うつろいの散歩道
@atarayonoyanagi
うつろいの散歩道
「あなた、私になにか隠してらっしゃるでしょ」
妻は、ここに来るたびにいつもこの台詞を言う。
東京都調布市深大寺。あと三カ月もすれば趣深く色づくであろう楓の木々に覆われた小道を歩きながら、妻はいたずらっぽさを含ませた瞳で僕の顔を覗き込んだ。
微笑まれた口元に優しく皺が寄り、四十半ばを過ぎて増えてきた白髪が夏の木漏れ日に反射してきらりと光る。
美しい妻だと思う。歳を重ねるごとに品が増しているというのに、僕を見上げる顔はいつまで経っても少女のように無邪気なままだ。
僕はそんな妻の顔を見つめ返すことができなくて、いつものように顔を背けた。
**********
「藤木さぁん、こっちですよ! ヒルザキツキミソウを見つけました!」
伸びやかで涼しい声に振り向くと、清水春子がこちらにむかって大きく手を振っていた。どうやら僕が池のほとりに咲いていたニワゼキショウに夢中になっている間に彼女は次の獲物を見つけていたようだ。若さを象徴するような艶やかな黒髪ときめの細かい白い肌が眩しい。
彼女の笑顔に魅せられる度に、僕はもう一人の人物の顔を思い浮かべて罪悪感に苛まれる。いい加減慣れても良い頃だと思うのに、心に沈む後ろめたさはどうも消えてくれない。春子との関係が始まってもうすぐ半年である。
こんなことが許されるわけがない。
引き返すなら今のうちだ。分かっているのに、彼女の美しさを前にして自分を抑制できるわけがなかった。春子の笑顔に吸い寄せられるように彼女に駆け寄る。彼女の横に立つと、下から薄桃色の愛らしい花が僕を見上げてくれた。
ヒルザキツキミソウ。完全に野花のニワゼキショウと違ってこちらは元々観賞用として栽培されていた帰化植物である。
それだけに野花の中ではかなり華やかな部類に入るこの花は日常の至るところで目にするが、まさか自分が庭のように通っている深大寺で出会うとは思っていなかった。深大寺の野草に大分詳しくなってきた春子もそれは同じだったらしく、ひっそりと木の陰に生息していた珍客を愛おしげに見つめている。
「ヒルザキツキミソウの花言葉って知っていますか」
不意に春子がこちらを振り向いて、思っていたよりも顔が近かったことに動揺した僕は仰け反った。濃い睫毛に縁取られた大きな瞳がそんな僕を見て一瞬ふふっと笑い、それから春子はどこか悲しげな笑みを僕に見せた。
「無言の愛」
咄嗟になにも返せなかった。新緑を揺らす初夏の風だけが僕らの間でさらさらと音を立てる。
最初に誘ったのは僕の方だった。偶然部屋に春子と二人きりになった時、企画のアイデアに頭を悩ませていた彼女に気分転換がてら深大寺に散歩にでも行かないかと声をかけたのだ。実際深大寺は僕が考え事をするときにぶらりと出向くとっておきの場所であったし、その日は彼女とこの小道を歩きながら企画作成の話しかしていない。
やがて春子から散歩の誘いがかかるようになり、周囲に隠れて二人で散歩するのが習慣になった今でも、話の内容が雑談の域を出ることはなかった。
―――それなのに
いつからだろう。やましいことをするわけでもないのに心に罪悪感が疼くようになったのは。二人きりではない日常のなかでも彼女と視線が絡み合う瞬間が増えたことに気がついたのは。
「・・・駄目だ。浮気なんて許されることじゃない」
なんて間抜けな言葉なのだろう。男とはなんて情けない。
「浮気? これのどこが? 私たち手だって握ったことがないのに」
そう僕を睨みつけた春子の瞳には涙の膜が張っている。
でも僕たちは気づいてしまった。二人で境内の小道を歩きながら、観光客で込み合う有名店を横目に穴場の老舗で蕎麦を啜って満足げに微笑み合いながら。他の参拝者が見向きもしない小さな草花を眺めて二人で思い出をつくりながら。
気づかないフリをしていただけで、本当はお互いに自分の気持ちなんてとっくに気づいてた。
「部長に・・・言われたんだよ。最近お前と清水ずいぶん仲良さそうに見えるけど、まさか、なにかあるわけじゃないよな、って・・・」
僕が静かに白状すると春子は息を飲んだ。部長はお人好しで周りの人間からの信頼が厚いが、その分おせっかいが先走りすることも多々ある人物である。僕たちのこんな不道徳な関係を知ってしまったら周囲を巻き込む形で事を荒立たせてしまうかもしれない。
だからきっと、僕たちの関係がこれ以上進むことはない。気分転換に深大寺を一緒に散歩する仲。それ以上でも、以下でもない。
「藤木さんは悪くないのに。アイデアに詰まった私のために散歩に誘って下さっただけなのに。私が勝手に―――」
震えた声。けれど春子はまっすぐに僕を見ていた。
「―――好きになっただけなのに」
抱きしめたい。強く強く彼女を抱きしめて触れた熱から自分の感情を彼女に伝えたい。けれど世間の目が僕にそれを許してくれない。
いつのまにか春子の瞳の堰は決壊していた。僕はやはりなにも言うことができなくて、頬を濡らす彼女の横で黙って立っていることしか出来なかった。
**********
「はい、あなた」
出来たてを屋台で購入してきた妻が蕎麦饅頭を一つ手渡してくれる。五十近くなって「わくわく」という表情がここまで似合う女性はなかなかいないだろう。
ありがとう、と短く礼を言った拍子にふと言葉が漏れ出た。
「俺は・・・最低な男だ」
不穏な響きに眉をひそめるでもなく、妻は目をぱちくりさせた。
「あら、どうしてですの」
「溝呂木(みぞろぎ)からお前を奪ったじゃないか」
敢えて彼女から目を逸らしてぶっきらぼうに答えると、妻は「まあ呆れた」と唇を尖らせてからくすくすと肩を震わせた。
「何度も言っているじゃありませんか。奪うも何も、私があなたとお付き合いを始めたのは溝呂木さんときちんとお別れしてからです」
そういえば、と懐かしそうに目を細めた妻の口調は完全に僕のことをからかうものになっている。
「当時も、浮気は許されることじゃない、とかあなたはしょっちゅう気にしてましたけど、私が溝呂木さんとお付き合いしている間は手を握ることさえして下さらなかったじゃありませんか。あなたは本当に昔から義理が深すぎるというか生真面目というか・・・」
「仕方ないだろう、俺は溝呂木と学科も同じだったんだから。お前と会う度にあいつの顔が頭に浮かんでさ、罪悪感でいっぱいだったよ」
「まあ、確かに部長に怪しまれたと聞いたときは焦りましたわよ。あなたとの関係がきちんと形を成す前に周りにとやかく騒がれてしまっては困ると思って」
我が国際基督教大学演劇部の部長は実に友情に熱い男で、僕らが溝呂木に対して後ろめたい関係にあったと知れば、部室で舞台の企画アイデアに行き詰っている後輩を見かねた先輩が気分転換に散歩に誘っただけ、などという言い訳には耳を貸さずに激怒していただろう。
「ここは私にとって青春の素敵な思い出が詰まった場所なのに、あなたにとっては罪の記憶を呼び起こす場所になってしまっていたなんていただけませんわね」
妻は怒ったように頬を膨らませるものの、自分で我慢できなかったのか吹き出していつもの笑顔になる。
「罪悪感なんて抱かなくていいんですよ。最初にあなたが私を誘って下さったのも、後輩への親切心以外の、なにものでもなかったんですから」
屈託なく言ってのけた妻に僕は内心で溜息をついた。これがここに来るたびに妻に「なにか隠しているでしょう」、と突っつかれる「なにか」だ。
散歩の回数を重ねるうちに恋愛感情が生まれた、なんていうのは都合の良い脚色で、男は最初に女の子に声をかける時点で既に下心に突き動かされている生き物だと教えたら、妻はどんな顔をするだろうか。
「ねえ、やっぱりなにか隠してらっしゃる」
いたづらっぽい笑みを浮かべて僕を覗きこむ彼女は相変わらず無邪気で、愛らしくて―――でもどこかで僕の本心を知っているようで、
「勘弁してくれよ、春子」
恥ずかしくなった僕はまた、いつものように妻から顔を逸らした。
自分は全てを知っているとでも言いたげなヒルザキツキミソウだけが、二十数年前と同じ場所で僕らのことを静かに見上げていた。
Fin
うつろいの散歩道 @atarayonoyanagi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます