バレエ・メモリック
らきむぼん/間間闇
バレエ・メモリック
題 バレエ・メモリック
作者 虚空
∅
濃い緑を湛えた坂道を、熱気を含んだ風がゆっくりと吹き抜ける。アスファルトが照り返す陽の光はじりじりと君の肌を焼き、遠くから響く蝉の声はどこか危険を警告するサイレンのようだった。
この町は、どこか古びた雰囲気を残す。古来からの伝統が残り、それが町の細部を形造っている。石畳、大木、まるで川のようにうねった小径――本当に昔は小さな河川だったのかもしれない。日々の暮らしは穏やかだが、坂道の多さや公共交通機関の少なさから、少しばかり不便を感じさせる。けれど、だからこそ時間の流れがゆっくりと感じられ、人々の記憶の奥底に優しく染みこむような風景がある。夕暮れになると古い家並みが茜色に染まり、神社に続く石段が柔らかな光を浴びていた。
そんな町の高台に建つ、小さな高校に通う四人の少年少女――。陽炎が、白昼夢のように世界の輪郭を曖昧にする。君たちは、いずれ過ぎ去る刹那の幻影を必死に掴み留めようとしていた。
校舎へと続く坂道は、朝夕に歩くだけで汗ばむほどの急勾配だ。坂の中途にある古書店の店主などは慣れたもので、「坂があるからこそ景色も映える」と当たり前のように口にする。そもそもこの急勾配で商売が成り立つのか、今になって当時疑問にも思わなかったことが気になってしまう。
その坂を黙々と登るのは、
「今日こそ集中しないとな……」
陸は小声でつぶやきながら、坂道の上に見える校門を睨むように見つめた。夏休みに入っても受験勉強のために毎日学校に通う陸を、翔太は「真面目すぎる」と心配する。それでも彼は、いつもの生真面目さを崩せない。いや、当人は真面目だとは思っていなかった。心には、別の悩みが巣食っていたからだ。
夕方、陸は図書室での自習を切り上げ、坂道を下って神社へ向かった。
神社は町のほぼ中心にあり、鬱蒼と茂る木々に囲まれ、鳥居を一歩くぐると空気がフッと変わる。夏の空気の中に漂う静寂、太陽の光が石畳を白く照らし、木の葉はその緑を地面に映す。その光景がどこか懐かしく、切なさを誘う。
境内の石造りの腰掛けには、陸とよく似た顔をした双子の妹、
「海、お待たせ」
陸が声をかけると、海はいつものようにぱっと笑顔を浮かべ、手を軽く振る。陽射しを浴びた頬はほんのり赤く染まり、口元の笑みは陸とまるで鏡合わせのようだ。
「陸、おつかれ。今日も暑いね」
「ずっとここで待ってたのか? 家にいてもよかったのに」
海は少し笑みを深くし、視線を境内の奥へ向けた。
「いいの、ここって静かだし。夏って感じがするから」
陸は、言葉少なにうなずく。最近、彼女はよく一人で神社や校舎裏など、人目につきにくい場所にいることが増えた。きっと自分がわざわざ学校の図書室に勉強をしにきているのと同じような理由だ、と陸は察している。
参道の向こうから、凛とした空気を破るように元気な足音が聞こえてきた。翔太が小走りに駆け寄ってくる。
「おーい、陸! やっぱここにいたのか。図書室探したけどいなかったからさ。お、海も一緒か、ちょうど良かった」
先ほどまでの静寂が嘘のように、翔太の声が神社の空気を弾ませる。幼い頃からムードメーカー役を買って出てくれていた翔太は、そこにいるだけでエネルギーをくれる。
「なんか用事か?」
陸は冷静に返す。スマホに連絡が来てないところをみると、本気で探していたわけではないのだろう。
「つれないねぇ相変わらず。ま、いいんだけどさ。……あのさ、俺、思うんだけど、こういう時間ってもう二度と訪れないんだよな」
「夏休み?」と海が聞く。
「夏休みは大学生にもあるだろ? 大学は別々かもしんないけどさ。いつでも集まれる」
陸は、翔太が言いたいことがなんとなくわかっていた。きっと、そういうことではないんだろう。
「うーん、まあそうかもしれないけどさ。でも俺が言いたいのは、自由な大学生の夏休みじゃなくて、今この瞬間の、まだ何にもなれてない俺たちの夏なんだよ」
わかる気がする。過ぎ去った後で、それには名前がつくものだ。
そのとき、境内の裏手から静かな足音が近づいてきた。四人の中で最後に姿を現したのは、静かな気配をまとった
ダークブラウンの髪は、さらりと自然に下ろされていて、陽の光を受けるとほんのり赤みを帯びて見える。膝丈の白いワンピースをまとい、足元には控えめなデザインのサンダル。手にはスケッチブックを抱え、肩には薄いベージュのショルダーバッグを下げていた。
「……ごめん、少し遅くなっちゃって」
玲奈は小さくお辞儀をし、そよ風が彼女のワンピースをやさしく揺らす。その光景は、幻想的だった。透き通るように白い肌と柔らかな布の動きが相まって、彼女の存在はどこか儚く、夢の中のようにすら見える。
