今日は
KN
今日は
改札を抜けてまばらな人混みの中を練り歩く。赤ら顔で騒ぐ人もいなければ、淀んだ目で下を向いた人もいない。エネルギーに溢れた声が響いている。完全に統一された我々と違い所属ごとに装いが異なる者が多い。もしかするとそんな彼らは光合成の機能を備えているのかもしれない。電車の到着と共にそんなことを考える。
転落防止用のゲートが開き、続いて車両のドアが開く。いつもなら顔しかめてしまうような不快な熱気が来るが、今はそんなことはない。普段より数段軽やかに私は足を踏み出した。そのまま一直線に座席へと向かい、勢い良く腰を下ろす。すると、体中のありとあらゆる場所から力が抜けた。毎度驚かされる。毎日何時間も椅子に座っているのにあの目に優しくない光を放つ物体が存在しないだけでここまで違うのか。
この時間だけは私にも葉緑体が宿るのだ。毎週この日はノー残業デーだとか言って定時には帰される。それはそれで急ぎの分はどうするのかとか考えることもあるが、会社が言い出したのだから仕方がないと開き直ることができる。
平べったく閉まった鞄を開ける。ペットボトルのコーヒーを取り出した。これを見るたびに年月の経過を感じられる。コーヒーなんてとても飲めたものじゃなかったはずなのに今では手放せない。舌に残る苦みが色々と奪い去ってくれる。
ペットボトルをしまうと次に私は文庫本を取り出した。栞が挟まれたページを開くと文字の羅列が現れる。これもコーヒーと同じだ。かつては授業で取り上げられた作品を読むだけで眠たくなったものだが、よくわからない数字に比べればよっぽどましに思える。それに、本は新たな世界を教えてくれて、メトロノームのような単調なリズムを刻む日々に変化を与えてくれる。
だからこそ、このただ読書に没頭できる時間が私にとって非常に大切なのだ。上がった口角を押さえながら、私は目の前の文字に集中し始めた。
しばらく読み進めていると車内がにわかに騒がしくなった。ふと、顔を上げると高校生ほどの一組の男女が乗り込んで来たようだった。身にまとっている制服から同じ学校なんだろう。その関係はわからないがにこやかに話している様子から悪くない仲なんだと推測できる。
いや、何を真面目に分析などしているのか。頭を振る。今は知らない年下の少年少女のことなどどうでもいい。佳境に入った物語の方が重要なはずだ。
再び文字を追おうとすると、子供たちが私のすぐ側にやってきて話し始めた。
「なあ、ずっと不思議に思ってたんだけど。なんでこんにちはって言うんだ?」
しばらく何かを話していたかと思うと少年がそう言った。唐突な疑問だ。今思いついたというように軽く口に出した感じだ。
「さあ、なんでだろう。でも、別に普通にじゃないの? ほら、英語だってハローって言うけどなんでそう言うのかわかんないし」
少女も軽い調子で答えた。まあ、実際私もそう思う。挨拶など昔から言っていた言葉が転じて生まれただけで、それ自体に意味などないだろう。
意識を彼らから離してページを捲る。そろそろ証拠が集まって密室のトリックが解き明かされようとしているのだ。
「俺はさ、もしかしたら何か意味が隠されてんじゃないかって思うんだよ」
少年はまだ納得がいっていないようで更に続ける。文字の上では探偵が凶器を特定した。
「それってどんな?」
「ほら考えてみるとさ、こんにちはって漢字で書くと『今日は』じゃん。それって変じゃないか?」
少年が老年刑事と同じように「うーん」とうなる。残念ながらここに探偵はいない。少年、君もそんなことより本を読むべきだ。優越感と共に栞を挟む。今まで出揃った情報で推理しておきたい。これこそがミステリーの醍醐味だ。
まず気になるのは事件の第一発見者だ。あの男は不自然な挙動が多かった。いや、待てよ。単純な読者を惑わすミスリードかもしれない。私はもうひねた大人なのだ。これしきのことで騙されたりはしない。視野を広く持つんだ。鼻を鳴らして腕を組む。
「だからさ、きっとその後に他の意味が省略されてるんだよ」
少年が見当違いな推理で捜査をかき乱す新人刑事のように自信満々に言う。私も奴の言葉には随分と迷わされた。だが、その余計な一言が役に立つこともなくはない。
