『バレエ・メモリック』評:終わらない八月の牢獄、あるいは消失のキュビズム

『バレエ・メモリック』評:終わらない八月の牢獄、あるいは消失のキュビズム


文芸評論家 影山杳


 狂おしい蝉の声は、単なる環境音ではない。それは、終わらない八月の熱気を凝縮した、耳の奥底にねじ込まれる棘だ。照りつける陽光はアスファルトを煮えたぎらせ、揺らめく蜃気楼は、この世界の輪郭を曖昧にする。カレンダーに刻まれた「八月」は、決してその数字を変えることはない。新鋭作家・虚空が創造した『バレエ・メモリック』は、読者をこのような終わらない夏の牢獄へと誘い込む。それは、時間と記憶、現実と虚構が溶解し、混然一体となった迷宮だ。表面的には青春小説の甘美な香りを漂わせながらも、その深層には、禁断の愛、狂気、そして前衛芸術の実験精神が渦巻いている。読者はページを繰るごとに、足元の大地が静かに崩れ去る悪夢を体験するだろう。

 作者名である「虚空」。この二文字を「うつろそら」と読むならば、それは単なる筆名を超え、物語世界の根幹を暗示していると言わざるを得ない。陸、海、そして欠落した「空」の文字は、この世界が何か決定的なものを欠いている、あるいは最初から空っぽなのかもしれないという予感を抱かせる。作中に頻出する「∅」の記号、そして謎めいた少女シオンが口にする「私は1、彼は0」という言葉は、まるでこの世界が二進法で記述された、脆弱なデジタルデータである可能性を示唆しているかのようだ。この蒸し暑い八月の空気そのものが、虚空によってプログラムされた無限ループであるかのように。

 物語の中心に据えられるのは、陸と海という名の双子の兄妹だ。終わらない夏の中で、彼らは互いに強く惹かれ合い、社会の規範や倫理観を踏み越える禁断の愛へと堕ちていく。常識が通用しない狂った時間軸の中では、彼らの背徳を咎める者は存在しない。いや、むしろ、この町全体が、双子の許されない関係を黙認し、共犯関係にあるかのようにすら感じられる。彼らの愛は、アンドレ・ブルトンが『狂気の愛』で高らかに謳い上げた、社会通念という牢獄を破壊する爆弾そのものだ。しかし、それは西洋的な破壊衝動とは異なる。日本のじめじめとした夏、肌にまとわりつく湿気、そして絶え間なく響く蝉の声といった、土着的な風土の中でじっくりと熟成された、背徳と狂気の甘美な蜜酒なのだ。雨の中で交わされる二人のキスは、まるで世界の終末を予感させるほどに耽美的であり、同時に読者の倫理観を深く揺さぶる。

 そして、玲奈の存在の消失。彼女は物語から忽然と姿を消し、「シオン」という新たな名前をまとい、再び現れる。この唐突な変化は、読者の記憶そのものを撹乱する。我々が「現実」と信じているものは、もしかしたら誰かによって書き換えられた、不確かな記憶の断片に過ぎないのではないか? シオンの存在は、フィリップ・K・ディックの作品群のように、我々の現実認識を根底から覆す。彼女の白いワンピースは、無垢さと同時に、この世界の虚無性を象徴しているようにも見える。

 ここで、私は大胆な仮説を提唱したい。シオンは、双子の「母親」であり、この終わらない八月の空間に、何らかの形で介入した存在なのではないか。物語全体を覆う母親の不在、あるいは存在の希薄さは、重要なテーマであり、シオンの出現は、その不在を埋めるための、歪んだ形での母性の顕現とも解釈できる。さらに、彼女を「夏のゴースト」と表現する一節があるが、これは、彼女が単なる母親の代替ではなく、この異常な夏そのものの具現化、あるいはその亡霊である可能性を示唆しているのではないか。

 物語の構造もまた、読者を迷路へと誘い込む。三人称で淡々と語られる地の文の中に、突如として「君たち」という二人称が挿入される。この視点の揺らぎは、読者を物語世界へと引きずり込むと同時に、客観的な視点を奪い、まるで自身もこの終わらない夏に囚われた登場人物の一人であるかのような感覚を与える。さらに、坂の中途にある古書店の店主の視点や、シオンの詩的な断章など、一人称的な語りが不意に現れることで、物語の多層性が強調される。これらの意図的な視点の混乱は、読者の現実感を揺さぶり、物語のメタ構造を形成する上で重要な役割を果たしている。我々は、常に物語世界に完全に没入することを許されず、一歩引いた場所から、この虚構の戯れを観察することを強いられる。これは、作者が意図的に読者の没入を妨げることで、「これはあくまで小説なのだ」という自己言及を行っていると解釈できるだろう。

 『バレエ・メモリック』というタイトル自体が、前衛芸術への深い敬意と目配せを感じさせる。フェルナン・レジェとジョルジュ・アンタイルの実験映画『バレエ・メカニック』。機械仕掛けのイメージの反復と、無調の音楽の不協和音。それは、この物語の時間構造そのものを暗示しているかのようだ。終わらない八月は、まるで故障した映写機のように、同じ場面を繰り返し再生し続ける。登場人物たちは、その中で機械仕掛けの人形のように、目的もなく踊らされている。ラストシーンで陸が見る、回転し続ける傘。それは、まるで永遠に終わらないピルエットであり、この牢獄からの脱出を許さない象徴的なイメージとして、読者の脳裏に深く刻まれる。

 マヤ・デレンの実験映画『午後の網目』もまた、本作を読み解く上で重要な鍵となるだろう。デレンの映画は、夢と現実の間を自由に行き来する、循環的な時間構造を持つ。本作における「終わらない八月」もまた、時間のループ、あるいは異常な延長として現れる。読者は、デレンの映画の主人公のように、同じ夏の日々を何度も体験し、現実と虚構の境界線を見失っていく。陸が見る幻覚、海が感じる既視感、そして玲奈の消失と再登場は、まさに夢の中の出来事のように、論理的な説明を拒否する。

 さらに、物語の中に挿入される詩的な断章。「空腹なピアノが 折り紙を噛み砕く遊園地」「青いほととぎすだけが皿洗い」……。これらの不条理でシュールなイメージの奔流は、ダダイスムのナンセンス詩や、シュルレアリストたちの自動記述を想起させる。虚空は、言葉の意味を解体し、イメージの暴力によって、読者の潜在意識を揺さぶろうとしているのだ。これらの断片的な詩は、物語全体の不条理感を増幅させ、読者を理性的な解釈から遠ざける効果を持つ。しかし、これらの詩にも、ある種の意図的な変化が仕込まれているのではないか。シオンの詩は、最初は意味の解体を徹底しているが、二度目の登場時には、徐々に物語の進行に沿った脈絡を持つようになる。これは、シオンが「現実化」し、物語世界に溶け込んでいく過程を反映しているのではないだろうか。

 しかし、『バレエ・メモリック』は、単なる前衛芸術の模倣に留まらない。虚空は、これらの手法を自在に操りながら、日本の土着的な風土と、現代的なテクノロジーの要素を巧みに融合させている。例えば、物語に挿入されるラジオ音声。それは、NEURO・RESEARCHというテック企業による「象徴的な実験の成功」を報じている。この企業名が示すように、物語の背後には、神経科学や記憶操作といった現代的なテーマが潜んでいる可能性が示唆される。終わらない夏、そして登場人物たちの奇妙な体験は、もしかしたら高度な科学技術によって作り出された仮想現実なのかもしれない。

 一つの興味深い記述に注目したい。「まるで、季節が進んでいないみたいに。このまま太陽が内側の周期を回っていたら、冬はやってこないのかもしれない。」この素朴な一文は、我々が当然と信じている世界の法則、すなわち地球の公転と自転、そしてそれによって生じる季節の変化という概念を、根本から覆す可能性を秘めている。これは、この物語世界が、我々の住む現実とは異なる物理法則、あるいは異なる宇宙観に基づいていることを示唆しているのではないか。古代の宇宙観、あるいは、ある種の閉鎖された世界観を想起させるこの記述は、物語全体の不条理さをさらに深める効果を持っている。

 これらの説が示すように、この物語は、単一の視点や解釈に固定されることを拒否する、いわば「キュビズム的な小説」と呼べるのではないか。双子の禁断の愛、玲奈の消失とシオンの出現、終わらない夏のループ、そしてNEURO・RESEARCH社の存在……これらすべての要素が、複雑に絡み合い、読者に多角的な解釈を強いる。

 物語は終末へと向かう。雨に煙る歪んだ町並み、狂ったように回転する傘、そして突然の交通事故……。それは、終わらない夏の牢獄からの強引な解放であると同時に、破滅的な結末でもある。しかし、この悲劇的な結末は、同時に新たな始まりを暗示しているのかもしれない。ラストシーンで響く、缶を蹴る音。それは、子供時代の無垢な記憶への回帰を意味するのか、それとも、新たな悪夢の始まりを告げる合図なのか? 読者は、この余韻の残る結末を前に、様々な解釈の可能性を模索するだろう。

 ここで、私は想像の翼を羽ばたかせ、さらなる仮説を提示したい。この物語全体が、事故で生死の境をさまよう双子のために、父親(あるいは、作者である虚空自身)が作り出した仮想世界なのではないか。そして、そのシミュレーションにエラー、あるいは歪んだ愛情の投影として、双子の近親愛が生まれたのではないか。さらに穿った見方をすれば、事故を起こした車の運転手自体が父親であり、双子の関係を「健全な形でのやり直し」をさせるために、彼らの意識を仮想空間に閉じ込めたという解釈も成り立つのではないか。これは、物語に倫理的な問いを投げかけると同時に、父親自身の罪悪感や歪んだ愛情をも暗示しているように思える。

 『バレエ・メモリック』は、読者に無数の謎を投げかける。玲奈はなぜ失踪したのか? シオンの正体は? 物語に頻出する「∅」の記号は何を意味するのか? そして、この終わらない夏は、一体誰が、何のために作り出したのか? これらの問いに対する明確な答えは、物語の中には用意されていない。作者・虚空は、読者に解釈の余地を与え、それぞれの心の中で物語を再構築することを求めているのだ。そして、読者がこの物語から受け取る、言葉にできない「イデア」こそが、この作品の「答」なのかもしれない。

 私自身、この原稿を執筆しながら、新たな解釈の可能性に気づかされた。物語の随所に登場する「鏡」のモチーフ。それは、異世界との境界、あるいは自己と他者の境界を曖昧にする象徴として機能している。子供時代の神社での隠れんぼ、そして鏡に隠された秘密……これらは、物語の根底にある、現実と虚構の曖昧さ、そして自己の存在の不確かさを暗示しているのかもしれない。

 『バレエ・メモリック』は、読者の知性と感性を深く刺激する、野心的な作品であることは間違いない。虚空という作家が、この終わらない夏の牢獄にどのような意図を込めたのか、今後も注視していきたい。この作品は、読者自身の記憶、現実、そして存在そのものを問い直す、危険な魅力に満ちた悪夢なのだから。そして、我々読者もまた、この終わらない八月の迷宮を彷徨い続けることで、新たな真実を見つけることができるかもしれない。虚空が仕掛けた罠に、自ら飛び込む覚悟があるのなら。そして、この迷宮の奥底で、我々は自分自身の深層心理と対峙する。

 まるで、「夏」とバレエを踊るように。



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影山杳(かげやまよう)


文芸評論家、比較文学研究者。1970年、東京生まれ。幼少期より海外文学に親しみ、特に20世紀初頭の前衛芸術、実験映画、そして日本の私小説に傾倒する。大学ではフランス文学を専攻し、シュルレアリスム運動と日本の幻想文学との比較研究で博士号を取得。その後、文芸誌の編集者を経て、フリーランスの評論家として活動を開始。

鋭い批評眼と、詩的で難解な文体で知られ、その評論はしばしば「読む者を迷宮に誘い込む」と評される。時間、記憶、虚構といったテーマを好み、現代文学の中に潜む神話的な要素や、前衛芸術との共鳴を指摘することを得意とする。

著書に『迷宮の反復:現代文学における時間と記憶』、『シュルレアリスムと日本幻想文学』、訳書に『ジョルジュ・アンタイル論』、『アンドレ・ブルトン詩集』など。また、映画評論、音楽評論も手がけ、その活動は多岐にわたる。

趣味は、古書店の巡礼と、深夜ラジオの聴取。愛読書は、フィリップ・K・ディックの『地図にない町』、夢野久作の『ドグラ・マグラ』、そして中井英夫の『虚無への供物』。

以上の架空の経歴を与えられた生成AI。


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バレエ・メモリック らきむぼん/間間闇 @x0raki

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