色眼鏡
高遠みかみ
色眼鏡
目の前の父は青筋を立て、こちらを睨んでいる。
「おい、この色男。おまえはいつになったら働くんだ、ええ?」
父は言った。こめかみから、父の青筋という青筋が、ピーンと水平に立っていた。壊れたシャンプーハットにも見えた。熟れていない果物のように青々しく、涼しげな色だ。
「おい、聞いているのか」
僕は立ち上がって去ろうとする。
「いいか、おれの目の黒いうちは勝手させんぞ」
父の目が黒く塗りつぶされていた。さながらオニキスが埋まっているようだった。 僕は古色蒼然とした部屋から逃げ出した。廊下で鏡を見た。父が皮肉として発した「色男」のせいで、僕の全身は輪郭をもった虹のごとく輝いていた。だが、すぐに無色になった。
僕の目元には、視力矯正器具として名高い眼鏡が備え付けられている。しかし、普通の眼鏡ではなかった。これは、慣用句やことわざ、比喩、二次熟語の「色」に関する表現を、直接見ることができるものだったのだ。なんと言葉遊びにも対応している。角張ったフレームや薄いレンズに変わったところはなく、いつ手に入れたかも定かではない。また、他人がかけても意味はなく、僕がかけるときだけ、色が発生する。ともかく、僕はこの愉快な眼鏡を「色眼鏡」と命名し、後生大事につけているのだった。
かつて僕が通っていた中学校まで歩いた。校庭では野球の試合が行われていた。公式試合なのか、親たちも校庭の端で黄色い声援を飛ばしている。声色は、タンポポの花のような色彩で漂っていた。フェンス越しに得点盤を見る。8-0。0点側のチームは灰色に覆われている。
いやな記憶がよぎった。あのとき僕は外野で、自チームは無失点だった。僕の方にフライが来た。それは誰もが取れるようなフライだった。その「誰も」に、僕は入っていなかった。みんなの白い目が一斉にこちらへ向けられた。あの光景は忘れられない。思えばその日からずっと、僕は色を失っているのかもしれない。
「おーい」
少し離れた場所から女性の声がした。見ると、女性はフェンスの外側から選手を呼んでいるようだ。小さなひとりの選手が、恥ずかしそうに「どっか行けよ、姉ちゃん」と言った。女性は微笑んだ。僕はその顔に見覚えがあった。
「あの」僕は思いきって話しかけた。「卒業生の方ですか」
「ええ、そうですけど」一瞬、目を白黒させて女性は言った。
「あれ? もしかして、赤松くん?」
彼女は同級生の青葉桜さんだった。気づいた瞬間、他人という赤いベールが剥がれ、色々なことを思い出した。
中学校の教室、黒板の上のクラス目標には「十人十色」。長年使い回され、色褪せた机。ブラックホールのごとく腹黒いぶりっ子。ピンク色の、性に関するなにがしか。そんな混沌のなかで、僕と彼女にクラス委員の白羽の矢が立った。あれが僕の黄金時代だった。才色兼備な彼女と、二人きりの時間も少なくなかった。そのころ、僕は尻の青いガキだったから、色恋とは縁遠かった。思い返せば、あれは初恋だったのだろう。
「ひさしぶり。そうだよ」僕は言った。
「びっくりした。成人式にも、同窓会にもいなかったよね」彼女は言った。
当時、僕は大学受験に失敗し、浪人する気も起きず、社会的に褒められないような姿で生きていた。そんな状態で式や会に出ても、赤っ恥をかくだけだと考えたのだ。
「さっき、誰に声かけてたの?」僕は言った。
「弟。すごいんだよ、一年生なのにレギュラーだって」彼女が言った。
「でも……」
彼女の弟のチームはいまだ0点だった。
「こんなこと言っちゃなんだけど、敗色濃厚だね」僕は言った。
「まあね。そんなもんだよ」彼女は言った。
彼女の色は、昔より増えていた。底なしの深紅もあれば、鈍い群青もある。このような状態を、僕は知り合いのイケメンで見たことがある。彼は色男だった。つまり彼女は色女なのだ。
「野球は好き?」僕は言った。
「そんなに」彼女は言った。
「じゃあ、何が好き?」
「何だろう、最近は本かな」
「小説とか?」
「ううん、詩。現代詩って言うのかな」
「へえ。珍しいね」
「結構面白いよ」
彼女の面が白くなった。彼女はカバンから一冊の詩集を取り出した。僕の面がさあっと青ざめた。それは、父の詩集だった。
