八
執筆作業というものは、思ったよりも簡単に私の生活リズムに馴染んだ。
二ヶ月も経つ頃には完全に、私の一部になっていたと言えるだろう。
平日はひたすら構想を練り、休日は尾倉カフェに入り浸って一日中書き殴る。いや、半分くらいは前回書いたものを消す作業だったかもしれない。
スマートフォンのメモはいつの間にか書きかけの文章や思いつきのセリフでいっぱいになり、PCの文書も一ページずつ、一ページずつ、増えていく。
そういう何かが積もっていくほどに、私は何かが満たされるようなそんな錯覚を覚えた。
それが錯覚だということまで含めて、はっきりと感じていた。
「最近の副店長、なんか元気で楽しそうっすね!」
と、木村は明るく言う。
「そうかなぁ?」
と、私も明るく答える。
だがその実、積もっているのではなく、自分を薄くスライスしたものを目の前に積み上げているのだと、私は気づいていた。
私小説。
私という人間の、個人的な小説。
面白い人生なんて送ってはいなかったから、私は私自身を切り崩していったのだ。
なんか元気で楽しそう。
間違ってはいないかもしれない。
空虚では、なくなるのだから。
しかしそれは、自分が失われていくからこそなのだ。
「最近、ミスが多いよ」
店長から不意な叱責を受ける。
「一時的なものだと思うけれど……気をつけてください」
私はなんだか重要にも感じられず、適当に頭を下げた気がする。
まるで不真面目なバイトのようだった。
店長はそんな私にも、それ以上は何も言わなかった。
少なくとも、生真面目で神経質な書店員の私はもう、この肉体には残っちゃいないのだと実感する。
その私はもう小説の方に移行された。
そうしてまた、のめり込むようにして続きを書き連ねていく。
私とはなんだ。
私にあるものはなんだ。
どうすれば、見物に耐え得る『私』を作れるのか。
ことりと目の前にコーヒーが置かれて、私はハッと顔を上げた。
有紗が、今日はずいぶん愛らしい編み込みの髪型をして、そこに立っていた。うっすらと化粧もしているようだ。
私はPC画面をパタンと閉じる。
後ろめたさから、有紗には小説を書いていることは話していなかった。
いや、店長以外の誰にも、話す相手などはいなかったのだが。
「ありがとう、有紗ちゃん」
いいえ、と言うように有紗は頷く。
「今日はずいぶん可愛いけど、一色さん来る日なのかしら?」
からかいのように聞いてみれば、有紗はまた頬を赤く染める。
『そういうわけじゃない』
「あら、外れ?」
『そもそもあの人、いつ来るかわからないから』
「ふーん。じゃあいつも可愛くしとかないとね」
『だから、そういうのじゃない』
有紗は怒ったようにしてキッチンへと戻っていった。
そしてそこからまたひょこっと顔を出して、ベーと舌を突き出す。
それがあまりに愛らしくって、私は声をあげて笑ってしまった。
あれから数ヶ月、有紗は随分と元気になったようだった。
以前のような無表情や能面はほとんどなく、初めての客が時々現れても愛想良くにこりと微笑むようになった。
木村が来た日などはもう大はしゃぎだ。
時には木村の友人にも混じって、テーブル一つを占領しながらああでもないこうでもないと、メイクやらネイルやら乙女の内緒話に没頭している。
そんな彼女の姿は、やはり父親を深く安心させたようだ。
「いやぁ、本当に、ありがとうございます」
有紗が運び残したのか、明太トーストもとい『おぐらトースト』を持って、父親、尾倉裕平が姿を見せる。
「あら。マスター自ら、ありがとうございます」
「いやいや全然。暇な店ですのでね」
そう言ってまたガハハと豪快に笑う尾倉だったが、数ヶ月前に比べ、随分客足は増えているように思えた。今日だって、私以外にも二組の客がいる。
おそらくは、有紗が拒絶していたためにこれまでが少なかったのだろうが、父親は有紗の笑顔が増えたおかげだと確信していた。
事実がどうであるかはこの際重要ではないだろうと、私は尾倉の勘違いをそのままにしていた。
「有紗ちゃん、元気になりましたね」
「はい。いやもう、本当に清水さんのおかげで……」
「私というか、木村ちゃんですよ」
「ははは、最初は面食らいましたが、良い子ですねあの子!」
「ええ。自慢の従業員です」
初めこそ派手な容姿の木村を警戒していた尾倉であったが、彼女持ち前のコミュニケーション能力というか、人に好かれる才能というか、とにかくすぐにするりと懐に入り込んで、今では有紗と同じくらいに親しくなっているのではないかというくらいだ。
「声も戻ってくれるといいんですけどねぇ……」
尾倉が惜しむようにこぼす。
私は首を横に振った。
「焦っちゃ駄目ですよ」
「わかっちゃいるんですけどねぇ……」
「こんなに元気になれたんです、きっとじきに全部大丈夫になりますよ」
全くずるいなと自分で思う。
医者でも何でもなく、何の確信もないというのに。
感謝される立場という台に乗っかって、上から目線で偉そうに、実年齢も人生経験も何もかも上の相手を諭す自分は、少し離れたところから見ればひどく滑稽に思えた。
「それじゃ、ごゆっくり」
数分雑談をして、尾倉がまたキッチンへと戻っていく。
もう慣れた、何度も繰り返された習慣だった。
