七
数日後、私はなぜか、木村美波と一緒に小倉カフェの前に立っていた。
「……ねぇ、本当になんで急に有紗ちゃんに会いたいなんて」
扉を開くのを躊躇する。
木村はバイト先に来るのよりもずっと華やかな、彼女らしい服装で、何か腹を決めたように仁王立ちをしていた。
「だって、気になるじゃないですかぁ」
口調はあくまで軽やか。
「それに、恋バナしたい気分だったし!」
それだけというには、彼女の目は真剣にカフェの中を見つめているように見えた。
「……やっぱり有紗ちゃんに一回確認とってから」
「こういうのは突撃だから良いんですよー!」
彼女は明るく言って、それからどこか寂しそうに付け加えた。
それはいつも見る彼女の顔とは違っていて、思わず言葉を失ってしまう。
「だって、頭の良い子って準備時間あげたら、上手く色々取り繕っちゃうじゃないですか」
「……木村ちゃんって」
言いかけた私を止めるように、「こんにちはー!」と彼女は元気よくカフェの扉を開いた。
キッチンから顔を出した有紗が、驚いたようにびくりとしてまた引っ込む。
「ごめんねぇ、有紗ちゃん。バイト先の子が、お店の話したらどうしても来たいって……」
「映える写真、撮らせてくださいっす!」
自分のキャラクター性をよく理解しているのだろう、陽気にVサインを作った手を、木村は有紗に向かって軽やかに振る。
有紗はまだ少し緊張した様子であったが、それでもキッチンからメニューとノートを持って出てきてはくれた。
ほっと安心を覚える。
ノートも持っているということは、会話の意思はあるということだろう。
「ね、副店長。良い感じに映えるメニューなんだと思います?」
「えぇ?」
急に言われて「そんなのわからないよ」と眉を寄せる。
SNSなんて、やってないどころか苦手中の苦手だ。可愛らしいとか、華やかとか、私の馴染める世界ではないと思ってしまう。
「うーん……クリームソーダは、この前飲んだけど可愛かったわ」
「あぁ、レトロブームだし良いですね!」
木村は店に入る前の雰囲気はどこへやらの陽気さで、メニュー表を眺めていく。
「じゃ、私はクリームソーダとプリン・ア・ラモードで。副店長はどうします?」
「え? あー、七月のブレンドで」
『もう八月』
有紗がノートに書き付ける。
「あっ……歳取ると、時間が早くって駄目ね」
私は苦笑いを浮かべた。
ほのかに漂うコーヒーの香りを嗅ぎながら、有紗が作っているのだとこの前知ったのだから、自分もクリームソーダにすれば良かっただろうかと、後から少し後悔した。
有紗は無表情のままぺこりと頭を下げて、そのままキッチンへと駆け戻っていく。
その所作はなめらかで、流石に警戒はしているようだが、木村に悪い印象や過度な緊張感は持っていなそうだった。
少しだけ、安心する。
木村美波はしっかりした女の子で、信用のおけるバイトの子ではあるが、それでもやはり有紗のような少女とは相性が悪いのではないかと思っていたのだ。
同じクラスにいても決して交わらないような、そんな対照的な二人に思える。
有紗の後ろ姿を見送っていた木村が、ふっと呟く。
「やっぱ似てるな……」
「似てる?」
思わず口からこぼれた言葉だったのだろう。「あっ」と口を覆って、それからにへらっと困ったように笑う。
「友達に、ああいう子がいたんです」
従業員として長く彼女を雇っていたが、プライベートな話を聞くのは初めてだった。
有紗と彼女が交わらないと思ったように、私も彼女とは交われない人種だと思ったから、話そうとも思わなかった。
「その子、高校のクラスメイトだったんだけど、有紗ちゃんみたいな真面目そーなしっかりした子でね、でも突然結婚するって言って、学校辞めていなくなっちゃったんです」
「あら……」
「それも結構歳上の人相手で、いや今も上手くやってるのはSNSで知ってるから大丈夫なんすけどね……でも副店長の話聞いてちょっと気になっちゃって……」
どうりで、相談した時の彼女の言葉があんなにもしっかりしていたわけだと納得する。
キッチンの方へと向けた目を優しく細めて、木村は歳にも性格にも似合わない、慈愛のようなもので満ちた声で呟いた。
「後悔してるんです。その子と、もっとちゃんと、友達にならなかったこと」