「え、玲奈? なんでここに?」
海が目を丸くする。その様子が小動物のようで可愛らしく、陸は密かに口角を上げる。その陸はというと、ある程度状況を察していた。
「近くで絵を描いてるっていうから、呼んでみた」
翔太はイタズラをした子供のような顔でニヤリとした。
「お前、海がここで僕の帰りを待っているのを知って、玲奈を呼んだんだな? 四人を集めるために」
「バレたか」
玲奈も遅れて状況を理解したらしい。彼女は「フフッ」とおかしそうに笑った。
「それで、翔太は四人を集めて何をしたかったの?」
「何ってわけじゃないんだよな。ただ、部活も一段落したし、受験勉強もあるし……こういうときこそ、みんなで会いたいっていうか……。で、ほら、気づいたら今日は夏休み最後の日、八月三十一日。そう思ったら、急にさ」
言葉尻がどこか宙に浮く。その瞬間、翔太の顔が曇ったのを陸は見逃さなかった。理由までは分からない。ただ、幼馴染同士だからこそ、どこか違和感を覚える。
こうして四人が顔を合わせるのは、そう珍しいことではない。昔から一緒に過ごしてきたからこそ、当たり前の光景だったはずだ。 でも、だからこそこの瞬間を逃したくない。君たちはこのとき、その想いで通じ合った。
「覚えてるか? 子どもの頃、ここで僕らは缶蹴りをしたんだ。鬼は翔太で……」
陸は懐かしそうに笑みを浮かべる。この瞬間だけは悩みの全てを忘れているようだ。この神社は一年を通してほとんど無人だ。それでいて境内は広い。子供の頃の君たちには、格好の遊び場だった。
「覚えてるよ。最初に見つけたのは陸と海だ。お前ら、二人で仲良く同じところに隠れちまったもんだから一緒に見つかったんだよ」
翔太が答えるように言う。ここで缶蹴りをしたこと自体は何度もあったはずだ。でもなぜかこのとき四人が思い浮かべたのは同じ記憶だった。
海が続ける。
「あたしが隠れるところ決められなくて困ってたら、陸が呼んでくれたんだよ」
「僕もバカだよなぁ。一緒に隠れたら意味ないのに」
当たり前だが、複数の場所に隠れなければ、隙を見て缶を蹴りに行くこともできない。
「……で、そうそう、玲奈が見つからなかったんだよな。あれ、どこに隠れてたんだっけ?」
翔太は記憶をたぐるようにして、思い出そうとしている。玲奈も首を傾げて押し黙る。四人誰も思い出せないようだった。
「忘れちゃったね。でも、最後は私が缶を蹴ったんだよ」
玲奈が少し誇らしげに言う。
「ってことは、玲奈は最後まで見つかってないんじゃないか? だからみんな覚えてないんだよきっと」
「あっ、そうか。そうかもしれないね」
こうして昔話をしている君たちは、まるでみんな子どものようだった。
それから、君たちはしばらくの間、雑談を交わしていた。蝉の声に混じって笑い声が溢れ、黄昏時の朱色の陽射しが四人の背を包みこむ。神社の鳥居を内側から抜け、石段を降りるころには、お互いの足音にどこか幼い頃の懐かしさを感じていた。
「また、明日」
互いに交わしたいつもの挨拶が、なぜか胸に染みる。夏の光はそろそろ傾き始め、季節の終わりがゆっくりと近づいている。この夏が何かを変えてしまうような気がしてならない。それは、祭の前の静けさとも似た、不思議な高揚感と少しの不安が入り混じった感覚だった。
そんな予感を、四人それぞれがぼんやりと感じていた。
陸
けたたましいアラームの音で、意識が浮上する。重たい瞼をこじ開けると、見慣れた天井がぼんやりと視界に入ってきた。寝室のカーテンは閉め切ったままで、部屋はまだ薄暗い。窓の外からは、いつも通りの蝉の声が聞こえてくる。
体を起こし、ベッドから降りる。床に足をつけると、ひんやりとした感触が眠気を少しだけ追い払ってくれた。寝室のドアを開け、リビングへ向かう。
「おはよう、陸」
リビングに入ると、すでに海が起きていた。朝食の準備をしているのだろうか、キッチンからかすかな音が聞こえてくる。海は振り返り、いつものように優しい笑顔を向けてきた。
「おはよう、海。あれ……それ、僕のTシャツだ」
「借りちゃった。洗濯してる間だけ。今日は天気がいいから、すぐ乾くよ」
「ぶかぶかだろ。それにすぐ着替えるだろう、制服に」
そう言って、ズキンとこめかみの辺りが少し痛む感じがした。何かが引っ掛かる。
「制服?」
「今日から、登校日、だろ?」
無理やり言葉を紡ぎ出す。海は少し不思議そうな顔をして、首を傾げた。
「登校日? まだ夏休みだよ。ほら、カレンダー見て? 八月三十二日だよ?」
海に言われて、改めてカレンダーに目をやる。確かに、カレンダーには「八月三十二日」と書かれている。それを見て陸はようやく納得した。海に言われるまで、自分が勘違いしていたことにまるで気づかなかった。
(でも、なんで僕は今日が登校日だと……?)