被害者の妻はどうだろうか。彼女はどうにもそっけなかった。ただ傷心しているとだけとは思えない。何か不和でもあったかもしれない。それが動機になったのかも。
「『
少女が探偵の突飛な行動に困惑した助手のように問う。基本的に助手視点で話が進んでいたせいで探偵の考えが読み取れない。だからこそ、考える余地もあるというものだが。
「そういうこと」
「だとしたら何て意味だろうかな?」
すると、今度は探偵のように気障につらつらと語り出した。
「挨拶にマイナスの意味なんてないだろうし。だから、俺はプラスの意味があると思う。
探偵は何か確信があるようだが、アリバイをどうやって崩すのか。私はそこで詰まってしまっている。
「そっか、そうだったら何だか嬉しくなるね。私もちょっぴり言いたくなってきた」
少女は何も知らない通行人のように呑気な様子で「こんにちは!」と言っている。
そうだ。単独犯ではなく複数人による犯行の線はないだろうか。そうすれば強固なアリバイも信用がなくなる。だとすれば被害者の妻はどうか。もしかすると浮気相手が容疑者の中にいて、協力しているかもしれない。動機もドロドロとした愛憎劇だと考えれば辻褄が合う。私は興奮気味に本を再び開いた。
「もしかしたら、他にもそういう感じに省略されてる言葉もあるかも!」
「どうかなあ」
少女の言葉に対して、助手からの質問を煙に巻く探偵のように曖昧な答えを返す少年をよそに、全員が一堂に会した場面を読み進める。その中心に探偵がキセルを吹かせながら立った。推理ショーの開幕だ。
私が意を決して更にページを捲ろうとした時、肩から衝撃を感じた。バランスを崩して、本を落としそうになる。思わず隣を睨みつけた。誰だ、この場面で水を差したのは。
しかし、私の事件を追う警察のような苛烈な正義感にも似た感情はみるみると萎んでしまった。私の肩への衝撃の正体は、隣に座ったサラリーマンの頭がもたれて来たことによるものだった。隣のサラリーマンは荒波の中にでもいるかのように船を漕いでいる。彼も光合成の最中なのだろう、気持ちはよくわかる。これが横柄な態度で行われていたのならば私も荒々しく離れるが、こうも肩を小さくして眠られると起こしてしまうのはあまりにも忍びない。
私は仕方なく皮脂の臭いに耐えながら読むのに適した体勢を模索し始めた。
「おはよう! こんばんは! うーん、何か違うなあ。そっちはどう?」
「俺も。案外出ないな」
私の苦悩も知らないで学生たちはそう宣っている。私が八つ当たり気味に脳内で文句を言っても彼らは気にも留めていない。
「ねえ」
唐突に少女が少年の袖を引いた。すると、少年がしゃがこむ。もしや、私の大人げない念が届いてしまったのか。慌てて背筋を伸ばして、読書の姿勢をとる。そこで気づいた。本に挟んであった栞がない。周囲を探すとちょうど少年が拾っているところであった。
どう声をかけるか。一方的に目の敵にしていたのでどうにも決まりが悪い。だが、少年は辺りをきょろきょろと見たかと思うと、すぐに私の前までやって来た。
「この栞、お兄さんのですよね? 落としましたよ」
そう言うと、口ごもってしまっていた私を意に介さず、栞を押し付けてきた。あっけにとられた私がはっと気づいて「ありがとう」と絞り出すと、少年はさわやかに笑って元の場所に戻っていった。
何と言えば良いのか。ほんの少し何だか悔しい。だがまあ、良いだろう。ようやく最適な体勢も見つかった。物語の結末を見届けようじゃないか。
場面は最終盤。言うまでもなく最高の見どころだ。登場人物のみならず、読者もみな固唾を飲む場面である。それは私だって例外ではない。
「ねえねえ。私思いついちゃった!」
「俺も思いついた」
「だよね! 今のって私は『ねえ』しか言ってないのに意味が通じた。だから、これも省略された言葉なのかも!」
しかし、なぜだろうか。どっぷりと創作の世界に浸かっていたいはずなのに彼らの声が耳に入る。
「でも、これはきっと赤の他人じゃ通じないな」
「確かに。じゃあ私たちだけに通じる言葉ってことだね!」
ええい、邪魔をするな。今に探偵が全ての真実を詳らかにするのだ。この場面を生半可な気持ちで読めば、今までの過程もまた生ぬるいものだったと認めるようなもの。それでは折角頭をこねくり回して出した私の推理も意味を失ってしまう。私は周囲の音をシャットアウトしようと努めた。
探偵が踵を鳴らす。深く被った帽子を整えて、一人一人の顔を見ていく。
「私たちだけの言葉って他にあるかなあ」
「俺は思いついた」
「何? 聞かせて聞かせて!」
「それはな――」
「それは?」
堪え性のない容疑者の一人が声を荒げて探偵に食ってかかった。もったいぶった態度が気に食わないようだ。探偵はそれを見て鼻で笑うと、決め台詞を言った。そして、事件が一から紐解かれていく。
まず探偵は密室を作ったトリックについて語り始めた。滔々と披露される推理に私も思わず膝を打つ。そこまでは考えが及んでいなかった。
次に探偵が言ったのは凶器とアリバイについて。前者については概ね情報通りで大きな驚きはなかった。だが、後者は私が特に気にしていたところだ。固唾を飲んで続きを待つ。
探偵は容疑者たちに改めてアリバイを聞いていった。当然、容疑者たちは過去の答えと同じように答える。だが、探偵はそれを聞いて頷いた。
私はすんなりと答えない探偵にやきもきしながらもページを捲る。彼の言葉を待ち、拳を握った。当たっていた。私の推理が当たっていたのだ。最高の気分だ。喜びの声を出さないように堪えているが口角が上がってしまう。
「紗季」
「何でいきなり私の名前……?」
「ほら、名前を呼ぶときって言いたいことによってトーンが変わるだろ? 知らない人相手じゃその機微は伝わらないだろうけど、俺たちだったら通じる」
「そっかあ、何か物を取ってほしいときとか何となくわかるもんね」
気の抜けたせいか学生たちの声がよく聞こえてくるが今となっては気にもならない。好きに話しておくがいい。私は一瞬であろうと、かの探偵と肩を並べたのだ。この高揚感は何物にも邪魔立てはできまい。
「それだけか?」
「それだけって、そっちは他に何か意味を込めてるの?」
「まあ、そういうことかな」
「えー、聞かせてよ! 私の名前をどんな意味を込めて呼んでるの?」
「内緒だ」
「気になるよ! お願い教えて!」
「……一回だけ呼ぶから。それだけなら」
彼らの声を心地の良いBGMにしながら更に読み進める。いよいよ真犯人がわかるのだ。本を持つ手にも力が入る。
探偵が手に持った杖を地面に突き立てて大きな音を鳴らす。そして、その名を――。
「――紗季」
思わず読む手を止めてしまった。声が聞こえなくなったのだ。私の集中力が増したわけではない。今だって電車が走る音や誰かのイヤホンの音漏れは聞こえている。つまりは――。
流されるように少年少女に目をやる。あれだけ親しそうに笑い合っていた彼らが気まずそうにしていた。目を合わそうともせずに互いにあらぬ方を見ている。
な、なんだ。ほんの少しの間に何があったんだ。いやいや、待て。どうでもいいことじゃないか。さっきまでどうしても耳に入ってきていた声がなくなったのだ。これで完全に集中できるだろ。
深呼吸をして文字を追う。そして、ついに探偵がその名を――。
「――末広」
前のめりになって読み取れるギリギリまで本を近づける。軽く咳ばらいをして、再度探偵の言葉に注目する。
「そ、それって……!」
「ふふ、どうだろうね!」
探偵は一体、何人の犯人を告げるのだ。いい加減、容疑者どころかこの場にいる人数も超えてしまうぞ。これでは複数犯どころの話じゃない。こんがらがった頭を整理するべきだ。確か、あの人と彼のアリバイが崩れて。ああ、それからどうなっていたっけ。
私は血眼になって読んでいく。
その時、電車が停止した。小気味良い音楽を伴って扉が開く。
「着いたね。降りよっか」
「ちょ、まだ聞いてない!」
どたどたと慌ただしい足音を出して彼らはいなくなった。
ほっと息を吐いてめちゃくちゃになった姿勢を正す。その時、油断があったのかつい見てしまった。扉が閉まる間際の彼らの姿を。少女が先を行き、少年が後を追っている。騒がしい声が聞こえてくるがどれも弾んでいて、その顔に浮かぶのは満面の笑み。そして、夕焼けのせいか頬は茜色に染まっていた。
「……はあ」
本を閉じる。続きは帰ってからにしよう。
今日は KN @izumimasaki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます