後編
「お願いだ、考え直してくれ!」
離婚を切り出してから、エドワードは毎日のように私に縋りついた。
「君と別れるなんて、考えられない」
顔を合わせるたびに必死に訴えかけられる。
「アンジェリカのことについてはすまなかった。君との仲を親密にするためと、アドバイスされていたんだよ」
そんな夫の様子に、私は少なからず動揺した。
「嫌だ! 私は別れたくないんだ!」
エドワードは何度もそう繰り返す。
(そんなことを、今さら言われても……)
これまでの私への扱い、新しい家、離婚への決意、自由な生活への憧れ。
それらの思いが複雑に絡み合い、私の胸をかき乱す。
私は、彼の顔をじっと見つめ返した。
家の引き渡しまで、もう時間がない。離婚の手続きは全く進んでいないが、それでもきちんと決めなければならないと思う。
そして私は考えた。
彼の言葉には、どれほどの真心が込められているのだろうか。
いや、と、私は首を振った。今まで、何度も何度も裏切られてきた。
……今さら彼の言葉を信じることはできない。
「エドワード様、もうおやめください」
私は、静かに言った。
「わたくしの気持ちは、もう変わりません。お願いです、離婚してください」
はっきりと告げる。
瞬間、エドワードは絶望したような表情を浮かべた。
それを見て、心が痛まなかったといえば嘘になる。
「いやだ……」
「エドワード様?」
「家の引き渡しは全ての内装がそろってからだな? だとすると、まだ猶予はあるだろう? 最後まで、どうかその日の朝まで、少しでもいいから私のことを考えてはくれないだろうか」
「でも……」
「私も、できる限りのことはさせてもらから」
弱々しく笑い、それからエドワードは確かに態度を改めてくれた。
私の話に耳を傾け、時には一緒に出かけ、毎日お茶も一緒に飲むようになった。
これまではアンジェリカも含めて三人での行動が多かったが、ここ数日は駄々をこねるアンジェリカをなだめながら二人きりの時間を取るようにしてくれた。
「カリーナ、今日はとても良い天気だ。どこか出かけないか?」
エドワードがにこやかに私を誘う。彼は、以前とはまるで別人だった。
私の話に熱心に耳を傾け、時には相槌を打ちながら真剣に考えてくれる。
「そうですね。どこか、静かな場所にでも行きたい気分です」
私がそう答えると、エドワードは少し考えて、
「それなら、あの湖畔のカフェはどうだろう。景色が良いし、ゆっくりと話もできる」
と提案してくれた。
「素敵ですね。ぜひ、連れて行ってください」
カフェは湖を見渡せる高台にあり、テラス席からは美しい景色が広がっていた。
私たちはテラス席に座り、お茶を飲みながらゆっくりと話をした。
エドワードは、私の話にしっかりと耳を傾けてくれる。
「君が布の小物に興味があったとは知らなかった」
彼はそう言いながら、申し訳なさそうに目を伏せた。
「あの時の旅行も、本当はカリーナの行きたい場所に行けばよかったね。……私たちの旅行だというのに、一方的に君の意見を切り捨ててしまった」
それはあの時聞きたかった謝罪の言葉だった。
「でもこれからは、カリーナの行きたい場所に、どこへでも連れて行くから」
ようやく聞かされた言葉に、私は少しだけ心が揺れた。
(もし、彼が本当に変わってくれたなら……)
そんな淡い期待を抱いてしまう。
その日から、私たち夫婦の距離は少しずつ近づいていった。
毎朝一緒に庭を散歩する。
午後は二人でお茶を飲みながらおしゃべりをする。
時には二人で街に出かけ、買い物をしたり、食事をしたりする。
エドワードは、以前のようにアンジェリカばかりを気にかけることはなく、私との時間を大切にしてくれるようになった。
「カリーナ、今日の夕食は何が食べたい?」
「カリーナ、この間話していた展覧会、一緒に行こう」
「カリーナ、今日は早く帰ってくるから一緒に夕食を食べよう」
彼はいつも、私にそう話しかけてくれる。
そんな何気ない毎日が、ささくれていた私の心を癒してくれていることに、気づいていた。
(この時間が、ずっと続けばいいのに……)
いつしか、心の中で追う願うようになっていた。
妹のことがなければ、彼は本当に理想的な夫だった。
優しく穏やかで、しかも見た目だって悪くない。そんな彼に大切にされるのは、正直なところ……とても楽しかった。結婚前に、デートを重ねた日々を思い出さずにはいられなかったのだ。
そうして、時が過ぎていった。
いくつかのトラブルはあったけれど、ついに家の引き渡し日が決まった。ようやく、私の理想の住処が手に入る時が来たのだ。
けれど……。
私は、迷っている。
家を買ってからこれまでのことを思い出しながら、もう一度寝返りを打った。
最終結論を下すのは明日だ。
明日正式に家が完成し、引き渡しがある。
だから、今日、離婚して家を出る決断をしなければならない。
離婚してこのまま家を出たら、私にはストレスのない暮らしが待っている。妹を優先して私をないがしろにする夫を見てイライラする日々とはおさらばだ。大好きな小物に囲まれ、慎ましいながらも穏やかに暮らしていけることだろう。公爵夫人という肩書は失うけれど、自分自身の財産があるのでそれなりに裕福な生活ができるはずだ。