母や自分の居場所の侵害をひどく恐れていた有紗は、初めは父と話す私の様子に案ずるような視線をチラチラと向けていたが、一ヶ月もすれば自然にそれもなくなっていった。
私が信頼されたのか、彼女がこだわらなくなったのか。
どちらにせよとても健全なことに思えた。
さて、今日はまだ数時間は作業ができそうだと再び画面を開きかけたとき、階段を駆け降りるトタトタという軽やかな音が私の耳に届いた。
見れば有紗が、ノートと何かを抱きしめて駆け寄ってくる。
いつもより嬉しそうで、それでいて焦っているような、妙な調子だった。
「あら、有紗ちゃん。どうしたの?」
返事は突然のハグとして返された。
私は驚いて「有紗ちゃん?」と呼びかけることしかできなかった。
『ありがとう』
有紗が開いて見せてくれたノートに、ただ短くそう書かれている。
「ありがとう? なんのことかな、おばさんわからなくって……」
言いかけて、私は彼女が抱きしめていたもう一つが、雑誌であることに気がついた。
私が書評を寄稿した雑誌。
発売が水曜だからと、明日にでも献本を受け取ろうと思っていたそれを目にして、その瞬間、全てを理解する。
引っかかっていた色々が、薄々気がついていた様々が、全て結ばれた瞬間だった。
『唯さんの書評、読んだ』
彼女が私の名前を呼んでくれたのは、初めてのことだった。
「……うん」
『嬉しい、ありがとう』
「作者……有紗ちゃんだったんだね」
言いながら彼女の黒髪を撫でる。
有紗はこくこくと何度も頷いた。
『本当は言うつもり、なかった。でも書評を読んで嬉しかったから』
言いたい言葉に、手が追いつかないのだろう。
彼女はもどかしそうに、癇癪を起こすようにペンを放り投げて、それからまたぎゅっと私に抱きつく。
私はただ、彼女の背を撫でることしかできなかった。
そんな気はずっと前からしていたのだ。
彼女の鋭利な言葉が、青い感性が、単なる歳頃の一致ではなく小説の言葉とよく似ていることに。
有紗が一色に寄せる思いが、主人公が『彼』に向けている心とよく似ていることに。
むしろ確信していたと言った方が正直かもしれない。
一色は、どんな思いであの本を読んだのだろうか。
気がつかなかったはずはない。
私は今、どんな思いで彼女のくれた感謝に応じれば良いのだろうか。
明確に裏切りと呼べる秘密を、私は有紗に隠し持っているのに。
『唯さんの書く言葉、優しくって好き』
有紗がポロポロと涙をこぼしながら書く。
『千里さんが女の人に書評を頼むの、本当は嫌だった。誰も間に入って欲しくなかったの』
「……うん」
『唯さんでよかった。ありがとう』
あ、り、が、と、う、と声にはならないものの、無声音で、口の形だけで大きく伝えてくれる。
私は自分の唇が震えていることに気がついた。
涙が一筋、頬を伝う。
有紗は自分の想いが伝わったと思ったのだろう。もう一度深く、私を抱きしめてくれた。
私はただぼんやりと、虚空を見つめて涙を流す。
自分の文章が人の心を動かしたのだ。
有紗を喜ばせて、こうして書いたことに対して全身で感謝を与えてくれている。
ひどい裏切りの中でもそんなことに薄暗い喜びを感じている自分が、どこまでもおぞましい化け物のように思えた。
自分が恐ろしくて、私は涙を流していた。
満たされてしまう。
有紗からの感謝で、抱擁で、空洞が満たされてしまう。
私は彼女を裏切っているのに。
抱き合って、泣きあって、同じことをしている私と有紗は、ひどくかけ離れてしまっていた。
どこまでもまっすぐで清純な少女。
それを欺く大人。
背徳だった。
キッチンから、何やら良いことがあったのだろうと目頭を抑えてこちらを伺っている尾倉に、私は胸の中で懺悔を繰り返すことしかできなかった。
────────────────────────
翌朝、出勤とともに茶封筒が目に入る。
私宛てのそれは、確認するまでもなくあの雑誌だった。
封を開けて、溜め息を吐く。
「……どうしたの?」
もっと喜ぶと思ったのだろう。
店長が不思議そうにこちらを見る。
「……いえ。楽しい仕事、終わっちゃったなって」
誤魔化そうと笑って見せたが、無理をしていることは店長にも伝わってしまっただろう。
そのくらいぎこちなかった。
「終わっても……一色と仕事するんでしょう」
「本のことなら仕事じゃないですよ。あれは私的なやつです」
「ふーん……」
これまではただ興味なさげな返事だと思っていただろうそれに、しかし心配の色が微かに滲んでいるのを、熊谷晃の為人を多少知ったがために、私は感じ取ることができた。
感じ取れない方が幸せだったかもしれない。
そうであれば、罪悪感なんて抱かずに済んだだろう。
「評判が良ければ、きっとまた来るよ……」
店長が、こちらを見ないままぽつりと呟く。
「書評の仕事」
「ふふ、そうですね。楽しみです」
的外れな言葉だとわかるからこそ、店長はこちらを見られなかったのだろう。
不器用で実直で、羨ましい。
例え他人から好かれなくても、孤独に生きていても、彼は私のような怪物ではない。
私はどこで間違えてしまったのだろうか。
一色の手なんて取らなければ良かったのか。
いや、出会ってしまった時点で、そんな選択肢は私にはなかった。
じゃあ書評の仕事を受けなければ?
