼に抱き締められたい。彼とキスをしたい。


 心臓が破れ割いてしまいそうなくらい大きなこの感情に呑み込まれ、支配されていたのだ。


「──」


 少しだけ、彼が答えるまでに間があった。これだけ間近で、しかもふたりきりで話すことが初めてだったから、彼の顔を見れなかった。当時はどんな反応をしているのか怖かったけれど、今にして思えば、彼は驚いていたんだと思う。


 そして、嬉しかったんだと思う。


「実は俺も、周防すおうさんのこと気になってたんだよね」


 頭を深々と下げる私に向かって、彼は言った。


「真面目だし、気配りができて、優しくて。文化祭の準備も積極的にいろんな人のところに手伝いに行っててさ」


「え、えっ!?」


 急に褒めちぎられて、なんて返せばいいか分からなかった。冬の寒さが目立ち始めたというのに、頬は火傷しそうなくらい熱い。


「そ、そんなことないよ」


「いやいや、あるよ。だって俺、入学式の時からずっと見てたもん」


 その言葉に驚いて、思わず顔を上げる。

 彼と目が合う。大好きな彼が私を見つめている。私と見つめ合っている。


 その顔は、私以上に真っ赤に染まっていた。


「俺なんかで良ければ……いや違うな」


 照れくさそうに笑う彼は首を振って、こう言った。


「俺を選んでくれてありがとう。こちらこそ、よろしく■■■【思考検閲済】します!」

















『お客様、 今年も何卒当店をお楽しみくださいませ! 三が日でも当店は通常通り営業しています──』


「いただきまーす!」


 店内のアナウンスや行き交う人々の声が耳を掠める中、ショッピングモールのフードコートで私達は手を合わせた。

 美味しそうにハンバーガーを頬張る彼を眺めていると、私も同じ物にすれば良かったかも、なんて考えてしまう。


「一口いる?」


 そんな私の視線が気になったからだろうか。彼はハンバーガーを手渡してくれた。食べかけのそれに、私も齧ってみる。


 美味しい? と、彼は首を傾げた。もちろん美味しい。彼が口にしたものはどんなものでも最高だ。けれども、彼自身は、私が間接キスに喜んでいることに全然気付いていないらしい。


 付き合い始めて1年と数ヶ月。あれから何度も一緒に出かけて遊んだが、彼への想いはどんどん強まる一方だった。世のJKは、たかだか3ヶ月とかで倦怠期とやらに見舞われるそうだが、そんな程度の愛情で付き合うなと私は言いたい。付き合うということは、お互いを尊重し合い、美点も欠点もすべて引っ括めて共に過ごすということだ。やれ付き合ってみたけど趣味が合わないだとか、やれ彼氏が我儘過ぎるだとか。その程度で愛を失うなんて、なんて情けないことだろう。


 当然だけど、彼にも欠点や短所はある。ちょっと短気なところとか、箸の持ち方が変なところとか、謎にプライドが高いところとか。他にも小さなことを含めて、直してほしいと思ったところはいくつもある。でも、私はそれを最低限度にしか指摘しない。


 だって、彼の良いところなんてそれ以上にあるからだ。店員さんにはすごく丁寧に接するし、男が忘れがちな記念日のこともちゃんと覚えてくれてる。ファッションセンスだって良くて、今日だって、ご飯の前に私に似合う服を何着も選んでくれた。

 他にも山程、それは山程ある。そんな彼をたかだか「〜〜が気になる」という理由だけで突き離すはずがない。


 私は彼を愛してやまず、そして彼も私を愛してくれているのだから。


「そういや、映画って何時からだっけ」


 未だに間接キスで悦に入っている私に、腕時計を見ながら彼は問いかける。そうだ、まだ幸せは続くんだ。


「あと1時間くらいかな。どうする? 劇場近いし、もうちょっとここにいても……って、思ったよりも混んできてたか」


「そうだね。迷惑にならないうちに行こっか。ほら、波奈はなちゃんも。伸びるよ」


「う、うん」


 彼に見守られながら急いで味噌を啜り、私達は映画館へ向かった。


 ショッピングモールを出た瞬間、凍てつくような寒さと、青白い直射日光が私達を出迎えた。たった一歩外に出ただけで、ぽかぽかしている身体から急激に熱が奪われていくのを感じる。正月の、というより冬休みの2つある欠点の内の1つだ。ちなみにもう1つは単純に休みの期間が短いこと。


 1階にがあったし、そこでカイロでも買ってから行けば良かったかな、なんてと思っていると。


『この国は間違っている!』


 怒声に近い叫びが拡声器を通してけたたましく耳を劈く。声のする方を見ると、20〜30代の男女何人かが、路上でプラカードを掲げていた。


 禁語を廃止せよ!

