十
どのくらいの時間が経っただろうか。
私は何も書けないままの画面を依然として睨みつけていて、強く握り締め続けた両の拳は白くなっていた。
木村がちらちらとこちらを見るのに、何度も気づいていた。
私はなんの反応も返さなかった。
彼女らの席は、いつもは賑やかでその中には有紗も座っているはずの席は、今は沈鬱と静まり返っている。
キッチンからもなんの物音もしない。
長く、重たい沈黙。
随分前に置かれたトーストは何故か普通の小倉トーストで、今月のために作られたはずのブレンドは、生まれる時を間違えたかのように机の上で冷たくなっている。
「あっ」
永遠にも思える時間が経った時、木村がかすかな声をもらした。
二階から、私服に着替えた有紗が幾分か落ち着いた様子で、しかし真っ赤に泣き腫らした目で、トン、トン、と階段を降りて私の方へと歩いて来ていた。
木村が伸ばしかけた右手を、自分の左手で押さえる。
私はそれを、有紗に釘付けられた視界の端で捉え、どうしてやめてしまったのだと絶望するように感じていた。
今木村が有紗を抱きしめてくれれば、私は有紗と向き合わないで済む。
今木村が一声、有紗ちゃんと呼んでくれれば、私は自分の罪と向き合わないで済む。
しかし有紗は、私の方へと歩いて来ていた。
「有紗ちゃん」
そう呼びかけたのも、私の口だった。
有紗は向かいの席には着かず、私の横に立ったまま、ノートとペンを小さな手に握り締めていた。
薄桃色のネイルをした手が、きらきらと頬を拭う。
私は彼女の手をそっと握り締めて、また彼女が話せるようにとすぐに離した。
言葉を封じないのは罪深い私にできるせめてもの、最後のことのように思えた。
『唯さんに頼んだら、きっとまた千里さんに会えるよね』
それは単に仕事上の繋がりを意味したものだったはずだ。
だが私には、咎めの言葉に聞こえた。
「……会いたい?」
『会いたい』
涙をこぼしながら、有紗は書く。
『でも、会うのは怖い』
「怖い?」
『多分、私に失望したんだ。だからもう会えなくなったんだと思うから、会って、私はもう駄目なんだって、知るのは怖い』
最後に見た、一色の不自然な笑顔を思い出す。
「……一色さんと、有紗ちゃんは、作家と担当編集でもあったんだよね」
『ううん』
否定の言葉に驚いて、しかし次の言葉に心臓をギュッと握られる。
『それだけだった。友達でも、何でもなかった』
「…………」
『私が勝手に特別だと思っていたの』
浅い人生だった。
彼女に渡せる言葉を、この罪悪がなくても、私は持ち合わせていなかった。
そんなはずないよ、何かの間違いだよ。
そんな適当なことを言って、一色と有紗をもう一度合わせるのは簡単だろう。学生時代、友人同士の喧嘩や痴話喧嘩の仲裁のために何度もそうしてきたように。
しかし私は一色千里という人間を知っていた。
あの男の世界は、本を介したものだけでできてる。
「有紗ちゃんは、もう本を書かないの?」
的外れなようで、今この瞬間、この場合だけは外れていない問いかけだっただろう。
それだけが一色にとって、重要なのだから。
『書きたいし、きっと書くよ』
「じゃあ……」
『でももう、前のと同じようなものは書けないと思う』
また心臓が、不整脈のようにどくりと鳴った。
『千里さん、声のコミュニケーションをしないの。私も言葉が話せないから、声なんて要らないって思っていたから、本だけで良いって思えたから、あの人と同じ場所に立っていられた』
有紗がふっと木村を振り返る。
自分の薄桃色に光る爪を見て、大事そうに握り込む。
『でも私、自分の口で話したい。学校に行きたい。遊びたいし、好きな人には可愛く見られたいし、普通の女の子をやりたい。本だけじゃ駄目な、普通の人間になっちゃったんだ』
有紗は初めて『好きな人』という言葉を使った。
