第1話 残酷な世界
「オラァ!こんのクソガキめ、作業中にこっそりサボって虫を食いやがって!!」
背後で響き渡る怒号に思わず振り返ると、地面に叩きつけられた小さな身体が震えているのが見える。
赤黒い痣だらけの細い腕を丸め、顔を隠すようにして蹲るその子を、大柄な保衛官が容赦なく蹴りつけていた。
子どもの小さなうめき声が耳に突き刺さるたび、胸がギュッと苦しくなる。
「いた、いたい、いたいよぉ……」
誰も動かない。誰も声を上げない。
みんな、背を向けるか、目を逸らしている。
「だれか、たすけて……たす、けて…………ぐはっ……」
ああもう、どうしてあんなに小さい子どもを痛めつけられるの?
空腹を凌ごうと必死だっただけだろうに、どうしてあんな目に遭わなきゃいけないの?
「…………もうやめて!」
気づいたら声を出していた。
僕の声が響いた瞬間、周囲にピリッとした緊張が走るのがわかる。
囚人たちは一斉に僕を振り返り、息を呑んだ。冷たい視線が突き刺さる。
やがて、保衛官の足が止まる。ゆっくりと顔を上げた彼は、口元ににやりとした笑みを浮かべていた。
その不気味な笑顔が、まるで「次はお前だ」と言っているようで、思わず足がすくむ。
「おやおや、誰かと思えば……またお前か、ツァイ」
周りが一気にざわめいた。
耳に入るのは、冷たい声ばかり。
「またあいつか……いつもいつも正気じゃねえ……」
「中途半端に首つっこんで、余計に怒らせやがって」
「永久収容者は頭もイカれてやがる」
そんな言葉を無視して、僕は子どもの前に立ちはだかる。
「お、お願いです……この子にもう暴力を振るわないでください……!」
「ほう?」
保衛官は腕組みをして、興味深げに僕を見下ろした。
「じゃあ代わりに、お前が殴られたいのか?」
僕は息を飲みながら、拳を握りしめて震える声を絞り出す。
「……はい、それでも、構いません…………」
保衛官は一瞬目を細め、それから愉快そうに笑い出す。その笑いが止むと同時に、彼の靴先が勢いよく僕の腹に食い込んだ。
息が詰まり、身体が勝手に折れる。直後、僕の頭は鷲掴みにされ、勢いよく地面に押しつけられた。土と汗と血の混じった鉄の匂いが鼻を刺す。
「お前はいつも面白い奴だな。そんなに言うなら、本当にこのガキのために死ねるのか試してやろう」
「僕のことはいくら殴ってもいいから、だから、その子だけは……」
すると保衛官は僕の頭から手を離し、再び不敵な笑みを浮かべた。
「…………ほう。分かった、じゃあ次はこうしてやる」
そして、僕の後ろでうずくまって泣きながら助けを求める子どもに視線を向ける。
「たすけて、たすけて……おかあさん……だれか…………」
パアンッ。
そして響き渡った――銃声。
背後から、一瞬にしてその子が崩れ落ちる音が聞こえる。
慌てて振り向いて駆け寄るも、頭から大量の血を流すその子が、再び目を開けることはなかった。
「さあ、次はお前だ。カシア・ツァイ」
今度は銃口が僕に向けられる。
保衛官の歪んだ笑みを見て、思わず目をギュッと瞑った。
その瞬間――。
「何やってんだよ、この能天気バカが」
聞き慣れた低い声が聞こえた。驚いて顔を上げると、そこには見覚えのある少年が立っている。
「…………キラ!」
「ったく……死にてえのかお前はよ」
キラは僕を振り返ることなく、僕を庇うように保衛官に向かって立ち塞がった。
保衛官が眉をひそめる。
「お前は……労働39班のキラ・リーだな?」
「そうだよ。それがどうした?」
「こんなことして、ただで済むと思ってんのか?」
「思ってねえよ。だから、保衛官さまのお眼鏡に適うもんを持ってきた」
そう言って自信満々にキラが差し出したのは――――薄汚れた女物のパンツ。
「………………何だそれは?」
「ここらの囚人で一番美人と名高い、労働54班ジオン・ウェイのパンツだ。見てみろ、本物だぞ」
キラは得意げな顔で、ひらひらとパンツを見せびらかす。
僕はというと…………ちょっとあまりにも予想外すぎて、開いた口が塞がらない。
保衛官は眉をひそめ、パンツをしげしげと見つめる。それから鼻を鳴らして、満足気に言った。
「……ふん。まあ、今回は多めに見てやろう。でも次はないからな」
そうして辺りをキョロキョロと見回してからパンツを奪い取り、そそくさとその場を去っていった。
保衛官が完全に見えなくなったのを確認したキラは、僕に向き直ってため息をつく。
「おい。そこに倒れてるガキさっさと埋めて、配給貰いに行くぞ」
「……うん、いやあの待って? 色々追いついてないんだけど、まずその……あのパンツは、本当にジオンの……?」
「バーカ、んなわけねえだろ」
「えっ、じゃああれ……誰の…………?」
「3日前に病気でくたばったウリ婆ちゃんのだよ。案外バレないもんだな」
……ケロッとした顔で悪びれもせず、あっけらかんと言うキラ。
そんな彼に、僕はもはや脱力するしかなかった。
「……キラ、いつかウリ婆ちゃんに呪い殺されても知らないからね」
感謝と呆れが混じった複雑な感情に、思わずため息が漏れてしまう。
そして僕は冷たくなってしまった男の子を抱き上げて、ゆっくりと立ち上がった。
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