 言論に自由を!


 プラカードにはそう書かれてあった。


『我々は言葉を制限されている! 話したいことを話せない世の中を、どうして認めなければならないのか!』


「「そうだそうだ!」」


『現皇帝が忌々しくも玉座に就いてから7年が経とうとしている。かの皇帝の悪政により、言葉だけでなく文化も消えゆくばかりだ! 7年前の今日は、我々は皆、初詣に出掛けていたはずではなかっただろうか!』


「「文化を壊すな!」」


『今こそ、を起こすべき時ではないか!』


「「を起こせ!」」





「……行こっか」


 新年早々嫌なものを見た私の手を彼は優しく引っ張った。


 休日ということもあって、映画館はたくさんの人で賑わっていた。

 自販機でジュースを買って彼と駄弁ったり、グッズショップの中を見回したりしていると、館内に響くアナウンスが聞こえてきた。


『ただ今より、上映の映画『キューピッドの恋〜天界のラブ・ロマンス〜』の入場を開始します』


「何の前情報も仕入れてないけど、ラブコメなんだよね?」


 彼の問いに私は頷いた。


「マンガ原作でね。結構前に完結してたんだけど、アニメの方はちょっと話題になって。といっても、私もラストのシーンしか知らないんだけどね。……あっ、もしかして嫌だった?」


「大丈夫、大丈夫。なんか面白そうだし。波奈ちゃんが観たいものは俺だって観たいよ。ところでどうする? 何か食べる?」


「んー。じゃあポップコーン食べたいかな。味」


「いいね。俺もそれにして、メガサイズ一緒に食べよう」


 そうしてポップコーンとジュースを買って、シアタールームに入る。他の映画の宣伝や、映画館に行けばポイント、みたいな映像が流れた後、暗がりの中で静かに上映が始まった。


『本作での台詞および作中内の文字は、言論法第二十九条に基づき、毎日初回上映前に検閲および修正を行っております。 浜那須映画館 館長』


 いつものように10秒程度のテロップが流れると、場内は私達が抱く微かな高揚感に反して暗闇に染まった。しかしそれは一瞬のことで、スクリーンから発せられる心地良い眩しさと共に、物語の世界への扉が音を立てて開く。


 舞台は雲の上にあるとされる天界。そこで人間の恋を成就させるのが仕事のキューピッド達がお互いに恋をしたり、あるいは人間に想いを寄せるようになったりと、様々な恋愛模様を繰り広げる。

 そんな恋愛群像劇を前に、時に笑い、時に涙を流し、胸をときめかせながらキューピッド達の恋を応援するというのが、この作品の楽しみ方だ。


 原作は15年前くらいに終わったけれども、現代の文化や価値観を上手く落とし込んでいて、観ていて違和感を抱くことはない。笑えるところはちゃんと笑えるし、男女の感情の揺れ動きには思わず心ときめいてしまう。映画をそんなに観ることがない私でも、これはマンガ原作の実写の中でもかなり『当たり』の部類に入ることは分かった。


『待ってよ〜! My Hanny〜!』


 お調子者のキューピッドが無駄に発音良く叫びながら、ぷりぷりとした様子の想い人──もとい想い天使を追いかける。


 そんなシーンにくすりと笑みを零したところで、不意に、彼の様子が気になった。私から誘ったのだ。反応が良くないと申し訳なくなる。趣味に合わなければ、こういうギャグも薄ら笑いさえ出ないものだ。


 この2時間弱が彼にとって苦痛でなければいいが……。

 おずおずと隣の席を盗み見る。


「──ははっ」


 目を細め、口元を緩める彼はスクリーンに夢中だった。シーンごとにコロコロ表情を変え、指でつまんだポップコーンは食べることも忘れているのか、口に運ぶ気配もない。そうして次の展開はどうなるのだろうかと期待を膨らませるその様子は、まるで幼い子どものようで、なんとも愛らしかった。


 どうやら、杞憂だったみたいだ。


『──フローラちゃん。改めて言います。僕はフローラちゃんのことが大好きです』


 お調子者のキューピッドが真面目な声色で、そして本気で想いを告げる。

 おちゃらけた言動をするキャラクターが真面目になると、普段とのギャップにぐっと来るものがある。それに、こういう告白シーンは文化祭の前日のあの時と重なって、物凄くキュンキュンしてしまう。