受けないという選択肢もまた、私の中にはなかった。
どこまで遡れば良いのだろう。
どこからやり直せば、私は私の罪を雪げるのだろう。
……今更罪を雪ごうだなんて考えている時点で、もはやどうしようもないくらい身勝手で、悪辣なのだと思い知らされる。
私は長い溜め息を吐いた。
「……俺は、清水の書評、良かったと思うよ」
店長が辿々しく言う。
「お疲れ様でした」
その一言に、自分の苦悩が見透かされたような気になる。
全てこの人にはバレているのではないか。
そんな気がしてしまって、私は逃げるように店舗へと出ていった。
「お疲れ様です」
仕事初めも仕事終わりも、何度でも交わした儀礼的な言葉。
なんの意味もない言葉。
人の心を読める人間なんていない。
何度も何度も心の中でそう繰り返して、しかし平穏を得ることはできず、私は一日を終えることとなった。
帰り際にも、店長の顔を見ることはできなかった。
────────────────────────
次の休日も、私は尾倉カフェに行った。
久しぶりに一色の姿があった。
ただぺこりと頭を下げて、遠くの、いつもの席に座る。
彼は声をかけようとするかのような素振りを見せたが、しかし私の表情に何かを見たのだろう。またいつものように微笑んで、小さな会釈を返しただけだった。
一色の向かいに、いつも以上に楽しそうに陣取っていた有紗は、私に気が付くと満面の笑みで駆け寄ってきて、ノートに急いで何かを書きつける。
『昨日学校行ったよ』
「あら、すごいじゃない!」
褒めるように有紗の頭を撫でれば、彼女はくすぐったそうに頬を緩めて、生意気な口調でまた書き込む。
『ま、大したことなかったけどね』
「さすがね、有紗ちゃん」
『まぁね』
それだけ言えれば、あとはもう一色の側にいたかったのだろう。
手早く注文をとって、彼の方へと駆け戻っていく。
一色はあくまで本を開いたまま、有紗のノートに時折短く返答していた。
正直なものだと微笑んで、私はコーヒーの苦味に顔を顰める。
今月の、十月のブレンドは苦味が強い。
まるでこれから近づいてくる寒さへの備えであるかのように。
結った髪にメイクをした有紗の横顔は随分大人びて見えて、しかしいつぞや見せたあの微笑のような、艶かしさはもう影もない。
有紗と話す一色は、いつも通りにこにこと笑っていたが、その目はあまり笑っていないように思えた。
いや、他の時だって彼の目は笑っていたのだろうか?
思い出そうと記憶を巡っていると、見過ぎたのか、不意に一色がこちらを振り向いて、ぴたりと目が合った。
色の薄い目に、私が映っている。
これほど遠くにいても、何故かそう強く感じられた。それが私の都合の良い妄想や舞い上がりでなければ、だが。
一色が目を細める。
それは確かに、本当に笑っているように、私には見えた。
思い上がりだろうか。
いつもはどこかにある冷静な脳も、今日ばかりは判断がつかないのか、黙りこくったままだった。
私は目を逸らして、PCへと向き直る。
その後もしばらく視線を感じていたが、やがてそれも消えた。
その日、小説は一ページも進まなかった。
それからちょうど一ヶ月のことだった。
一色と連絡がつかないのだと、有紗が涙でぐしゃぐしゃになったノートを見せてきたのは。
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