ブルーバッジ・レガシー

ヒロコ

第1話 最後のメタトリン(①)

 スコチェニア帝国北部の港町、シラン。


 突如として豪雨が降り始めた。砲台の隙間から強風とともに吹き込み、夜空はまるで龍の血で染められた墨のように黒く淀んでいた。

 漁船は港の中で縮こまり、荒れ狂う波が防波堤を激しく打ちつける。

 轟音とともに十数メートルもの水煙が上がり、まるで海が怒り狂っているかのようだった。


 降りしきる雨はあっという間に街を飲み込み、貧民街の路地という路地を浸していく。

 五年以上も修繕されていない排水設備は、今や完全に機能を失い、すべての水がその場に溜まっていく。

 瞬く間に、貧民街は濁った水に覆われ、ひとつの巨大な泥沼と化していた。


 かつて栄華を誇ったこのシランの街も、今や見る影もない。


 ユリの湾に面するこの港町は、かつて漁業で栄えたが、今やその産業も衰退し、街の収入は乏しい。

 城主にも打つ手はなく、排水設備を修復しようにも莫大な費用がかかる。

 必要なのは、錬金術に精通した魔法使いと大量の魔法学徒。

 しかし、シランには少なくとも二百年もの間、魔法使いの姿すらない。

 市政庁など、とうに形骸化し、もはや機能していなかった。


 轟――!


 雷鳴が空を引き裂き、閃光が暴風雨に飲まれた街を照らし出す。

 その閃光の中、嵐の吹き荒ぶ街の中を、一人の少年が水をかき分けながら進んでいた。


 彼は十歳ほどの年齢で、痩せ細った体には骨ばったラインが浮かんでいる。

 無造作に刈られた茶色の短髪はずぶ濡れになり、雨が睫毛を伝って落ち、目を開けることすらままならない。

 白い息を吐きながら、震える足で必死に前へ進む。

 胸に抱えているのは、油紙に包まれた何か――彼が今日手に入れた、わずかな食糧だった。


 ――ゴロゴロゴロッ!!


 轟く雷鳴とともに、少年の体はついに限界を迎えた。

 バシャッ!

 顔から水たまりへと崩れ落ちる。

 冷たい水が口の中に流れ込み、激しく咳き込みながらも、必死に立ち上がろうとする。


 だが、衰弱した体は言うことを聞かず、そのまま意識を失った。

 ――それでも、彼の手はなおも油紙の包みをしっかりと握りしめていた。


 ***


 嵐は二時間近く続き、ようやく雨が止んだ。

 積もった水が少しずつ引いていくなか、人々の姿が再び街に戻り始める。


 少年の体は雨水に流され、ある家の軒先までたどり着いていた。

 石造りの馬留めに寄りかかるように倒れ込んでいる。


 ガタンッ!!


 大きな扉が開き、一人の男が姿を現した。

 みすぼらしい格好の少年を見るなり、男はためらうことなく蹴り飛ばす。


 「こら、乞食!こんなところでくたばられては迷惑だ!さっさと失せろ!」


 その声は、金属が擦れるように耳障りなものだった。

 まるでタングラス帝国の宮廷で去勢された伶人のような、高く甲高い声。


 少年は激しく咳き込みながら、意識を取り戻す。

 全身が燃えるように熱く、発熱していることが分かった。

 だが、最初に確認したのは――手の中の油紙包み。


 それが無事であることを確かめると、彼はかすかに安堵の息を漏らした。


 ふらつく体を引きずりながら、這うようにして少し離れた場所まで移動する。

 そして、ついに包みを開いた。


 ――中に入っていたのは、カビの生えた古い米。


 本来なら家に持ち帰り、煮てから食べるはずだった。

 だが、今の彼にはそんな余裕はない。

 何か食べなければ、次の一歩すら踏み出せなくなる。


 口の中へと、米を放り込む。

 まるで砂を噛むような食感だった。

 奥歯で砕き、無理やり飲み込む。


 「ちっ、汚らわしい。」


 男は鼻を鳴らし、つばを吐き捨てると、家の中へと戻っていった。


 少年は冷たい地面に横たわり、半ば生のままの米を無理やり飲み下し、ゆっくりと立ち上がった。

 彼の家は、城の外にある。

 日が沈む前に戻らなければ――次の雨で、今度こそ凍え死ぬだろう。


 ***


 その背後で、朱塗りの大門がゆっくりと開かれ、一人の太った商人が姿を現した。

 安物の絹をまとい、油で固めた髪を撫でつけている。

 だが、雨に濡れ、その姿は滑稽だった。


 「おや?あれはメタトリン家のガキじゃないか?」


 商人は、少年の背中をじっと見つめながら、後ろの召使いに問いかけた。


 「サリンでございます、旦那様。」


 召使いが媚びるような笑みを浮かべながら答える。

 その声は、まるで首を絞められた鳥のように細い。


 「へえ、まだ生きていたのか。」


 「さあ……どこかの馬鹿が、まだ飯を施しているのかもしれませんね。」


 「ふん、気をつけておけ。あのガキがくたばったら、すぐに家を押さえろ。他の連中に取られるなよ。」


 太った商人はそれだけ言い捨て、肉を揺らしながら去っていった。


 「かしこまりました、旦那様。」


 召使いたちは従順にその影に続いた。


 夜は冷たく澄み、サリンは疲れた体を引きずりながらシランを後にした。

 胸に油紙包みを抱え、ゆっくりと祖屋へと向かう。


 この家こそが、メタトリン家に残された最後の財産だった。

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