家に留まるならば、これまで通りの生活が待っている。ただし、アンジェリカはいずれ嫁いでいなくなる。私に必死に縋りついてくる夫の態度を考えると、もしかしたらこれからは大切にされるかもしれない。けれど、今まで夫がしてきた仕打ちを忘れることはないだろう。ただ……これまで諦めて何も言わなかった自分にも責任があると感じる。もっと夫と向き合えば、関係は変わってきたかもしれない。必死に縋りつく夫を見て、正直心が揺れている。
いよいよ決断の時が来た。
朝早く目覚め、窓の外を見上げる。
この部屋のインテリアは、アンジェリカの趣味だ。正直、まったく気に入らない。けれど、窓から見える景色だけは、いつも美しかった。
今日はとても良い天気だ。澄んだ空の色は、いつも通りきれいだ。
あの日、誰かのための私ではなく、私だけの私になると誓ったことを思い出した。
いよいよ決断の時だ。支度をして、食堂に向かう。
扉の前で、エドワードが待ち構えていた。
夫は何も言わず、手を差し出してくる。
そっと手を重ね、最後になるかもしれないエスコートを受けた。
椅子が引かれ、腰かける。
するとエドワードがその横に跪いた。
「エドワード様……?」
「カリーナ。今まで私は良い夫ではなかったね。君につらい思いをさせてきたことを、心から謝罪する」
見たこともないような真剣な表情で、訴えかけてくる。
「ちょっと、お兄様?! 何をしているの? どうせ出て行く人を、引き止めたら良くないわ!」
それを見たアンジェリカが悲鳴を上げた。
「アンジェリカ、大切な話をしているんだ。黙りなさい」
「な……」
「これは私たち夫婦の問題だから」
そして再び、エドワードは私を見上げる。
「どうか、行かないでほしい。カリーナ、君のことを大切にすると誓うから」
「……それは……」
私の家は完成している。
今日引き渡されれば、すぐに移り住むことができる状態だ。
好きなものだけを集めたインテリア。
一番に扱われない辛さもない。
自分だけを見つめて、自由に生きていける場所が目の前にある。
「ひとつ、聞かせてください」
叱責されたショックからか、アンジェリカは青い顔をして立ちすくんでいる。
使用人たちも、静かに事の成り行きを見ているようだ。
「私の家に納入予定の棚について、首都からの納入がストップしていましたよね。代わりに迂回道と業者を手配したのはあなたですか……?」
「それは」
実は、最後の棚の納入がされないというトラブルが起きていた。首都へ確認の手紙を送っても無しの礫だったのに、別の業者が運んできてくれたのだ。
そんなことができるのは、この地を治めている公爵以外にあり得ない。
けれど、私に出て行かないでほしいと懇願しているにもかかわらず、家が完成するように促した。
その真意は?
どうしても、聞いておきたかったことだ。
「それは、君が頑張っていることが分かったから」
「……え」
「家を改装するために、コツコツと頑張る君の姿は素敵だった。それが完成したら、君がここを去る時だと分かっていたけれど……。それでも、あの棚が届かず悲しい思いをする君を、黙って見過ごすことはできなかったんだ」
エドワードは泣きそうな顔で、それでも声を絞り出した。
「君が行ってしまうことを思うと辛かった。けれど、それは私の感情で……。君が目標を達成する思いを、応援したかったんだ。はは。何を言っているのか……私は……」
(自分よりも……私のことを考えてくれた……)
夫の思いを聞いて、私は心を決めた。
「一緒に行った展覧会、楽しかったです」
「ああ」
「一緒に、毎日夕食を食べてくれてありがとうございます」
「そんなこと……当たり前だよ」
「けれど、誕生会で私のことを放りっぱなしにしたことは、おそらく一生忘れません」
「そ……。そうだね、もちろんだよ。私を許さなくていい」
「……ですから、次の誕生会は私だけとダンスを踊ってください」
「……え、あ……」
エドワードの手を両手で握り、私は身をかがめる。
使用人たちは、暴れるアンジェリカを食堂から追い出し、そっと扉を閉じた。
私は家に留まることを選んだ。それは今後アンジェリカが嫁いで家を出ていくからではない。もう一度、夫と向き合うことを選んだのだ。
今からでも遅くないはずだ。これからはきちんと話し合い、自分のことももっと話そうと決めた。
思えば、私は自分の気持ちをはっきりと伝えることはしてなかった。辛かった日々を忘れることはできないけれど、許さなくてもいいと言ってくれたから、あの頃の夫のことは許していない。
けれど彼は、自分の感情よりも私を先に考えてくれた。
これからはきっと変わってくれるだろうと思ったから。
だから私は、自分でこの家に留まると決めた。
「……とはいえあの家は、セカンドハウスとして残しておきます」
「君の好きなものがいっぱい詰まっている場所だからね」
「ええ、そうです」
「それなら、私もその中のひとつに入れてほしい。君にずっと愛してもらえるだろうから」
「な……」
言葉をなくして顔を真っ赤にした私は、大切に夫に抱きしめられた。
二の次扱いの公爵夫人、家を買う。なぜか旦那様が縋りついてくるのですが…… みささぎかなめ @misasagikaname
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