二の次扱いの公爵夫人、家を買う。なぜか旦那様が縋りついてくるのですが……
みささぎかなめ
前編
私カリーナ・アストルは今、このまま家を出ていくかそれとも家に留まるか、ベッドの中で迷っている。
すでに夜は更け、公爵家は静まり返っている。暖炉の炎も弱まり、夜闇に包まれたこの空間は、いつもと変わらぬ寂しさに満ちていた。私はため息をつきながら、寝返りを打つ。
(出ていくと決めていたのに。すっぱりとあの人と別れて、新しい人生を歩むと決めたのに。それなのに……)
必死に追いすがるあの人の顔が、チラついて消えない。どうすればいいのか、今朝からずっと胸の奥底で迷いが渦巻いていた。
私はアストル公爵家の当主エドワード・アストルの妻であり、公爵夫人という立場にある。しかし私は長年、夫から二の次の扱いを受けてきた。
周囲からは「二の次公爵夫人」と呼ばれ蔑まれている。夫は妹を大切にしており、何よりも妹の希望を優先する。もちろん、私よりも。
この公爵家では夫の妹アンジェリカこそが常に主役であり、彼女の意見は誰よりも優先される。
たとえば、家族旅行の計画を立てる時もそうだった。
私は、以前から布の生産地を訪れたいと思っていた。その土地は美しい自然に囲まれ、独特の製法で作られる布は、私を魅了してやまなかった。
提案すると、夫も頷いてくれた。
カーテンやラグなど大きなものは無理でも、自室に飾る小物なら購入できるかもしれないと期待に胸を弾ませた。
けれどアンジェリカが「お洒落なカフェのある街に行きたい!」と言い出した途端、エドワードは「アンジェリカはいつもいい提案をしてくれるね! みんなでカフェのある街に行こう!」と即決した。
私の希望は、当然のようにあっさりと却下されたのだ。
(また私の意見は通らないのね……)
あの時の、惨めな気持ちが忘れられない。
その旅行当日、私は風邪を引いてしまった。
熱っぽく、体調は最悪だった。
旅行は当然中止になるものだと思ったけれど、なんと部屋の外から駄々っ子のような声が聞こえてきた。
それはアンジェリカの懇願する声だった。
「どうしてもカフェの街に行きたいの! お兄様と一緒に、ケーキが食べたかったのよ! ねぇ、こんな機会めったにないんだから。私が嫁ぐ前に、どうしてもお兄様と思い出がほしいのよ!」
そして……。
私は意識がもうろうとする中で、夫の言葉を聞いた。
「私たちがいたら、かえって休まらないだろう? アンジェリカと旅行に行ってくるよ」
そう言い残し、彼は私を置いて妹と出かけて行った。
(ああ、私は捨て置かれた……)
あの時の、悲しさ。そして一瞬でも、夫が私のために残ってくれるかもしれないと考えた悔しさは忘れられない。
決定的な出来事が起こったのは、私の誕生日会でのことだった。
このアストル家では、アンジェリカのためのパーティーが頻繁に開かれる。対して、私のためのパーティーは年に一度の誕生日会だけだ。
それでも、年に一度だけでも私が主役になれるその会を、私は心待ちにしていた。
けれど……。
「カリーナ様、お誕生日おめでとうございます」
侍女の温かい言葉が、私の耳に心地よく響く。その日、私はまた一つ年を重ねた。
屋敷の中庭で開かれているのは、私の誕生日を祝うパーティーだ。
華やかな装飾が施され、管弦楽団の奏でる音楽が響き渡る。親しい間柄の貴族たちが集まり、お祭りムードに包まれていた。
しかし私の心は、それとは裏腹に冷たい風が吹き荒れる荒野のように冷え切っていた。
夫のエドワードは、私の誕生日を祝う言葉をかけてくれることもなく、妹のアンジェリカと楽しげに乾杯している。
アンジェリカは、婚約者である王子をパーティーに呼び寄せ、注目を一身に集めていた。王子との婚約が決まった公爵令嬢は、今や王国の時の人であり、誰もが彼女に羨望の眼差しを向けている。
(また私は二の次なのね……)
私は、小さくため息をついた。
その間にも料理が次々と運ばれてくる。美味しい料理が並ぶテーブルを囲み、人々は食事をし始めた。
しかし、私は乾杯のグラスを掲げたまま虚しく空を見上げる。
夫であるエドワードは、妹とその婚約者である王子との話に夢中だ。当然だが、私のために乾杯してくれることはなかった。
招待した貴族たちも、彼らを中心にして談笑している。
(私だけが、ここにいる意味がない)
そう思った私は、そっと会場を抜け出した。
誰もいない部屋で、私は一人静かに佇む。付き従う侍女の憐れむような視線がますます私を惨めにさせた。
(私は、本当に幸せなのかしら……?)
自問自答を繰り返した。
答えは「いいえ」だった。
私は、きっと夫に大切にされていないのだろう。
アンジェリカのように、誰からも注目される存在ではない。
私は、ただの「二の次公爵夫人」なのだ……。
(……このままでは、ダメね)
けれど、私は空を見上げる。決してうつむかない。どうせ一人きりなら、きれいな空を見ている方がいい。
夜空に散りばめられた星だけは、私にも光を分けてくれている。
やがて、一つの考えが降ってきた。
「決めたわ」
私は決断した。
せっかく誕生日を迎えたのだ。明日から、私は新しい自分になる。
誰かのための私ではなく、私だけの私になる。
「そうよ! 誰も私を見ないなら、私だけは私を見るわ!」
そう、星空に誓った。
(いつまでも、このままではいられない!)