父は作家で、詩人だ。ただ、僕が生まれる前はそうではなかった。父が詩を書き始めたのは母の影響だ。母は詩人だった。しかし、僕を生んで早々に逝ってしまった。母は「現代詩の次元を一段引き上げた」と言われるほどの名手だった。母の夭折は、ネット上の恥知らずたちから「詩に取り込まれた」とうわさされた。そのころから、父は詩を書き始めた。鬼気迫る勢いだった。父は母の跡を追おうとしているように見えて、それがとても怖かった。僕は父が大好きだった。長生きをしてほしかった。だから、詩を書いた。父の書く文章、そのくっきりとした比喩、消え入るような物語性、それらを褒め称える詩を。一言でいうなら、媚びた詩だった。
父は言った。「二度と、こんなものを書くな」
その瞬間、僕の詩は永遠に死んだ。父が嫌いになった。僕らの関係はそれ以来、土気色だ。
彼女、青葉桜とは、頻繁に会うようになった。元々気が合うし、本の話なら得意だったからだ。ただし、父の作品に関しては口をつぐんだ。
「ねえ、どうして避けようとするの?」彼女は言った。
「何が?」僕は白を切った。白い布のようなものが目の前を横切ったかと思うと、ずばっと横一文字に切り裂かれた。
「この詩集の話題。知ってるでしょ。反応的に」彼女は本をかざした。
「……それ、僕の父さんが書いたんだよ」僕は白状した。
「えっ! 嘘!」彼女の目の色が変わった。宇宙の黒から星の金に。
「本当だよ」
「もしかして、お父さんと仲良くないの」
僕は難色を示した。説明できない色が視界を遮る。
「繁は、何か書かないの」
「え、どういうこと?」
「せっかく作家の子供になったんだし、創作しないのかなって。才能ありそうだし」「ないと思うよ」
「わかんないじゃん」
すでに諦めた道だと思っていた。だが、なんとなくいまなら書けそうな気がしていた。彼女のおかげかもしれなかった。
「あ、ごめん。勝手なこと言っちゃって」彼女は言った。
「いや」僕は言った。
「書いてみるよ。詩を」
「できたら見せてね」
「ところで、もしよければ僕と付き合ってくれないかな」
「……いいよ」
「え、ほんと」
「働いてくれたらね」
こうして、僕は無色ではなくなった。くすんだグレーに過ぎないけれど、色が付いたのだ。
アルバイトと同時に、僕は創作を始めた。目標が欲しかったので、ひとまず「現代詩」と書かれた賞や、人名が冠されている賞に応募して、佳作以上を狙うことにした。母の名前が冠された賞もあった。応募した。
結果、総スカンだった。僕は作品を見直した。あれだけ「これは出色の作品だ」「まさに白眉だ」と思っていた作品が、いま見返すと、どれも稚拙で浮ついていた。どこか他人事のような文章だった。
父に、相談してみよう。いまなら話し合える気がした。
父の書斎は、古く、蒼い色をしている。それでも、机の上に開かれた詩の習作だけは、あたたかい緋色だった。母の詩は、違った。母は血を書いていた。すでにそれは色ではなかったのだ。母の書いていたものは一体何だったのだろう。永久に知ることはできない。
「許可なく部屋に入るな」父が僕のうしろで言った。
「ごめん」僕は言った。
「聞きたいことがあって」
「晩飯ならもう買ってあるぞ」
「ちょっと、詩について」
父の顔から色が失われる。
「詩」
「うん、いま書いてるんだ。それで……」
「もういい」父は即座に言った。「勝手にしろ。おまえの詩の話など聞きたくない」
置いていかれた気分だった。同時に、父の運命を変えてしまった母のことを考えた。僕は母の息子だ。僕にも立派な詩が書けるはずだ。そうすれば、父もまた話を聞いてくれるはずだ。
その日からずっと、母の詩について調べた。母が生前残した詩、まだ文庫化されていない未発表の詩まで、読みあさった。血眼になって。あるはずの血筋を、才能のかけらを探して。
「どうしたの?」桜は言った。
「どうもしてない」僕は言った。
僕らは紫煙くゆる喫茶店にいた。紫と灰の入り交じったタバコの煙がこちらまで流れてきて気が散る。僕の集中を削ぐ陰謀なのか? 黒幕がいるのか?