 さらにそれだけではなく。


「──」


 私の左手が、温かく、ごつごつとした優しい手に覆われる。

 今でもその顔はスクリーンに向いているのに、全然私と目が合わなかったのに、この人はしれっとこういうことをする。


 好きな人と観る恋愛映画は、やっぱりいつもの2倍くらいドキドキする。薄暗いというには眩し過ぎるシアターの中、同じものを共有し、同じタイミングで胸をときめかせ、そして触れ合う手と手を通してその感情が伝わってくる。

 あぁ、やっぱり私と彼は気が合うんだと、優しく握られたその手から分かる。それが嬉しくて、楽しくて、これ以上の幸せなんてないんじゃないか、なんて思ってしまう。


 でも幸せの時間と言うのはいつだって有限だ。しかも幸せに感じれば感じるほどその時間は短くなってしまう。


『奈緒子さん』


 いよいよ物語もクライマックス。


 星のように輝く夜景を、主人公ポジションのキューピッドとメインヒロインの人間とが2人きりで仲睦しく眺めている。

 これまで何組かの恋愛模様を覗き込んできたが、主人公とヒロインで遂に最後。主人公が勇気を出してヒロインに告白するのだ。しかも今まではキューピッド同士の恋に焦点を当てていたが、今回はそもそも主人公がキューピッドであることをヒロインは知らない。人間界では天使の輪を外し、背中の羽を隠していた主人公を、ヒロインは同じ人間だと思っているし、そもそもキューピッドなんて御伽噺という世界観だ。もしかしたら彼女は自分のことを受け入れてもらえないのでは、と主人公はずっと言い出せなかった。


 だが、他のキューピッド達が結ばれ、幸せになった姿を見て、このままではいけないと覚悟を決めたのだ。


『実は俺、奈緒子さんに隠してることがあるんだ。とっても大事なこと。本当はもっと早くに言っておくべきだったのに』


『えー、急に何? そんなに言い辛いことなら、別に無理して話さなくても良いんじゃない?』


『いや、言わなきゃダメなんだ。俺と奈緒子さんの未来に関わる話だから』


『未来……』


 その単語を復唱したヒロインも、とても大事な話なのだと悟って真っ直ぐ主人公を見つめた。


『奈緒子さん。俺、本当は』


 ふっと深呼吸をひとつして、主人公はキューピッドとしての本来の姿を明かす。服を突き破って背中から羽がピンと伸び、頭の上に黄色い輪が広がる。


『え、えぇっ!?』


 目を大きく見開くヒロインに、主人公は続ける。


『驚かせてごめんなさい。そして今までずっと奈緒子さんを騙してたことも。でもやっぱり奈緒子さんにはちゃんと伝えないとダメだって思ったから』


『え、えっと……何? ドッキリ?』


『違うんだ。これは嘘でも夢でもない。見ての通り俺は人間じゃない。人間キミ達の恋を応援するキューピッドなんだ!』


『キュー、ピッド……?』


 ふわりと地面から足を離し、そのまま浮き続ける主人公。

 そんな彼を、建物の角に隠れる他のキューピッド達が応援している。


 キューピッドの役割は2人の男女に恋の矢を飛ばし、恋愛をサポートすること。矢で射られた2人は必ず恋に落ち、幸せに結ばれる。しかし、キューピッド達はあえて主人公にもヒロインにも矢を向けなかった。


 何の力も働いていない。だからこの場の誰も、この先の展開を知ることができない。


『俺はキューピッド失格だ。人間の恋のために頑張らなきゃいけないのに、ずっと奈緒子さん、キミのことばかり考えてしまう』


 少しずつ状況を飲み込んできたヒロインに向けて、主人公がそう零す。


『キミとの関係を壊したくなかったんだ。こうして2人で話して、笑い合って。そういう時間がずっと続けばいいのに、って何十回、何百回と願った。でも、上辺だけの付き合いを続けても、奈緒子さんを傷つけるだけだ。……だから』


 そうして、ラブコメ作品屈指の名シーンが繰り広げられる。

 アニメで話題になったのも、このシーンやセリフが、2人の掛け合いがあまりにも良かったからだった。一時期SNSでトレンドにもなったし、何かのバラエティのアニメ特集でも取り上げられていたのを覚えている。