それで良いじゃないかと、文字をなぞって私は思う。
それが普通じゃないか。
普通で何が悪い。
そういう幸福を有紗が望んで、みんなが望んで、叶って、それで何の問題もないだろう。
有紗の目から一際大きな涙の粒こぼれ落ちて、ぽたりとノートを濡らした。
『私、もう小説家じゃない。ただの人間』
小説家だってただの人間だよ。
これは、私がそう思いたいことだった。
特別な存在なんていてたまるか。
生まれつきのそういう人たちのために、私たちは生まれているのではない。
人生をもがいているのではない。
でも、私は小説家ではなく、実際のことなど何も知らず、何より一色が望んでいる『小説家』は、きっと特別な何かだった。
有紗は何かが溢れたように書き連ねていく。
それは私が夜を忘れて読んだ美しい小説の文章ではなく、ぐちゃぐちゃに乱れきった、ただの少女の独白だった。
『小説を書ける人間と、小説家の違いって何なのかな。千里さんにとって私は、沢山いるうちの一人だったのかな。特別なんかじゃなくて、別の人が、代わりがいるんだよね』
それは私にとっても考えたくないことだった。
こんな少女の涙を前にしても、私は自分のことを考える。
『私、要らなくなっちゃったのかな』
ぽつんと、ノートの最後にそれだけが書かれた。
「有紗ちゃん」
私は思わずがたりと立ち上がって、その勢いでテーブルがぐらつく。
お冷とコーヒーカップがテーブルから落ちて、トーストが皿から滑り落ちる。
カシャンとカップが割れる音は遠く、それよりももっと重大なそれに私の目は向けられていた。
有紗も、それを見ていた。
あぁ、馬鹿だった。
いや、きっと天罰が下ったのだ。
閉じるのを忘れていたPCが思い切り開かれて、画面が彼女の目に映る。
彼女は小説家だった。
だから誰よりも、確実に、しっかりと、理解しただろう。
私が小説を書いていたことを。
私が彼女を、裏切っていたことを。
カップが割れた音に驚いたのか、キッチンにいたはずの尾倉も出てきて、そしてずっとこちらを伺っていた木村たちも、私のことを見ていた。
私の罪を、見ていた。
バタンと大きな音が鳴りそうな勢いで私がPCを閉じる。
そして、それが何よりの答え合わせになってしまった。
有紗がパッと私から身を引いて、突き飛ばすように私の肩を押す。
二人の間に広く虚しい空間が広がった。
真っ黒な目が、涙を湛えた真っ黒な目が怒りに光る。
「だいっきらい」
掠れた、無声音。
初めて聞いた、有紗の声だった。
私の耳だけに届いた声。
そのまま有紗は二階へと駆け上がって行く。
木村が迷うように私の方を見てから、すぐに顔を戻し有紗の背を追いかけて行くのを、私は魂が抜けたように見つめていた。
無音のカフェに、私の耳鳴りが響く。
片付けなきゃ。
ぼんやりとしゃがみ込んで、カップの欠片を拾う。
血が出た。
私を静止する尾倉の声は、耳の中でぼわんと反響して、何の意味も持たなかった。
もっと、痛い思いをしないと。
もっと、苦しまないと。
冷え切った脳が私を嘲笑う。
わざとらしい。
目に見える痛みなんかパフォーマンスにすぎない。
お前、一色千里を狂人だなんだと言っていたけど、結局最後の一撃として傷つけたのは、お前じゃないか。
恥じるふりをして、良心があるふりをして、自分を化け物だと思っただけで、自覚しただけで真面になれたと思っていたのか。
悪いのは全部、お前だ。
お前の全部が間違っていたんだ。
「全部、私が悪い……」
繰り返して理解する。
私の内側と私の外側のズレが、正されていく。
「私の全部が、間違ってたんだ」
特別な存在はいる。
私は凡庸な人間じゃない。
この世で最も醜悪で、特別な化け物だった。
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