第2話 最後のメタトリン(②)

 サリンは、一瞬で理解した。

 目を見開き、驚きと興奮に満ちた声を上げる。


 「魔法使い!……あなたは魔法使いだ!」


 その声には、興奮だけでなく恐怖も混じっていた。

 最後の言葉は喉の奥でつかえ、飲み込みそうになった。


 シランの町では、魔法使いの姿が消えてすでに二百年以上が経つ。

 だが、それは決して魔法使いという存在が忘れ去られたことを意味しない。


 魔法使い――それは、神秘、高貴、畏怖、そして遥かなる存在。


 庶民が魔法使いに出会うことなど、あり得ない。

 彼らに接触できるのは、皇帝、貴族、軍の上層部、もしくは巨万の富を持つ者だけだ。


 魔法使いは、常に孤高の存在。

 世俗の法に縛られず、莫大な財を築き、圧倒的な力を持つ。

 たった一人で都市を滅ぼすことさえできるほどの力を。


 皇帝ですら、魔法使いには頭を下げざるを得ない。


 ――生ける伝説、それが魔法使い。


 彼らは魔法塔を築き、その中に閉じこもって修行を重ねる。

 世の権力など意に介さず、どれほどの戦乱が起ころうと、誰も魔法塔を攻撃しようとは思わない。

 なぜなら、魔法使いを敵に回すということは、即ち破滅を意味するからだ。


 もしある貴族が魔法使いの庇護を得られたなら、その瞬間、彼の地位は天をも突き破る。


 サリンの思考は、激しく揺れ動いた。

 この魔法使いの出現は、間違いなく自分の運命を変える――!

 だが、どうすればいい?

 金貨を要求するべきか?

 しかし、魔法使いの機嫌を損ねたら……?


 思考がまとまらないまま、サリンの頭には、ただ一つの言葉がこだましていた。


 金貨!金貨!パン!家!


 「百枚の金貨ではどうだ?」


 魔法使いはサリンを一瞥し、淡々と告げた。


 「さらに街で家を買ってやろう。お前一人が暮らすには十分な広さだ。」


 サリンの痩せ細った体は、今にも折れそうな枯れ枝のようだった。

 肋骨は浮き上がり、体のあちこちには青黒い痣が広がっている。

 その悲惨な姿を目の当たりにし、魔法使いの瞳がわずかに揺れた。


 百枚の金貨――!


 サリンの脳内に、その言葉が衝撃のように響く。

 すぐにでも頷きたかった。

 だが、その瞬間、肋骨の痛みが鋭く走った。

 息を呑み、身を縮める。


 「おや、見せてみろ。」


 魔法使いは片手をかざし、淡い青色の光を放った。

 光がサリンの体を包み込む。


 ――温かい。


 まるで心地よい湯に浸かっているようだった。

 光が皮膚に染み込み、痛みはすうっと消えていく。


 その時、サリンの心に、ある考えが生まれた。

 それはまるで、悪魔の囁きのように強く、抗いがたく、彼の心を支配していく。


 「金貨ではなく、魔法を……!」


 サリンは拳を握りしめた。

 背筋を伸ばし、決意のこもった声で言う。


 「金貨はいりません!」

 「魔法使い様、どうか私を弟子にしてください!」


 魔法使いの表情は、変わらなかった。

 だが、その黒曜石のような瞳が、じっとサリンを見つめる。


 「弟子になりたいのか?」


 低く、静かな声だった。


 「はい!私は魔法を学びたい!」


 サリンは震えながらも、はっきりと答えた。


 生きるためには、魔法を学ぶしかない。

 金貨を受け取っても、使い果たせばそれで終わる。

 家を買っても、盗賊に襲われれば、それまで。


 ――ならば、魔法の力を手に入れるしかない!


 「魔法の道は険しいぞ。」


 魔法使いは、淡々と告げた。


 「十人に九人は魔法学徒になれる。だが、百人に一人か二人しか、魔法使いにはなれない。

 学徒の魔力は、大したものではない。せいぜい生計を立てる程度のものだ。

 それでも、お前が弟子になるなら、この道を途中で捨てることは許されない。」


 サリンは迷いなく膝をつき、深く頭を垂れた。


 「どうか、弟子にしてください!」


 「立て。」


 魔法使いの声が、冷たく響いた。


 「魔法学徒であろうとも、誰かに跪くことは許されない。

 これが、お前の人生で最後の跪きだと心得よ。」


 サリンは驚きながらも、すぐに立ち上がった。

 魔法使いは――彼を受け入れたのだ。


 「お前の名は?年齢は?」


 「サリンです。今年、十歳になります。」


 魔法使いは、ふっと微笑んだ。


 「まずは、服を着替え、何か食べるといい。私は客間で待っている。」


 「はい!」


 サリンは、一気に駆け出した。

 背中に、これまでとは違う熱が宿っていた。

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