第1話 薬学部、単位と奨学金と私

「最悪……。単位、落としちゃった!?」


 大学から送られてきた成績表を見て私、柳朱音やなぎあかねは頭を抱えた。

 新潟から上京して千葉の薬学部に入学したのが今年の春、毎日楽しいキャンパスライフを送れると思っていたのだがそれは大きな間違いで私を待っていたのは絶対に単位を落とせない必修授業と動物実習の毎日だった。


「留年したらどうしよう。奨学金借りてるのに……。ていうか、薬学部って覚えること多すぎない!?いきなりカエルの解剖とかやらせんなし!」


 地方の進学校に通っていた私はそれなりに勉強ができた。中でも生物と化学が得意で試験で九十点を下回ったことはなかった。唯一、国語だけは大の苦手で勉強してもさっぱり成績が伸びず共通テストに失敗して私立の薬学部に進学することとなり今に至る。そして悩みの種はそれだけでなかった。


「大学に慣れたらバイトしようと思ってたんだけど、こんな状況じゃとても無理だよ……」


 私立の薬学部はとにかく学費が高い。国立大学なら比較的安く済むが、私立の場合、年間の授業料だけで約二百五十万円。単純計算で卒業までに一千万円かかる。さらに、教科書代や白衣代、昼食代に加え、国家試験対策の予備校費用も必要だ。それだけではない。一人暮らしの学生なら家賃や光熱費、生活費もかかる。現実的に考えれば、卒業までに千五百万円は覚悟しなければならないのだ。

 実家が裕福なら問題はないが、世の中そんな恵まれた家庭ばかりではない。多くの学生が、奨学金という名の学生ローンを借りて学費を工面している。もちろん、私もその一人だ。


「留年したら、親が悲しむよなあ……いや、それどころじゃないか。うちは貧乏だし、最悪、大学を辞めて働くことになるかも……」


 ——年収四百万円。


 奨学金を申請する時、初めて知った父の年収だった。

 正直、ショックだった。でも、それ以上に、そんな現実を一言も愚痴らず私を薬学部に進学させてくれた父の姿を思い出し、涙を堪えながら奨学金を申請した。。

 そして今、大学の試験で単位を落とした私は、別の意味で涙目になっている。


「いやいや、ネガティブ禁止! 要は頑張って再試験に合格すればいいんだから、大丈夫、大丈夫! ハハッ!」


 無理やり明るく振る舞ってみたものの、その場しのぎの元気は長くは続かない。しばらくすると、また不安がじわじわと押し寄せてくる。

 何せ、薬学部の試験は範囲が広く、どこが出題されるか予測がつかないのだ(優しい先生はヒントをくれるけど!)。


「……とりあえず誰かに連絡しよう。一人じゃ、この不安に耐えられない……」


 人見知りしない性格のおかげで、大学ではすぐに友達ができた。うちの大学は地方出身者が多く、新入生歓迎オリエンテーションやグループ実習が頻繁に行われる。そのおかげで、自然と人と関わる機会が増える環境になっている。

 特に動物実習は、みんなで協力しながらカエルの心臓を取り出すという、なかなか刺激的な体験を共有する場だ。そんな濃い経験を一緒にすると、不思議と仲間意識が芽生えるらしい。実際、この実習をきっかけにカップルが誕生することも珍しくないと聞いたことがある。


 さて、誰に相談しようか。悩んだ末に、実習で一緒だった相葉由香莉さんにメッセージを送ることにした。浪人経験のある由香莉さんなら、試験に落ちた私の気持ちをきっとわかってくれると思ったからだ。


 由香莉さん、今電話してもいい?


 送信ボタンを押して数分後、スマホが震えた。


「はい、柳です」

「あ、朱音ちゃん?相葉です。どうしたの?何かあった?」


 久しぶりに聞く由香莉さんの声は、電話越しでも本気で心配してくれているのが伝わってくる。その優しさに思わず涙がこみ上げそうになる。これが年上の包容力ってやつか……。


 私は息を整え、成績表を受け取ったときのショックや、再試験への不安を一気に吐き出した。


「そうなんだ……大変だね。私も受験で失敗したから、辛い気持ちよく分かるよ。大丈夫?」

「大丈夫!……って言いたいけど、正直落ち込んでる。再試で受かればいいって分かってるんだけど、不安で泣きそうだよ〜」

「そうだよね……不安だよね」


 電話の向こうで、由香莉さんがふっと息を吐き出す気配がした。そして、少し間があってから、まっすぐな声が届いた。


「ねえ、朱音ちゃん。明日、おうちに行ってもいい?一人だと辛いと思うし、一緒に勉強しようと思って」

「えっ、本当に?いいの!?助かる!もう、正直、人生終わったかもって思ってた……」

「大丈夫、大丈夫。頑張れば絶対に再試験合格できるよ。私、朱音ちゃんと一緒に卒業したいから、ね。お手伝いさせて?」

「由香莉さん……ありがとう……!大好き!」

「ふふっ、そう言ってもらえると嬉しい。じゃあ、また明日ね」


 電話を切った瞬間、さっきまでの重苦しい不安がすっと消えていくのを感じた。

 由香莉さんが私と一緒に卒業したいと言ってくれた。

 その言葉が、私にやる気と闘争心をくれた。

 再試験、絶対合格してやる!そんなことを考えながら、私は眠りについた。

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