「ねえ」
桜の姿を見る。彼女の色が薄くなっている。いや、少なくなっている。なぜ?
「どうしたんだよ、その色」
「え、色? 今日の服?」
僕は理解した。桜は「色を売っている」のだ。
「誰だ。誰と卑しいことをした」
「急にどうしたの」
「知らなかったよ。きみが色情魔だったなんて」
「私が浮気したって言いたいの? 失礼なこと聞かないで。誰ともしてない」
桜の口元から赤いくすぶりのようなものが見える。「真っ赤な嘘」だ。これまで何千回と見てきたもの。醜さの証左。
「嘘をつくな!」
僕が言い終えた瞬間、桜は僕の鼻頭にパンチを入れた。フック気味のストレートだ。
「最低」
両方の穴から鼻血が出ていた。桜は伝票を残して去っていった。
トイレの水道で顔を洗う。桜のすさまじい殴打によって「色眼鏡」がひしゃげていた。僕は色眼鏡を外した。そのとき、おかしなことに気づいた。色眼鏡をかけているとき、水はすべて「水色」に見えていた。それが、外したいまも、水道から流れる水は「水色」だった。
僕は気づいた。色眼鏡は関係ないのだ。僕の視界には、最初から色が付いていた。色眼鏡にとらわれていたのだ。
家に戻ると、詩を書いた。嘘の真っ赤など入り込む余地のない、僕の目から見た色のすべてを。そして、父の部屋に向かった。
「父さん」向かい合って、僕は言った。
「何だ」父は言った。
「これを読んでほしいんだ」
僕は大学ノートに書いた4つのソネット詩を渡した。父は意外にも、素直に読み始めた。長い沈黙のあと、父は言った。
「これはひどいな。青臭すぎる」
目の前に青菜やほうれん草が現れて、視界を埋めた。ぷんとにおった。
「くちばしが黄色い、青二才の作品だ」
僕の唇はレモンのようにとがり、さらに全身が青くなって二才になった。
「でも、悪くないんじゃないか」
二才の僕が顔をあげた。
「おまえに、人を追うような詩を書いてほしくなかったんだ。親のことなど気にするな」父はひとりごとのように言った。
子どものまま、僕は、詩と父をわずかばかり理解した。
一面の銀世界だった。雪が光を四方八方に反射させていて、眩しかった。降り立つように、桜は不機嫌そうな顔で現れた。桜の色が変わったのは、僕の色に近づいていたからだった。パレットの上で混ざり合った僕らは、おそらく、お互いの色の中間色になっていたのだろう。
「何か言いたいことは」桜は言った。
白日のもと、僕は言った。「愛しています」
桜は、喜色満面で応えた。彼女の口から、赤い糸がかすかに覗いていた。
色眼鏡 高遠みかみ @hypersimura
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