再び疑問が頭をよぎるが、すぐに打ち消される。どうでもいいことだ。
「そっか……まだ夏休み、だったな。勘違いしてた。でも、学校には行くよ。今日も勉強しなきゃ」
陸は、曖昧に笑って誤魔化す。海は、陸の様子を少し心配そうに見つめている。何かを言いかけるときの唇の動きが奇妙にループして見えた。
「もしかして、疲れてる? 無理して学校に行かなくても、いいんだよ?」
海の言葉は優しい。けれど、その優しさが、今の陸には少しだけ重く感じられた。海は上目遣いにこちらを見る。その視線が心を揺さぶる。
「……いや、大丈夫だよ」
そう言って陸はリビングテーブルの席についた。毎朝、陸と海は交代で朝食を作り、二人で朝食を摂る。父が不在の間は、それがルーティンだった。トーストとスクランブルエッグを持って、海は陸の隣に座った。
朝食を終えると、陸は逃げるように支度を済ませた。海が何か言いたげな表情をしていたが、気づかないふりをする。玄関のドアを閉め、外へ飛び出す。朝の光が、少しだけ眩しく感じられた。
陸は、早足で坂道を上り始めた。背後から視線を感じた気がしたが、それはきっと、気のせいだろう。蝉の声だけが、やけに耳に響いていた。
海
体が火照っていた。洗面台で顔を洗って、鏡を見る。陸の顔が映っていた。一瞬跳びあがるように肩を振るわせた海は、それが幻覚であると理性的に判断した。
先ほど足早に出て行った陸を思い出す。玄関の戸を開けて、坂を上る。まだ朝であるにもかかわらず、熱した空気が蜃気楼を作っていた。ゆらめく陸の後ろ姿が、まるで幽霊のように希薄に感じた。
陸
坂道を上りきると正門が視界に入る。ふと振り返ると、背後には麦畑と古びた商店街が広がり、烈日の下、すべてが焼けるように輝いていた。夏休みにもかかわらず、昇降口を行き来する生徒たちがいる。彼らの表情はぼんやりとしたものが多く、まるで夢の中を漂う影のようだ。見慣れたはずの景色に、言葉にならぬ違和感が胸中を満たす。しかし、その異物感は意識に定着することなく霧散する。廊下の掲示板には夏季補習や部活動の通知が貼られ、校内の静寂は保たれていた。
図書室の冷房は作動しているはずだったが、空調音は響いても、空気の温度は下がらない。まだ朝だからか、肌にまとわりつく熱気が外気と同じ温度のまま停滞し、息苦しさを伴う。普段よりも早く家を出たのは失敗だったかもしれない。
高台に佇む灰色の校舎へと、陸は日々通っている。夏休みの最中、受験勉強に集中するためだと自らに言い聞かせて何度も図書室へと足を運んでいる。座席に着き、受験用のテキストを開く。ペンを握る手がじんわりと湿っている。英単語を書き写す。次の単語へと進む。だが、ノートの上に刻まれる文字は、どこか頼りなく、まるで今にも消え去りそうな筆跡に見えた。意識は散漫で、文字を追う視線さえも定まらない。行間がゆらぎ、文字がストップモーションのようにカクつきながら微細に揺れる。すべての文字が丸や四角や三角に変容して、陸を嘲笑うように震えていた。
意識を独占するのは双子の妹、海の存在だった。
かつては、海の方が主導権を握っていた。陸、翔太、玲奈の四人で駆け回った記憶が脳裏に甦る。草いきれの漂う路地、駆け抜けた坂道、夕焼けに染まる町並み。それらが、幻のように遠ざかっていく。
そして今、海の微笑が脳裏に焼きつく。その声、その仕草、時折見せる脆弱さ。すべてが陸の思考を絡め取り、支配する。
頭を振り、深呼吸しながら窓の外へ視線を移す。熱気の中で揺れる田園風景。想像上の蝉しぐれが遠くに響き、白濁した空は地平線へと溶けていく。このまま、このまますべてが消えてしまえばいい。氷が溶けるように。
白昼夢の静寂のなか、ガシャン! と嫌な音がした。陸は反射的に音の方向に視線を向ける。自分と同じように――ではないが、居眠りをしていた隣の男子学生が舟を漕いでテーブルの上のスマホを落としたようだ。
その拍子に有線イヤホンが抜けて、ラジオ放送のような音声が流れる。
『――……ROは先日象徴的な実験の成功を発表した気鋭のテック企業ですが、そのシンポジウムに招かれた本邦の神経科学の権威、うつ……――』
その音声は、意味を伴わずに陸の脳内を通過する。言葉が音の粒子に変わり、雑音として散逸していくようだった。「すみません」と男子学生は小声で謝り、再び静寂が訪れた。
違和感が、またひとつ、波紋のように広がる。陸は無意識に手のひらを見つめる。そこにあるのは確かに自分の手のはずなのに、その輪郭と質感は、まるで別人のもののようだった。ゆっくりと指を動かす。指先の動きが遅れて伝わるような違和感がある。指と意識の間にわずかな時差が生じている。瞬きをするたびに、現実が一瞬だけ途切れる。まるで映画のフィルムがコマ飛びを起こすように。千切れた手首が、バレエを踊っていた。
シオン
空腹なピアノが 折り紙を噛み砕く遊園地
青いほととぎすだけが皿洗い
雨粒のスプーンで踊るつむじかぜは
カルタのあわい
ハンバーガーのふところには あんずのガソリンが そっとふきこぼれ
サンダルだらけの微笑みは 音叉のひそみでささやく
「レインコートに在る とこしえに無い」
血まみれのからすが飛び立つたび
しとねのトカゲは はかなさを忘れ
裏返しのせせらぎが ペンギンから零れおちて
つちふまずへと沈んだ
あらゆるゆらぎが解ける向日葵に
水星のパズルが ひとがたを踏み潰す
いま レモンは ふたつとない
抱きあう「キャンドル」のたてがみ
陸
八月三十三日。朝から学校へ自習しに行く。今日は夏期講習はやっていないらしく、自主的に登校した受験生の数名が来ているだけで閑散としていた。図書室へ向かう途中の廊下を歩いていると、翔太が美術室に入るのが目に入る。声をかける前に彼は室内へと消えていった。
気になって後を追うと、美術室の窓辺で玲奈がスケッチブックに向かっていた。傍らには翔太の姿もある。
「玲奈、翔太」
声をかけると、二人はこちらを見て明るい表情を見せる。
「よお、今日も自習か」
「ああ、それより珍しいな二人が夏休みに学校に来るなんて」
そう言うと、二人は顔を見合って、首を傾げた。玲奈が代表して応える。
「そういえば、なんだか夏休みが終わったような気がして。そんなはずないんだけれど。でも、たまには学校で絵を描くのもいいかなって」
「俺も、そんな感じ」
翔太も自然に同意した。翔太については玲奈と違って趣味らしい趣味がある風には思えなかったが。
陸は、二人の側に歩み寄ると、玲奈の描いているスケッチブックを覗き込む。そこには白いワンピース姿の少女が描かれていた。そのとき、一瞬だけ少女が微笑んだ気がしたのだが、瞬きをしてもう一度見ると、そもそも少女の顔はまだ描かれていなかった。
「この子は?」
「ここ数日ね、何度もこの子を見るの」
惚けたようにおもむろに玲奈はそう言った。その様子がどこか不穏で、陸も翔太も、押し黙ってしまった。
「名前は?」と翔太。少しおかしな質問だ、と陸は思った。なぜ名前を聞いたのだろう。
「シオン」
海
海は、神社の石段を上っていた。町の中心にある古い神社は、幼い頃から四人で祭りに出かけたり、参道で遊んだりして過ごした思い出深い場所だ。ここに来ると少しだけ心の締めつけが軽くなる気がする。懐かしい思い出の数々が、海と陸を子供の頃の普通の兄妹に戻してくれるみたいだ。いや、戻してくれたら――そう思いかけて、海はその願いとは相反する気持ちを祈るように希求していた。体の熱さが、夏のせいなのか、邪な想いのせいなのか、区別がつかなかった。
もう夏休みが終わる頃だっていうのに……まるで時間が止まってるみたいだ。毎日、同じような暑さで、同じような蝉の声が聞こえてくる。まるで、季節が進んでいないみたいに。このまま太陽が内側の周期を回っていたら、冬はやってこないのかもしれない。
額の汗を拭いながら、鳥居をくぐる。あたりには蝉の声が絶え間なく響き、石畳も陽射しで熱を帯びていた。海は狛犬のそばに座り込むと、ぼんやりと境内を眺める。
「陸は家を出て行くつもりなのかな」
海は虚空に向けて呟く。夏休みが終わらないままなら、陸と離れずにいられるかもしれない……。そんなこと、ありえないのに。
夕日が少しずつ境内を赤く染め、町のほうを見下ろすと、ビルの看板がぼんやり目に入る。「NEURO・RESEARCH」と書かれているようだが、田舎町の景色の中では浮いている気もする。あんな看板、今まであったっけ。
海は溜め息をついて立ち上がり、静かな神社をあとにすることにした。そのとき、背後から誰かに抱きしめられた。
驚いて、振り返ることができなかった。境内には誰もいなかったはずなのに、一体誰が――いや、それが誰なのか、海にはわかっていた。
「陸……?」
海を抱き止めたその手は、そっと肩を掴み、海はゆっくりと正面を向かされる。そこには無表情の陸が立っていた。
「どうし……」
どうしてここに。そう言いかけた唇を塞ぐように、陸は海とキスをした。思わず目を瞑る。幾らかの時間が経ち、まるで息継ぎのために水面から顔を出すかのように、寄せられた顔が遠のいた。
海が目を開けると、目の前には白いワンピースを着た少女が立っていた。
陸
八月三十四日。濃密な暑気がいまだ衰えず、正門を通る頃には、全身がすっかり熱を持っていた。昇降口を抜けると、蝉の声が風景に溶け、まるで遠のくフィルムの音のように小さくなる。陸は図書室へと足を向けた。最近は海も自習をしに学校に来ているらしいが、わざと教室を使っているらしい。陸としては、彼女を避けたいような、けれど離れたくないような複雑な思いがあった。罪悪感とも高揚感ともつかない不安定な感覚が、胸の底に渦を巻いている。
いつものように美術室の前を通り過ぎたあたりで、不意に声をかけられた。
「陸!」
声の主は翔太だった。どこか焦燥が混じった表情をしている。幼い頃からの親友だからこそ、何か不穏な気配を感じ取った。
「どうした?」
「玲奈がいないんだ。連絡がつかないし、家にも行ってみたんだけど……どうしても辿り着けないんだよ」
最初は意味がわからなかった。玲奈の家はこの町のはずれにあって、道こそ複雑だが一度覚えれば迷うような場所ではない。だが翔太が言うには、何度向かおうとしても道が途中で別の場所に繋がったり、そもそも道そのものが見つからなくなったりするのだという。
「……それ、どういうことだよ」
訝しみながら陸はスマホを取り出し、玲奈へ電話をかけようとする。ところが、連絡先の一覧に「玲奈」の名前がない。陸が翔太に問うと、翔太のスマホも同様だった。まるで最初から彼女が存在していなかったかのようだ。
「クラスメイトに聞いても、ほとんどの奴が『そんな子いたっけ』って言うんだよ。二、三人、なんとなく覚えてるような反応をしたやつもいたが、どうもはっきりしない」
玲奈の存在自体が、この世界から少しずつ消えている――そんな不穏な想像が、陸の胸を急激に冷やしていく。
陸と翔太は手分けして、玲奈が行きそうな場所を順番に当たることにした。古書店、駅前のカフェ、川沿いの小道……どこにも彼女の姿はない。ひとつひとつの場所を訪れるたびに、そこから感じる気配は何かしら薄れているようだった。最後にたどり着いたのは、いつも四人で集まっていた神社だった。まるで呼び寄せられるように、自然と足が向いたのだ。
