サラリーマン
今日もひなたカフェに通う。俺は、このカフェに通うことが一週間の始まりの、力の源になっていた。
「いらっしゃいませ〜! 今日もブラックですか?」
店主がいつものように声をかけると、俺は一瞬の逡巡の後、「いや、カフェモカで」と言った。
店内に衝撃が走ったように全員が一斉に振り向く。中でも店主は目を大きく見開いていて、口はぽっかりと空いていた。
「……え? お客さんどうしたんですか? 何か嫌なことでもありました?」
嫌なことはありまくりだ。先週は嫌なことしかなかった。俺は、気を使われないようにわざと軽快に話す。
「いや〜俺がやらかしましてね。取引先にこっぴどく怒られてきました。それに、妻の機嫌もちょうど悪くて。『子供の幼稚園の送り迎えぐらいできないの?』って小言言われちゃいました。今日も『喫茶店に毎週通うなんていいご身分ね。私もそんな時間欲しいわ』ってね。しかもこれからまた取引先に謝りにいくんですよ」
店主は心底気の毒そうな顔をした。
「うわ〜。それは大変だね。これから取引先に謝りに行くっていうのが、また気分を落ち込ませるよね。今日は自分へのご褒美でカフェモカなんですか? お客さん、実はカフェモカ好きだったの?」
「そうですね、甘いもの好きですね。見た目に似合いませんけど。今まで妻の小言がいやで一番安いブラックにしてきたんですけどね。今日ぐらいはいいかなって」
「それめっちゃ大切だよ〜! 自分を甘やかしていかなきゃ! じゃ、カフェモカ作ってきますね〜」
嫌なこと続きの最近だが、ようやく心が落ち着いたようだ。
いつも絵を描いている女性が、こちらを見て、「無理しないでくださいね」と言った。
彼女の絵を見ることも、一週間のご褒美のようになっている。
ここは居心地の良い場所だ。
俺は、気の利いた返しができずに、ただ「ありがとう」と言った。
店主がカフェモカと一緒に、紙袋を持ってきている。
「カフェモカです〜。あとこれ、よかったらなんだけど、試作のマフィン! 取引先にお土産で持って行く? 試作だから、お金はいらないよ〜」
「そんな。ありがたいですけど、ただではもらえませんよ。お金払わせてください」
「いいのいいの。私が勝手に持たせようとしてるだけだからさ」
「そうですか? じゃあ、遠慮なくいただきます」
カフェモカは、ほろ苦い中にチョコレートの甘さがある。これを飲んだらもうブラックは頼めないかもしれないな。そう思った。
先日と同様に取引先に謝りに行く。「これ、もしよろしければ、マフィンです」といって、相手に差し出す。
これで受け取ってもらえなければ、店主に悪いな、なんて思っていると、「まあ、これを一緒に食べながら一旦冷静に話し合おうや」と言った。
大した解決策は出なかったが、なんだか一歩前に進んだ気がする。
家に帰って妻に、「今日なんか機嫌いい?」と聞かれる。
「今日カフェモカ飲んだからかな」
「何それ」
妻は少し笑った後、俯く。
「今日はごめんね。ちょっとイラついてて、あなたに当たってしまったの。あなたも仕事で大変だってわかってるんだけど」
「全然いいよ。今日はカフェモカ記念日だから」
「だからなんなのそれ?」
「いらっしゃいませ〜。あ、今日は?」
「カフェモカで」
なんだか店内の視線が生暖かい気がするが、悪い気はしない。
「あ、あとマフィンも」
今日も俺は月曜朝8時にひなたカフェへ通う。
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