 それが実写版だとどうなるのだろうか。


 期待が膨らみ、胸の鼓動が速まっていくのを感じる。

 このドキドキとした気持ちに応えるように、主人公はヒロインに手を伸ばし、こう言った。


『奈緒子さん。こんな俺でも、どうか一緒に■■■■■(自主規制音)を』





 突然、シャットダウンしたかのようにスクリーンが真っ黒に染まった。

 程なくして、スクリーンには白く大きな文字でこんなテロップが表示された。


『この先、禁語の発言および表示箇所が多数確認されましたので、一部内容を編集いたしました。ご理解の上、お楽しみください。 浜那須映画館 館長』


 10秒後、再び物語の幕が上がる。CMで何度も聴いたことのある曲が流れだし、下から上へと文字が流れてくる。


 それがスタッフロールだと気付くのに、そう時間はかからなかった。









「いやぁ、面白かった!」


 上映終了を告げる点灯と共に嘆息を吐いた彼は、開口一番にそう言った。


「実は最近の実写映画ってあんまり好きじゃなかったんだよな。これは良かった」


「ね。大事なところで検閲が入っちゃってたのが残念だったけど」


「まぁ仕方ないよ。けどまぁ、他のカップルの告白シーンとかすっげー良かったし、全然楽しめたよ」


「そう? それなら良かった」


 最後が最後なだけにまたしても不安が過ぎったが、嘘が下手な彼のことだ。やっぱり杞憂に違いない。映画という作品の性質上、修正が入るものだし、そういうところはもう割り切っているのかもしれない。


 そんなこんなで映画館を出ると、外は少し日が落ちていて、夕焼け空を小さな雲がぽつぽつと泳いでいた。


 楽しい時間もあっという間。とはいえまだ時間はある。また別の日に遊ぶのもアリだが、ちょっとショッピングして、一緒にご飯を食べて、映画を観ただけだ。もっと彼と一緒の時間を過ごしたい。


 少しだけカラオケでも行こうかな、でも正月だし、この時間はどこも混んでそうだな。というかそもそも開いてるのかな。なんて考えながら歩いている時だった。


『言葉を、開放せよ!』


「「開放せよ!」」


『言葉は、自由だ!』


「「自由だ!」」





「……まだやってたんだ、あれ」


 ショッピングモールを出た時に見た団体は、依然として不快な声を馬鹿みたいに吠え散らかして、乾いた寒空を震わせていた。


「馬鹿みたいっていうか、馬鹿だよね。そんなので変わるわけないのに」


「あぁ」


「それに、なんであんなに訴えてるのかもイミフだしね。この国の大原則なんだし」


「そうだな……」


 口数少なめに彼は答えた。

 目を鋭く細め、下唇を少し噛んでいる。それなりに苛立っている証拠だ。


 彼の気持ちはよく分かる。この国は他のどこよりも教育とか経済とか、あらゆる面でトップクラスで、治安だってもの凄く良い。昔は少子化だとかだとかイジメだとかが問題視されたけど、今はほとんどない。年間のだって以前は世界で1、2を争うほどだったのに、昨年の人数は片手で数えられるくらいだったそうだ。それもこれも7年前に就いた皇帝陛下の圧倒的な善政や外交術、そして何より国民に寄り添う人柄によるものだ。

 私は7年前はまだ小学生だったけど、それでも両親や街の雰囲気が、当時よりもずっと和らいで、笑顔が増えているとは思った。


 現皇帝陛下は理想郷を作り出したのだ。私達はもっと感謝するべきなのに、どうしてあの団体はそれを仇で返す真似をするのだろうか。そんな素晴らしき陛下が定めた決まり事を、どうして破りたがるのだろうか。


 使っちゃいけない言葉を使わない、ただそれだけでどこよりも幸せに、楽しく日々を過ごせるのに。


「強欲な奴らだ」


 彼の独り言に私は頷いた。

 団体の前をいろんな人達が通り過ぎる。私達と同じ学生や、くたびれた社会人、仲睦まじい親子──。皆が皆、彼らを一目見るや怪訝な表情を浮かべながら足早に去っていく。だから、私達も劇場に行く時みたいにさっさと通り過ぎようとした。


 そうしなかったのは、あの団体の元に変化が訪れたからだ。


「はい、皆さん。動かないでね」


 深々と帽子を被り、緑色を基調とした衣類を身に纏った男が数人やってきて、団体を取り囲む。

 誰かが通報してくれたのだろう。言論統制省直属の公的機関、言察が来てくれたのだ。


「あなた達、の申請出してないでしょ。やるのは構わないけど、ちゃんと通すところは通さないと」


『ふざけるな! 申請したらしたで不適切だと払い除けるのはお前達だろう! 我々は屈しない! 洗脳なんてされるものか!』


「「そうだそうだ!」」


「うっさ……こんなに近いのに拡声器で話さないでくださいな。ほら、今すぐ撤収しなさい」


『断る! 我々はこの世界を変えるために立ち上がったのだ。我々が民衆の目を覚まさせなければ、一体誰がこの悪政を変えられようか!』


「「世界を変えよう!」」


「そんなに不満があるなら海外にでも行けば良いのに。いや、恵まれているって自覚がないのは陛下のご意思が叶えられていない証拠か」


 言察の代表者っぽい人は何やら独り合点をして、うんうんと頷いた。


「分かりました。あなた達の意思は上の人にも伝えておきます。ですので、今は解散を──」


『そんなもの信じられるか! 我々が欲しているのは見せかけのハリボテではない。要求が通ったという結果だ! それまで我々はこの場から動きはしない!』


「いやだから、その要求を通すために……もう、埒が明かないな」


 肩を竦めた言察は懐から何かスマホのような端末を取り出した。それからその画面を団体に見せると。


「ところで皆さん、これについてどう思いますか?」


『あー? ……──ッ!』


 画面に何が映っていたのか、団体は皆大きく目を見開いたかと思えば、すぐに虚ろな目になった。


 そんな彼らに言察は命じた。


「それでは団体の皆さん、禁語をお話しください」





『……


 拡声器を持つ人に倣って他の者達も次々と禁語を口にする。



「……はい。全員禁語を口にしたということで、言論法第11条1項に基づき、あなた達の身柄を拘束しますね」


 そうして団体はふらふらとした足取りで言察に連れて行かれた。


「……なんか萎えたわ」


 一部始終を見届けた後、舌打ち混じりに彼は言った。


「今日はもう解散しよう」


 ちょうど私もそんな気分だったので、駅まで真っ直ぐ向かって、またね、と互いに手を振り合ってそれぞれの帰路についた。

















『大東亜共栄帝国言論統制省から帝国民の皆様にお知らせです。1月3日午前0時になりました。本日の禁語をお知らせします。


 本日より“かまいたち”を禁止します。


 以上、大東亜共栄帝国言論統制省でした』






『大東亜共栄帝国言論統制省から帝国民の皆様にお知らせです。1月4日午前0時になりました。本日の禁語をお知らせします。


 本日より“激辛”を禁止します。


 以上、大東亜共栄帝国言論統制省でした』






『大東亜共栄帝国言論統制省から帝国民の皆様にお知らせです。1月5日午前0時になりました。本日の禁語をお知らせします。


 本日より“蛍光灯”を禁止します。


 以上、大東亜共栄帝国言論統制省でした』






『大東亜共栄帝国言論統制省から帝国民の皆様にお知らせです。1月6日午前0時になりました。本日の禁語をお知らせします。


 本日より“ありがとう”を禁止します。


 以上、大東亜共栄帝国言論統制省でした』


















「……いやぁ、もう学校始まっちまったなぁ」


 乾いた風が吹く学校の帰り道、隣を歩く彼が残念そうに呟いた。私も同意を込めて頷く。


 夏休みや春休みもそうだが、冬休みは特段、実際の日数と感覚的な時間に相違があるように思える。それは冬の昼間が短いこともあるけれど、や大晦日、それにお正月と、大きなイベントが立て続けに起きていることも理由だろう。


 今回のは本当に楽しかった。今回からや、七面鳥を食べる習慣が廃止になってどうなるかと思ったけれども、12月25日という日の本質は、愛する人と一緒に特別な時間を過ごすことにある。彼も例年とは異なる雰囲気を盛り上げるためにケーキ屋巡りを提案してくれたし、最後は綺麗なイルミネーションを眺めながらキスというロマンチックなこともできた。今年もまた、幸せな時間を過ごせるに違いない。


 と、ついつい惚気て思考が脱線してしまったが、やっぱり学校が始まってしまうと、彼との時間が減ってしまうのが辛いところだ。学校そのものは嫌いじゃないけれども、せめて3年生になったらまた彼と同じクラスになりたいなと思う。


「明日からの部活は良いんだけどなぁ」


 溜息混じりに彼がそう呟く。


っても3学期って短いし、すぐテスト来て、卒業式だの終業式だの終わったら、もう俺達3年生だぜ」


「なんか、本当にあっという間だよね。大洋たいようくんに告白したのがつい最近みたい。物凄く色濃い日々ばっかなのに」


「それな。正直、未だに波奈ちゃんと一緒に下校してるこの状況が信じられない自分がいる」


「ちょっと、何それ」


 真っ直ぐな眼差しでそう言われると、気恥ずかしくなってしまう。

 頬の紅潮が抑えきれなくなって、咄嗟に彼がくれたマフラーで顔を隠す私に、彼は続けて言った。


「冗談じゃなくてさ。本気で波奈ちゃんとお付き合いできてるのが、堪らなく嬉しいんだ。2日のショッピングや映画とか、の時とか、俺はずっと幸せで、夢でも見てる気分だ」


「──」


「だから波奈ちゃん。改めて、俺を選んでくれてあ……サンキュー。そして、これからもよろしく!」


「……わ、私の方こそ、よろしく」


 心臓が自分でもビックリするくらいドクドクと音を立てている。


 急にそんなことを言われたら、頭真っ白になっちゃうよ。特別な日でも何でもないのに、時偶ときたま彼は場所に依らずに私に私以上の愛を投げかけてくれる。


 彼の真っ直ぐなところが好きだ。

 照れながらも私を好きだと言ってくれるところが好きだ。

 私と一緒に過ごすことを素直に喜んでくれるところが好きだ。


 思えば、入学式の日から私達は結ばれる運命だった。同じクラスになって、毎日が心の底から楽しくて。2年生になってクラスが離れ離れになっても、恋人という事実は変わらない。もし1年生の時に別のクラスだったら、きっと付き合うこともなかっただろう。


 だから私は、彼と同じくらい運命を──恋の神様を愛している。少し何かが違えばこんな幸せな日々は送れなかった。感謝してもし足りないし、この大切な機会を1分1秒でも心に留めたいと思う。


 永遠の愛を本気で誓うことこそ、彼と神様への恩返しなんだ。

 彼とずっと一緒にいて、ずっと愛し合って、最終的には結婚して幸せな家庭を築いて──。


「……あっ、そうだ」


 そんな妄想が頭を過ぎり、不意に私は彼に渡すものがあったことを思い出した。

 鞄から包装された箱を取り出す。


「何それ?」


「3日にお母さんの実家に行ってね。その時のお土産。大洋くん、イチゴ好きだったでしょ? だからこれ、イチゴクッキー」


「えっ、良いの? めっちゃ美味そうだけど」


「良いに決まってるじゃん。大洋くんに喜んでもらうために、いろんなお土産屋寄ったんだから」


「マジかぁ。嬉しいなぁ」


 本当は生のイチゴが良かったけれど、キラキラと目を光らせているその様子を見て、時間かけて探した甲斐があったとも思う。


 いつか一緒におばあちゃんに行ったりするのかな。


 またもや愛おしい妄想が脳内に流れそうになったので、私はぶんぶんと頭を振った。

 でもどうか、この夢が現実のものとなりますように。


「はい。どうぞ」


「いやぁ、マジで…………あっ」

































「最低」


 それは決して冗談ではなく、吐きたくなるような嫌悪感から漏れ出た本音だった。

 血の気がすっと消えて青ざめていく彼。それに呼応するように私の中の『何か』が冷めていくのを感じた。


 私は呆れつつも訊ねた。


「何考えてるの? なんでそんなこと言ったの?」


「ご、ごめんっ! つい口が滑って……」


「口が滑って?」


 彼の──コイツの声に腹が立ってくる。


 何が『口が滑って』だ。馬鹿らしい。流石、堂々と『禁語』を話せる卑劣漢は言い訳から頭の悪さが滲み出る。


「『禁語』が宣告されたら、ノートに書き込んで、寝る前と起きた後すぐに今までの用語を確認する。それが国民私達の義務でしょ!?」


「そ、そうなんだけど!」


「だったら、なんで禁語なんて言ったのよ!」


「それは……」


 さらに言い訳を重ねようと思考を走らせている様を見て、私は思わず「あのねぇ!」と叫んでいた。


「物を盗んじゃいけないように! 人を殺しちゃいけないように! ルールを守るために何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も確認して、言っちゃダメなんだって心に刻むものでしょ!? どうしてそんなこともできないの!?」