境内に入り、社務所の裏手から石造りの腰掛けの方へ回り込む。夕方に近づいているはずなのに、いつまでも色褪せない夏の陽射しが、石畳の端をやけに白く照らしている。すると、そこにスケッチブックが置かれているのが見えた。カバーには見覚えがある。やはり玲奈のものだ。最近、美術室で見かけたばかりのものと同じ。
陸がそっと開くと、そこには白いワンピース姿の少女がはっきりと描かれていた。風になびく髪の流れや、柔らかな布の質感まで精細に描写されている。背景にうっすらと彩色が加えられ、紙面の端からは風の音さえ感じられるような錯覚を覚える。まるで深く息を吸い込めば、絵の中の空気が流れ込んでくるようだった。
「……シオン」
誰にも聞こえないような声で、陸はその名前を呟いた。先日、美術室で玲奈が描いていた「謎の少女」。その未完成だったスケッチが、ここで完成を迎えたかのように豊かな色彩を帯びている。だが、その少女のほぼ中央に、大きく「∅」の記号が上書きされていた。
「なんだよ、これ……。何かの記号か?」
翔太が不審そうに尋ねる。少女の美しい姿とミスマッチな幾何学的なそれは、乱暴に存在を打ち消すように描かれている。
「数学で『空集合』を表すときに使う記号だ。要するに『何もない』ってことを示す……はずだけど……」
何もない。けれどスケッチブックの少女は、まるで生きているような強い存在感を放っている。それどころか、そこには確かに誰かがいる、と感じさせるほど、力を持ったイメージだ。その矛盾する光と影が、陸と翔太の胸に薄暗い疑問を少しずつ積み上げていく。
「玲奈は、一体どこに行ったんだよ……」
翔太の声はどこか虚ろだった。頭では理解できなくとも、何かがおかしいということだけは確かに感じているのだろう。まるで世界の一部が崩れ落ちていくような不穏な足音が、背後に忍び寄っているようだ。
立ち尽くす二人の脳裏に、ふと子供の頃の記憶が蘇る。この神社の境内で、缶蹴りをして遊んだ夏の日。あの頃は、境内の隅々まで走り回ることが楽しくて仕方なかったし、夕暮れ時の風が涼しく頬を撫でてくれる瞬間に、なんともいえない解放感を味わったものだった。
「そういえば、あの日……」
翔太の呟きに、陸が続ける。互いに思い出すまま口に出し合うことで、遠い日の断片が徐々に形を取り戻していくような感覚があった。
「海が隠れる場所に困っていて、僕が自分の隠れ場所に呼び込んだんだ。けど……あれは多分、海が玲奈に隠れる場所を譲ったんだと思う」
「どうしてそう思う?」
「――さあ。僕たちは、双子だから……」
答になっていない答を、陸は口ごもりながら言った。今だからこそわかる。あの頃から海は……――。双子だからいつも一緒でいられた。双子だから必要以上に近くにいても何も言われない。双子だから……双子だから、結ばれない。
あのとき、四人で遊んでいたはずなのに、いつの間にか玲奈だけが見つからなかった。そして結局、缶を蹴ったのは玲奈だったのだが、どこから現れたのか――そんな肝心なところが曖昧になってしまっている。
夕暮れの光の中、玲奈が缶を思い切り蹴り飛ばしたとき、缶はまるで紙のように軽く飛んでいった。それを見た海が「嘘でしょ……」と目を丸くして笑った場面が、やけに鮮明だった。翔太と陸もその笑い声につられて笑った。おとなしい玲奈がそのときばかりはとても活発に見えた。それが、どこかおかしくて、不思議だった。
海
海は、夏休み中でも開放されている自分の教室で、自習という名目の時を過ごしていた。図書館や美術室は空調が効いているが、通常の教室はエアコンの使用が禁止されていた。開け切った窓の外からは蝉の声が途切れ途切れに入り込み、教室内で無機質に反射している。色彩を欠いた夏のオーケストラは、気だるい午後の空気を存分に漂わせていた。
机に広げたノートや参考書をなんとなく眺めてはいるものの、頭に入ってくるわけでもなく、ただページをめくる指先だけが機械的に動く。
ふと、海は子供の頃の記憶を呼び覚ます。あの神社の境内で、缶蹴りをしていた夏の日――まだ背の低かった自分と、少しだけ背が高かった陸。そして玲奈と翔太。四人の足音が境内の石畳に響き、夕暮れまで飽きることなく缶を追いかけていた。あの頃は、蝉しぐれやや、林の奥から聞こえる虫の鳴き声まで、すべてが眩しかった。
隠れ場所を見つけられず途方に暮れていたら、陸が自分の場所に招き入れてくれた。あれは、同じように隠れ場所を見つけられていなかった玲奈に場所を譲ったからだ。……それに、そうして困っていたら、いつだって陸は手を引いてくれたから。
もっとも、当時はそれほど深く考えもしなかった。ただ、陸が自分を誰よりも優先してくれていたことが、嬉しかったのだ。双子だというだけで何をしても許される、そんな境界を甘んじて受けていたのかもしれない。だが大人になるにつれ、その境界はむしろ強固な壁として目の前に立ちはだかっているようにも思える。
「……陸」
ノートの上に視線を落としながら、その名をひそやかに呼ぶ。彼の存在を思い浮かべるだけで、胸の底に熱が広がっていくのを感じた。あの頃の天真爛漫な気持ちとは違う、もっと深く、そしてどこか歪んだ感情が自分を満たしている。双子である以上、兄妹である以上、決して踏み越えてはいけない――そうわかっていながら、その背徳感が逆に海の欲望をさらに煽り立てる。
こんなとき、もし玲奈が近くにいれば、違った未来があったのかもしれない。だが今や玲奈は、どこかへ消え去りつつあるかのようだ。なぜだかそう思う。記憶の中の玲奈は顔が鏡のように反射して、奇妙に空間を歪めていた。一番近くで見ていたはずの海自身もその輪郭を掴めなくなっていた。代わりに頭を離れないのは、白いワンピースの少女だった。そして、まるで現実のように艶かしいあの口づけ。