そして、ついに私は密かに思い描いていた計画を実行に移した。
翌日、私は街中に小さな家を買った。
公爵家とは比べるまでもないほどこぢんまりとした、古ぼけた民家だった。
家を紹介してくれた商人は、本当にこの家で良いのか何度も私に確認した。
「いいのよ! これは改装のしがいがあるわね!」
もちろん、この家で良かった。
私は誰にも知られずに、少しずつ、家の改装を進めた。お気に入りのインテリアを集め、自分だけの城をコツコツと作ったのだ。
公爵家では、壁紙やカーテン、寝具の布までアンジェリカの希望のものが採用されていた。私が提案する案はことごとく潰されてきた。
けれど、私が買った私だけの家では、そんなことはない。
壁紙は落ち着いた色合いのグリーンにした。カーテンはシックなダークブラウン。壁に飾るのはきらびやかな絵画ではなく、好きな作家のスケッチを数点。
インテリアも吟味を重ね、好きなものを買った。
この家は、すべてが私の好みのもので埋め尽くされた。
あとは新しく作る棚が納入されたら、いつでも移り住めるところまできた。
小さな家だが、一人で住むには十分な仕上がりになったといえるだろう。
(ここから、私の新しい生活が始まる!)
私は密かに喜びを噛み締めた。
公爵夫人としての地位は失うだろう。けれど、これからは誰にもないがしろにされず、自分を大切にして生きていけるのだと思うと期待に胸が膨らむ。
慎ましく一人で生きていけるくらいの蓄えはあるし、料理や洗濯も少しずつ覚えている途中だ。きっとやっていける。
そう思い、数日後。
私はエドワードに離婚を切り出した。
「エドワード様、わたくしと離婚してください」
エドワードは、乱暴をすることはない。いつも穏やかな態度で接してくれる。ただ、私を特別に扱うこともなく、いつでも妹が中心なだけ。
ただ私のことに関心がないだけなのだ。
だから、離婚もすぐに了承してもらえると思っていた。
私の言葉に、エドワードは驚いた表情を浮かべる。
まるで予想していなかったという表情だ。
「カリーナ、何を言っているんだ? 何をそんなに怒っている?」
「わたくしは、もう我慢できません。あなたは、わたくしを二の次、三の次としか思っていない。あなたはアンジェリカ様のことを、いつも最優先にしてきた。わたくしは、あなたの妻であるはずなのに……」
私は、今までの結婚生活でとても傷付いていること、妹を優先し続ける彼の態度に不信感があること、そして、すでに離婚後住む家を確保していることなどを説明した。
私の言葉に、エドワードはオロオロとし始める。
「カリーナ、それは違う。私は君のことを大切に思っている。ただ、アンジェリカは妹だから、特別なんだ」
けれど、私は今までのように、彼に従うようなことはなかった。
「妹だから、特別? それが、わたくしをないがしろにする理由になるのですか?」
真っすぐ彼の瞳を見つめて問いかける。
もしかしたら、彼に正面から意見をぶつけるのは初めてかもしれない。
エドワードは私の表情を見て本気だと悟ったのだろう。愕然とした表情で膝から崩れ落ちる。
そのやり取りを聞きつけたアンジェリカが現れ、少しの騒ぎになった。
「お義姉さま! お屋敷を買ったのですか? どうして知らせてくださらないの? 私も飾りを考えたいわ!」
アンジェリカが目を輝かせて言った。
「カーテンや壁紙はどうなっていますか? 私はピンクが良いと思うの! カーテンにはたくさんフリルがついたものを注文しましょう? きっととても可愛い仕上がりになるわ!」
そして矢継ぎ早に捲し立てる。
また始まった、と私は内心うんざりした。
「いいえ。あの家はわたくしの家です。内装も、インテリアもわたくしが考えます」
今までと違い、私はきっぱりとそう言った。
あの家は私の好きなもので埋め尽くすのだ。決して今まで通りにはさせないと、胸を張る。
「そんな……ひどいわ! お義姉さまのセンスだと、ほら、品格の欠片もない地味な仕上がりになりかねないの。私、心配しているのよ? 私だって、家のインテリアを考えたいのに! それを、断るって、どうかしてるわ! 私をいじめているの?!」
アンジェリカは、いつものように駄々をこねた。
けれど、私は冷静に彼女の顔を見つめ返す。
「アンジェリカ様、あの家はわたくしだけのものです。あなたに口出しされる筋合いはありません」
私の言葉に、アンジェリカは言葉を詰まらせた。
ここでようやく、エドワードが口を挟む。
「カリーナ、言い過ぎだよ。アンジェリカは……その……心配してくれてるんだ」
「心配? いいえ、ただ自分の好みを押し付けたいだけでしょう。今まで散々そうやってきたではありませんか」
私はエドワードを一瞥し、アンジェリカに背を向けた。
「失礼します」
そう言い残し、私は部屋を出た。
妹を大切にする夫は、すぐに離婚に応じるだろうと思っていた。
それに、私はアンジェリカの意見を突っぱねたのだから。
ところが、それから夫は離婚したくないと私に縋りついてきた。
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