「ち、違うんだ! つい、うっかり……」


「は? うっかりなら何言っても良いわけ? 頭チンパンジーかよ」


 どれだけ怒りを口にしても収まらない。それどころか、コイツへの悪口雑言の数々が無数に脳内に湧き出てくる。


 あぁ、どうしてこんな男にときめいてしまったのだろう。運命の相手だと勘違いしてしまったのだろう。


 悪漢特有の無駄に筋肉質な身体に、運動しか取り柄のないことを示す黒い肌。なのに顔や髪は毎日手入れをしているのが逆に気持ち悪い。そうして見てくれだけは良くして、いかにも「真面目で優しい人間なんです」と上っ面で騙っていることにも寒気立つ。自業自得なのに表情を凍らせているその身体からは、巨漢に似合わぬシトラスの香りを振り撒き、己の醜さを隠そうと取り繕っている。


 こんな男に、どうして1年以上の月日を捧げてしまったのだろう。


「ごめん! 本当にごめんっ!」


 頭を深々と下げながら、震えた声で何か言ってる。

 謝るくらいなら最初からするなって話なのに、猿には分からないものなんだな。


「そもそも私に謝っても意味ないでしょ。すぐに言察来るんだし。ほら見て、犯罪者。あそこの電柱に監視カメラと『監声マイク』があるでしょ。もうアンタの人生は終わりなの。分かる?」


「っ!? それでもっ……!」


「それでも何よ。まさか私に庇ってほしいわけ? アンタにそんな価値があると思ってんの?」


「波奈ちゃん……頼む! 本当に!」


 その言葉はさながらハサミとなって、コイツとの関係の一切を断ち切る最後の決め手となった。


 どれだけ罵ろうとも、コイツは『禁語』を口にし続ける。これ以上不快な気持ちになりたくなかった。


「じゃあね。もう二度と会うことはないだろうけど。てかお土産それも返してよ。……返せ!」


 コイツの手からクッキーをぶん取り、足早に立ち去ろうとする。

 なのに。この男は。


「波奈ちゃんっ……!? 待ってよ! 波奈ちゃんっ!!」


「触らないで! 気持ち悪い!」


 私の手を掴もうと腕を伸ばしてきたので、さっと払い除けた。

 絶望に打ちひしがれているのか、今にも泣き出してしまいそうな顔を浮かべている。でも、こんな奴に憐憫の情をかけるつもりは毛頭ない。帝国民が暮らす上での大原則すら守れないような男に与えるものなど1つとしてないのだから。


 嗚呼、神様。天下を統べる皇帝様。この度し難き罪を重ねた逆賊に鉄槌を。

 平和を望む女子高生を誑かし、限りある青春の大部分を奪った怨敵に多大なる裁きを。


「あぁ……あぁ……っ!」


 膝から崩れ落ちるソイツに唾を吐きかけたい気持ちをぐっと堪えて、私はその場を後にした。


 丁字路を曲がった時、遠くからパトカーや救急車、消防車とも違うサイレンの音が聞こえてきて、乾いた空気を微かに震わせた。









「ただいま」


 玄関を開けると、今から買い物に向かうお母さんの姿が目に映った。


「おかえり〜。ちょうどよかった。何か買って欲しいものある?」


「別に。何もない」


「どうしたの、そんな不機嫌に。何か嫌なことでもあった?」


「…………彼氏だった奴が『禁語』話した」


 言おうか言わまいか迷ったが、結局正直に答えることにした。


「……あー、なんて言うか、災難だったわねぇ」


 お母さんは他に私にかけるべき言葉が見つからなかったようで、ぽんぽんと、私の頭を撫でてくれた。


「今晩は波奈ちゃんの好きなのにしようね。と麻婆豆腐、どっちがいい?」


「……麻婆豆腐。


「分かった。じゃあ行ってくるね」


「うん。いってらっしゃい」


「あっ、あと、『ノート』返ってきてたから波奈ちゃんの部屋の机に置いといたわよ」


「……はーい」


 じゃあねー、とお母さんは軽く手を振ってへと向かった。


 階段を上り、自室の戸を開けると、机に8〜9冊のノートが置かれてあった。1ページ目を開くと、『20250103 検閲済 言論統制省』と書かれたスタンプが押されていて、明日からの授業に間に合って良かったと安堵する。


 そんなノートの数々の中には、表紙がピンク色のものが──あの猿との交換日記があった。いつでも気軽にメッセージ交換ができる時代に交換日記なんて、と今更ながら思うが、当時はこんなくだらないことが日々の生きがいになっていた。


『2023年11月7日(


 今日から周防さんとの交換日記が始まる。めちゃくちゃ楽しみで、めちゃくちゃワクワクしてる! 


 今岡センのを聞きながらこれ書いてるんだけど、何にも頭が入らない。文化祭も終わったし、あっという間に■■【20250103 禁語検閲済】試験が始まるけど、周防さんは大丈夫?


 ……交換日記ってこういうのでいいのかな。なんか変なこと書いてたらごめんね。とりあえず最初はこんなカンジで。


 じゃあ改めて、よろしく■■■【20240302 禁語検閲済】します!』


 一部の文字が真っ黒に塗り潰されて読めない。けれども、まるでアイツとの思い出が消えていくようで、私にはそれが嬉しかった。


 から着替えようとクローゼットを開ける。すると、この前アイツと一緒に買った服が目に入った。


 その瞬間、アイツの「可愛い」という言葉が脳内に響き渡る。


「あー! キショいキショいキショいッ!」


 全身が寒気立ち、急いでトイレへ向かう。そうして胃の中を空っぽにすると、今日は午前中で終わったから昼ご飯をまだ食べてなかったことを思い出す。冷蔵庫を開けると昨日の晩御飯の残りがあった。おそらくお母さんが私の昼ご飯用に用意してくれていたのだろう。それを手に取り、ラップもせずにそのままレンジへ放り込む。


 ブーン、チン。


 美味しそうな香りが部屋中に漂い、こんな気分でも否が応でも腹が鳴る。熱くなった皿をタオル越しに掴んでテーブルまで運び、食器具入れから箸を取り出す。

 しんと静まり返ったこの空間にいると、さっきのことを思い出しそうになって嫌になる。気を紛らわせるためにテレビを点けると、そういう時間帯だからか、どこもニュース番組が流れていた。


 つまらないなぁ。そう思っていると、キャスターが突然『速報です。速報です』と声を上げた。


『速報です。えー、つい先ほど、浜名須県浜名須市で男が『禁語』を発言し、その身柄が確保されました。言論統制省のホームページによりますと、男の名前は坂月さかづき 大洋、17歳。県立浜名須高校2年生で、同市の原井町3丁目5番地3号の一軒家に居住。誕生日はの11日、血液型はO型で、これまで犯罪歴と『言論違反歴』はどちらもなかったとのことです。家族構成は父親が2年前に事故で他界しており、母の洋子48歳と弟の洋平14歳の3人で生活。母・洋子は株式会社LJイレブンに勤務、弟・洋平は同県の私立 聖リコリス学園中等部に在籍しています。禁語発言者の顔写真とマイナンバーカードは現在画面に映っている通りです。その他詳しい情報は言論統制省のホームページをご確認ください。繰り返します男の名前は──』


 おそらく最近撮られたのであろうアイツの顔が名前や年齢と共にでかでかと表示されている。


 ワイプにコメンテーターや司会、ゲストらしき人の表情が代わる代わる映し出される。皆平静を努めようとしていたが、眉間に皺が寄っていて、この猿の悪行に対して不愉快な気持ちを抱いていることは明白だった。


『未来ある若者が、よくこんな簡単にこんな重罪を犯せるもんだねぇ』


 白髪のコメンテーターがボソッと呟いたのがテレビを通して聞こえる。全くその通りだ。


 どうしてあんな真似をしたのだろう。

 どうしてあんなに泣きそうだったのだろう。

 どうしてあんなに好きだったのだろう。


 短気で、箸の持ち方がキモくて、謎にプライドが高い傲慢な奴だった。良いところなんて何1つない。仮にあったとしても、そんなものが消し飛ぶほどの業を背負った。

 思い返すだけで虫酸が走る。気を抜けばまたトイレに駆け込んでしまいそうだ。


 そんな救いようのないクズに、どうして、愛を、抱いてしまったのだろう。



「本当、最悪」



 塩気の多い野菜炒めを咀嚼しながら、やっぱり私はテレビを消した。

 そうして1時間かけてそれを食べ終えた後、棚からゴミ袋を取り出して2階の自室へ上がる。


 ペアイヤリング。アイツとの写真。シトラスの香水。財布の中にあったキューピッド達のラブコメ実写映画のペアチケット。


 ていうか、キューピッドが人間に恋するわけないだろ。


 お母さんが帰ってきたのは、お気に入りだったマフラーを袋に投げ入れたそのタイミングだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大東亜共栄帝国に住まう少女の失恋 狛咲らき @Komasaki_Laki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