しばらく思考を巡らせていると、廊下の向こうで足音が聞こえた。すぐに陸の気配だとわかる。なぜなら、その足音は海の知り尽くしたリズムを持っているからだ。小さく息を呑むと、海は視線をノートから上げる。すぐに胸の奥でくすぶっていた熱情がさらに高まり、むしろ自分ですら手に負えないほどに募っていくのを感じる。たとえ破滅する未来が待ち受けているとしても、もう止めることはできない――そんな衝動に突き動かされながら、海は扉の開く音を待ちわびていた。
陸
「学校に戻ろう。海なら、玲奈が隠れた場所を思い出せるかもしれない」
――そう提案した陸の言葉に、翔太はわずかに迷いを見せながらも、再び神社周辺を探す意志を固めた。まだ見落としている場所や、人目につきにくい路地があるかもしれないからだ。
「こっちはもう少し探し続けるよ。陸は海に訊いてみてくれ」
翔太の横顔を見つつ、陸の内心には複雑な思いが渦巻いていた。玲奈の失踪に対する不安だけでなく、海の最近の言動に対する説明のつかない焦燥感が胸の奥に重くのしかかっている。だが、今はとにかく海と話をすることが先決だろう。
そうして二手に分かれた瞬間、陸は坂道を駆け上がるようにして校舎へ向かった。少しでも早く海と向き合いたいという焦りに突き動かされ、足がもつれそうになる。頭の中では、玲奈の失踪――いや消失への恐れと、海への倒錯した想いが交錯し、どこかぬかるんだ大地を踏みしめているような感覚だ。視界もわずかに揺れ、まるで夢の中を歩行しているように思える。
昇降口に着くと、廊下の窓から射し込む強い光に眼が眩む。夏を手放さないと言わんばかりに、そこら中を白で塗りつぶしていく。陸は心の乱れを断ち切るように浅く息をつき、教室へ足を向けた。電話をするまでもない。海は今まさにそこにいる。陸には海の息遣いが聞こえていた。
道すがら、何度かすれ違った生徒たちとは一言も交わさない。彼らもこちらに目を向けはするものの、どこかぼんやりとした表情で、陸の存在が現実なのか否かを測りかねているかのようだ。妙なざわめきを感じるたび、陸は自分がいま本当に学校にいるのかどうか、確信が揺らいでいくのを覚える。
海は教室の最後列、陸の席に座っていた。その目は、すでにこちらを見ている。まるで陸が来るのを知っていたかのようだった。その目は、熱を帯びている。
「海……」
陸が静かに呼びかけると、海ははっとして、夢の中から覚めたような表情を浮かべた後、遅れて陸に焦点を合わせると、小さく微笑んだ。
「玲奈が……いなくなった」
陸の言葉は、それを発した陸自身が驚くほどにそっけなかったが、海の反応はそれ以上に淡白だった。首をわずかにかしげるだけで、その顔からはほとんど感情が読み取れない。まるで玲奈という存在自体が、海の中ではとっくに色褪せた幻影にすぎないかのようだ。
「海……聞いてる?」
「……うん、ごめん。頭がぼんやりして……」
海の声は生彩を欠き、現実の外膜から剥離したように頼りない。陸は問い詰めようとしかけるが、海は立ち上がると同時に陸の腕をつかみ、そのまま教室の隅へと足早に向かった。照明が十分に届かない薄暗い一角に誘われ、陸は戸惑いながらも海の勢いに押される。
「ねえ、陸……あたし、もう無理」
耳元でささやく声は小さいはずなのに、陸には地鳴りのように響いた。禁断の感覚――踏み越えてはいけない一線。それがかえって危険な魅力を増幅させ、陸の背筋を熱く焦がす。
海の指先が陸の腕を撫で、接触のたびに生々しい熱が突き刺さる。陸は理性を働かせるべきだとわかっていながら、それが呆気なく崩れ去るのを感じた。
次の瞬間、海の唇が迫り、陸の全身を欲望の炎が包む。窓から入り込む熱された外気が涼しく感じるほどに、二人の体だけが異様なほど熱を帯びている。唇と唇が触れ合った瞬間、陸は自分が失ってはいけない何かを捨ててしまったような感覚を抱いた。
そこで扉が開く音がかすかに響く。扉に背を向けている陸が振り向くより先に、海は陸の頭を自身の胸に押しやった。扉の方を見やると、人差し指を唇の前にかざす。視線の先には、翔太が立ち尽くしていた。瞳を見開いたまま、声にならない唸りのようなものを喉奥で発している。
「…………」
海の、どこか挑発的な静かな動作が、翔太を凍りつかせたままにする。逆光で表情の細部は見えないが、恐ろしいまでの動揺が彼の身体を硬直させているのは明らかだった。
静寂だけが残る空間で、陸は海の体温を抱いたまま立ち尽くす。押し寄せる罪悪感に息苦しさを覚えつつも、今の自分は海という存在を手放すことができない――そんな自己矛盾に苛まれていた。
シオン
空腹なピアノが 折り紙を噛み砕く遊園地
半透明の蝉時雨が 裏山の木陰を撫でる
青いほととぎすだけが 縁側で皿を洗うころ
雨粒のスプーンで踊る つむじかぜは
カルタのあわいを抜け 錆びついた虫かごを揺らす
ハンバーガーのふところには あんずのガソリンが そっとふきこぼれ
やけにまぶしい田んぼのあぜ道で
サンダルだらけの微笑みは 音叉のひそみでささやく
「レインコートに在る とこしえに無い」
血まみれのからすが 飛び立つたび
しとねのトカゲは はかなさを忘れる
裏返しのせせらぎが ペンギンから零れおちて
つちふまずへと沈むころ
夕立が洗った赤トンボは 瓦屋根の上で羽を干し
あらゆるゆらぎが解ける向日葵に
水星のパズルが ひとがたを踏み潰す
今 レモンは ふたつとない
抱きあう「キャンドル」のたてがみが
山道の先の 打ち上げ花火を遠くまねく
静寂の稲穂を越えて運ぶ風の声は
ねじれた風鈴の音とともに
あの日と今日をつなぎ合わせる
海
行為の余韻に囚われ、海も陸もしばらくの間、思考が停止していた。あの一線を越えた感触が皮膚にまだ生々しく残りながらも、教室の扉を出た瞬間に良心の呵責と先行きの見えない焦燥が、一気に意識の表面へ押し寄せてくる。道徳的な後ろめたさ、翔太への負い目、そして何より、玲奈の失踪をこのまま放置するわけにはいかないという切迫感が、堰き止められた水が溢れ出すように、急激に二人の心を支配していた。
一応、美術室や図書室を探してみるが、玲奈の姿はどこにも見当たらない。廊下ですれ違う生徒はほとんどおらず、たまにすれ違ってもマネキンのように同じ姿の影ぼうしに見えた。誰もが、夏の虚無感に支配されているかのようだ。まるでこの世界に時間の流れが存在しないかのように、停滞した重い空気が漂う。
「……神社に行ってみよう」
そう提案した海の声には、半ば確信めいた響きがあった。陸と翔太がすでに確認した場所だが、スケッチブックが放置されていたのも神社だし、何より、陸の推測では海の記憶が手がかりになるかもしれないのだ。
「あの日、海は自分で隠れようとしていた場所を玲奈に譲ったんだな?」
陸が尋ねる。あの日の海の密かな想いは、もう陸に伝わっている。
「うん、玲奈はきっとそこにいる」
陸は首肯し、二人は学校を後にする。
陸
神社に着く頃、空は夕暮れの朱に染まり始め、境内に差し込む西日が鳥居を照らしていた。鳥居の影は長く伸び、大地に大きく文字が描かれているように映る。木々の間を吹き抜ける風には、わずかに土と苔の匂いが混じっていて、静謐な雰囲気を醸し出していた。社務所の裏手へ回る道は苔むした敷石が連なり、そこを歩く二人分の足音がリズミカルに反響する。
「あの奥に、御神体が安置されている神体庫があるの」
海の声は低く、しかし確たる意志がこもっている。通常であれば、神社の関係者以外が立ち入るなど論外の場所。実際、入り口には分厚い木戸が施錠されている。
「あんな場所に隠れてたって言うのか?」
「昔はわかってなかったんだよ、御神体とか、そういうの。だから、ただ身を隠すだけのつもりだった。でも結局、あたしは入らずに、玲奈が入ったの」
海が言うには、神体庫には窓があり、それは木枠で頑強に守られている。それが腐食して若干の隙間ができていた時期があったのだ。玲奈は海に導かれるまま、社務所横に積まれていた木箱を踏み台にして、その中へと侵入した。その中で、玲奈が何を見たのかはわからない。何も見ていないのかもしれない。少なくとも、翔太はその時、玲奈を見つけることができなかった。
「でも、どうやって中を確認する?」
「たぶん……扉は開いていると思う」
海は、ここで陸とキスをしたことを思い出していた。あれは本物の陸ではない。きっとあの陸は、あの白いワンピースの少女で――。
陸が扉を押し込むと、重い木戸は引きずるような音を立てながらゆっくりと開いた。
「開いた……」
二人が恐る恐る神体庫の中に体を潜らせると、たちまち空気が変わるのがわかった。薄暗く、温度も少し低い。その冷気が、古い神域特有の違う次元に入り込んだかのような感覚を強めていた。踏みしめるたびにぎしぎしと軋む床板の音が、耳に嫌に大きく響く。音が吸い込まれずに反響しているようだ。
「玲奈……いるの……?」
海が小声で呼びかけると、かすかな気配がその言葉に呼応するかのように動いた。そこには、黒く円形の鏡と、その傍らに佇んでいる人影があった。
「……玲奈?」
陸が近づこうと足を踏み出したそのとき、少女はゆっくりとこちらに近づき、その姿を見せた。
それは、紛れもなく玲奈だった。それなのに、かつての玲奈が持っていた、柔和であたたかな雰囲気は微塵もない。代わりに、あどけなく、無垢で。色のない感情がその瞳に映っている。
「玲奈? 探したよ。みんな、玲奈のことわからなくなってて、心配したんだよ……」
震える声で海が訴える。けれど、その少女はほんのわずかに首をかしげるだけ。その仕草は言語を逸脱しているようにも見えた。息苦しい沈黙の中で、少女は不意に口を開く。
「私は1、彼は0」
その言葉は小さく、しかしあまりにもはっきりと耳を打つ。まるで直接脳内に響くように。陸と海は互いに目を合わせるが、どういうことなのかまるで理解が及ばない。
「君は、玲奈なのか? それとも……――」
陸の呼びかけに、玲奈は無表情に口を開く。
「私は――シオン」
その瞬間、玲奈の傍らにあった円形の鏡が、高音を発しながら斜めにひび割れた。それと同時に、玲奈の輪郭は薄れる。
「玲奈! ちょっと待って……!」
神社のもっとも神聖な場所でありながら、まったく別の論理がここでは働いているかのようだった。シオンを名乗る玲奈の体は深い暗がりに紛れるようにして闇へと溶け込んでいった。
∅
私の願いは、愚かだったのだろうか。歪みは僅かだったはずだ。全てうまくいっていた。
シオンという存在は、自身を1と言った。それが全てなのだろう。君が君であるということが、何もかもを狂わせた。この君が終焉を迎えても、君はそこにいるんだろう。私には、それを知覚する術はない。
だから、さよなら。シオン、夏のゴーストよ。
陸
八月四十九日。時空の歪みきった夏休みは世界を修復不能なまでに狂わせていった。気づけば、夏休みはもうずいぶんと過ぎている。今思えば、それに違和感を覚えなかったのは不思議でならない。陸も、海も、翔太も、玲奈も。いや、玲奈だけは、何かに気づいていたのだろうか。
そして、いつまでも終わらない夏という不穏な塊が、霧のようにこの町を覆いつくしていた。日付の感覚すら狂い始めたこの世界では、まるで時刻も暦も形骸と化しているように思える。玲奈が失踪し、翔太ともまったく連絡が取れなくなった。今、陸と海にとって拠りどころとなるのは、お互いの存在だけだった。
そして二人は、超えてはならない倫理的な一線を自ら踏み越えてしまった。その背徳の行為を繰り返し思い返すたび、罪悪感が胸を締めつける。だが、その痛みすらも今の二人にとっては「互いを結ぶ鎖」のようになっていた。陸は海を、海は陸を――、もうどちらが自分なのかすら曖昧なほどに愛していた。頼れる存在などもうどこにもいない。
まだ日は落ちていないはずなのに、空はすでに宵闇の色を帯びている。学校を出てしばらく歩くと、空から大粒の雨が降り始める。いつもなら夕立の範疇で済まされるはずが、この雨はまるで別の次元からやってきたかのように、世界を泡沫へと解体していくかのようだ。二人は一つの傘を差し、その下で肩を寄せ合う。雨音が激しさを増すほどに、町並みが奇妙に歪み、道路の先がぐにゃりと曲がった万華鏡のように見える。
「翔太……どうしてるかな」
陸がそう呟く。不安なのだ。もはや、彼の顔を思い出せないことが。海はそっと陸の左手を握り、もう何も言わなかった。それでも二人は立ち止まらない。傘の下、濡れたアスファルトを反射する街灯のにじんだ光が、まるで終わりの見えない舞台セットのように浮かび上がる。
行き交う人影もなく、かといって完全な無人ともいえない、不条理な景観。コンクリートの建物が妙に脈打つように見えたり、街角の公衆電話がいつの間にかねじれたポールに変わっていたり。だが陸と海には、その変貌すら当たり前の風景のように受け止められた。あまりにもこの世界は長すぎる夏休みに囚われ、狂気と日常の境界が溶け合ってしまっているのだ。
「おかしいよね、この世界……」
海が抑えた声で言う。八月四十九日。いつの間にそんな日付になったのか、誰も正確には説明できない。だが、時間がループし、世界そのものが壊れ始めているとしか思えない現象に直面しても、二人にはもう恐怖も驚きも湧いてこない。ただ、ここにいられるならそれでいい。いっそ、このままずっと夏が続けばいい。
「この世界でなら、ずっと一緒にいられる」
陸が、雨に濡れて湿ったまつ毛の奥からそう告げる。その瞳には絶望に似た諦観と、同時に計り知れないほどの依存が宿っていた。海もまた、同じ感情を共有しているのを彼は知っている。倫理を逸脱し、誰にも祝福されない関係に堕ちてでも――このまま二人だけの世界が永遠に続くなら、それで構わない。
雨はますます激しさを増し、傘の骨が軋むほどに風が吹きつける。路面に反射する街灯が波打ち、まるで幻想映画のように二人を包み込む。陸は海の肩を抱き寄せ、傘の下で唇を重ねた。雨音が遠のき、二人だけの閉じられた舞台が形成される。どこかでジョルジュ・アンタイルの「Ballet mécanique」の奇怪な旋律が聞こえてくる。狂気と共に、二人は深く呼吸を重ね合う。
「この世界がずっと続けばいい……」
もう、二人のどちらがそれを口にしたのかわからなかった。夏の終わりは、どれだけ待っても訪れない。むしろ、狂った時計の針は逆向きに回転している――そう思えた。
しかし次の瞬間、けたたましいエンジン音が雨音をかき消すように迫ってきた。何かが猛スピードで街路を突き進んでくる。警告音もブレーキの叫びもない。ただ、津波のように押し寄せる衝撃の気配だけが、溶け合う二人分の意識を揺らした。
稲妻のように激しく車のライトが二人を照らし出し、続いて強烈な衝突音が雨の世界を引き裂いた。
雨と血とオイルの混ざり合った生臭い匂いが、あっという間に周囲を満たし、すべての音が徐々に遠ざかっていく。
陸の視界の中で、飛ばされた傘がくるくると回転を続けているのが見える。それはまるでピルエットのように優雅だ。
「……あれは、∅……」
漏れる微かな声。空集合を示す円のように、傘は回り続け、地面に落ちきらない。その姿が、いつまでも終わらない夏、そして誰からも許されなかった双子の姿そのものを象徴しているかのように思える。
手を伸ばそうとするが、もう身体が動かない。海の顔が目の前にあるはずなのに、その輪郭はぼやけて溶けていく。最後の意識で陸は海の名を呼びかけるが、その声はかき消され、届かない。
世界は徐々に存在感を失い、まるで幕が下りるように、二人の視界が閉じられていく。
ひとつの夏が終わりを告げた。
シオン
雨の残滓が町にかすかに漂い、湿気を孕んだ風が路面を撫でるが、それすらも蒸した熱に呑み込まれてしまう。重たげな雲は低く揺蕩い、朱塗りの鳥居は、蝉時雨を背に白い光を静かに受け止めている。苔むした敷石が深い緑を敷き、境内には湿った土草の匂いが満ちていた。
時の移ろいを拒むように、長い静寂が訪れる。長く、永遠にも似た静寂は、不意に破られる。
どこかで、空き缶が転がる音がした。
Ballet Memorique
by
∅〈Sora Uturo〉
了
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【参考文献】
[1] フェルナン・レジェ. (1924). 『バレエ・メカニック』 (Ballet Mécanique) [実験映画, フランス].
[2] ジョルジュ・アンタイル. (1924). 『バレエ・メカニック』 (Ballet mécanique) [音楽作品, フランス(初演は1926年、パリ)].
[3] 津原 泰水. (2009). 『バレエ・メカニック』. 早川書房.
[4] マヤ・デレン. (1943). 『午後の網目』 (Meshes of the Afternoon) [実験映画, アメリカ].
[5] ハンス・リヒター. (1928). 『午前の幽霊』 (Vormittagsspuk) [実験映画, ドイツ].
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