「……だから、有紗ちゃんに会いたいって言ってくれたんだね」
「そーいうことです! なんか、私の禊に使ってるみたいでむしろ申し訳ないかもしれないですね」
「少なくとも、私だけじゃ心許なかったからありがたいわ」
有紗は、心配は要らない、憐れみは要らないと私に拒絶を見せたが、木村のこれにはどう応じるのだろうか。
木村が正直に話すとは思わないが、それでも、この切実な思いが有紗に拒絶されないことを願わずにはいられなかった。
キッチンから戻ってきた有紗が手にしていたのは、コーヒーと可愛らしく飾られたプリンと、山吹色のクリームソーダだった。
「わ、めちゃ綺麗!」
木村が楽しそうに満面の笑みで言う。
有紗はスッと顔を背けて、それから無表情のままノートに何やら書き付け出した。
『クリームソーダ、本当は緑なんですけど、ネイルの色と揃えたら映えるかなって』
「あぁ」
私は思わず感嘆をもらした。
私なんかは気づきもしなかったが、確かに今日の木村は綺麗なオレンジ色のネイルをしていた。
有紗はちゃんと見ていたのだ。
木村はポカンと口を開けていたが、それから一気にさっき以上の笑顔になって、有紗の手をぎゅっと掴んだ。
「ありがとう! すっごく嬉しい!」
有紗の無表情が驚きで崩れる。
トレーとノートが、大きな音を立てて地面に落ちた。
「うわっ、急にごめんね!」
それでも笑顔のまま、木村は慌てて拾い上げる。
「有紗ちゃん、ネイルとか好き?」
『別にそういうわけじゃない』
「なのに気づいてくれたんだ、ありがとう」
それは大袈裟でもなんでもなく、本当に嬉しそうな声に聞こえた。
有紗のために言っているだけではないと感じる。
「もうさ、ネイルとか誰も気づいてくれないんだよねぇ」
パシャパシャと写真を撮りながら、木村は拗ねたように口を尖らせる。
「彼氏とかも気づいてくれなくってさぁ。友達はね、時々気づいてくれたりもするんだけど、毎回反応なんてしてくれないからさぁ」
『それは、良かったです』
少し戸惑ったまま、有紗は押され気味にそう書き付ける。
「有紗ちゃんセンスあるよ、めっちゃ見る目あるもん。てか女の子からモテるでしょ。今フリーだったら、全然付き合いたいもん」
軽やかすぎる彼女の会話に、私は思わず咽せそうになる。
多様性の時代とはかくも身近なのか、はたまた彼女が持ち前の軽快さで世界を生きているのか。
『別にモテませんよ』
戸惑っている有紗を見るに、これは木村の気質だなと納得する。
「えー、みんな見る目ないな。私そのうち彼氏と別れそうだから、考えといてよ」
『冗談ですよね?』
「んー二十パーセントくらいは本気。やっぱ今の彼氏にも未練あるしさぁ……」
二人の会話の邪魔をするのはやめようと、私は黙ってコーヒーを啜った。華やかな香りがふわりと広がり、しかしその味はどこか、先月よりも苦く感じられた。
どうなることかと思ったが、有紗と木村は案外悪くない相性なのかもしれない。
しかしまぁ、ずいぶん久しぶりにこんな若い会話をこんな近くで聞いているものだと思う。
バイトの学生たちの会話を耳にすることはあっても、愚痴の一つや二つも言いたいだろうと思って、あまり近寄らないように、聞かないようにしていた。
「有紗ちゃんめっちゃ良いから、特別に今度私がネイルしてあげるよ。てかメイクとかはあんま興味ない系?」
『ここ以外行かないし』
「えーでも実家バイト的なやつでしょ。メイクもネイルもできるのにしないの勿体無いじゃん。イケメン来るかもだし」
『来ないよ、こんな寂れた店』
「じゃあ私が通ってバズらせようかなぁ」
有紗の表情が少しずつ緩んでいく。
木村の裏表のないさっぱりした性格を、有紗の鋭敏な感性で感じ取ったのだろう。
子供らしい表情を目元に宿らせて、幾分か楽しそうにノートに文字を綴っていく。
『メイク、全く興味ないってわけじゃないかも』
「お、マジで?」
『うん。大人はするでしょ?』
「なんでなんで、大人になりたいの? それとも好きな人とかいる感じ?」
好きな人、と聞いた瞬間、有紗の頬がブワッと赤く染まる。
それはあまりにあからさまな、少女らしい反応だった。
私も木村も、思わず笑顔になる。
「お、図星?」
『そういうのじゃない』
「良いじゃん、教えてよ」
『そういうのじゃないって』
彼女は強い筆跡でそう書いて、ふっと落ち着いたように次のページに変えて、綺麗な字ではっきりと書いた。
『好きとか恋とか、そんな低俗なものじゃないの』
「おぉ? 難しいこと言うねぇ」
面白がるような木村の向かいで、私は妙に冷静にその文字を見ていた。
つながりそうな何かがある。
尾倉有紗はあまりにも、あの小説の主人公に似ていた。
『そうやって名前をつけると、馬鹿らしいものになっちゃう』
「馬鹿らしいかなぁ、恋愛って」
『そんな一時の情動とは一緒にしたくないの』
「良いじゃん、花火みたいで」
『儚いものが良いとは限らない。私は永遠の方が良い』
そう書き切った有紗の横顔はきつく何かを見据えているようで、しかし張り詰めた無表情とは全く異なるものだった。
感情に名前をつけたら、終わりにできるのだろうか。
私は有紗への背信をはっきりと自覚しながら、一色の顔を脳裏に思い浮かべていた。
私は彼を、どう思っているのだろう。
私の人生を滅茶苦茶にした彼を。
名前をつけられたら、全てスッキリするだろうか。
「じゃ、そんな大事な気持ちなら尚更だよね」
木村の明るい声で、はっと我に帰る。
きょとんとする有紗に、木村は内緒話のような小声で言った。
「お父さんに半日お休み貰っておいで。一緒にショッピング行こ!」
有紗が驚いて、首をぶんぶんと横に振る。
『駄目、お店空けられない』
「どーせお客さん来てないでしょ、お父さん一人で大丈夫だって!」
辛辣にも思える一言を吐いて、木村は有紗の背をトンと押す。
「ほら、お父さんに我儘言って来な。大事なことだよ」
有紗はそのまま押されるように数歩歩き、そして木村の表情を見て心を決めたのだろう。ぱたぱたとキッチンへと駆けて行った。
木村の横顔に、私はまた自分に欠けているものを思ってしまう。
「……ずいぶん強引に成功しちゃったわね」
感嘆を込めてそういえば、木村はまたにへらっと笑う。
「あ、副店長も、清水さんも行くんですからね」
「えっ、私も?」
「そーですよ。みんなで仲良くならないでどーすんですか」
さっきの会話に混じれもしなかったのにと顔を顰める。
「私は良いよ、二人の方が楽しいでしょ」
「ダメです。清水さんいないと、有紗ちゃんパパも安心できないでしょ」
そう言われれば言い返せはしなかった。
なんだかんだと言い交わしつつ、私たちがちょうど注文したメニューを食べ終わる頃、いつもの制服ではない、私服姿の有紗がスマートフォンを持って姿を見せた。
画面に短文が表示される。
『清水さんも一緒なら良いって』
それを見て、木村がニヤッと笑う。
「ほらね?」
「……はいはい、じゃあおばさんもついていきますね」
大人しく諦めて、二人の同行者になることとした。
まぁ荷物持ちでも財布係でもなんでも良い。彼女らが楽しめるならそれが一番だろう。
二人に混じれない、馴染めない惨めさがないといえば嘘になる。
だが今は嘘を吐くべき時だった。
『どこ行くの?』
「うーん、とりあえず近くのモールとかどう? あ、ギャルと一緒の時に同級生に会うかもしれないの、気になる?」
『別に気にしない』
「よっしゃ」
ギャルは案外世間体も気にするものらしい。
やはり木村は強かな少女だと思う。
世の中を生き抜く術をまっとうに身に付けている。
強さと、強かさ。
有紗は鋭利で強いが、それはいつか折れてしまいそうな危うさも孕んでいる。
木村のとの交流で、有紗は何かを得られるだろうか。
……それは、得た方が良いものなのだろうか。
前を行く少女たちの後ろ姿に、そんなことを思う。
強かさは、強さよりも生き抜くためには優れているだろう。
だがそう変化したとき、有紗の持つきらめきはどうなるのだろうか。そのまま光を失わず、鋭いまま輝けるのだろうか。
生きられなくては何も意味はないよ。
脳の冷静な部分がそう告げる。
そうだね、と私は口の動きだけで返した。
────────────────────────
「さぁて、買ったねー!」
ショッパーを楽しそうに振り上げて、木村がニコニコと笑う。
「有紗ちゃんのためのお買い物だったのに、私も結構買っちゃったや。清水さーん、シフト増やしといてね!」
「はいはい」
夕暮れ時になっても溌剌さを失わない木村と、彼女といる時間が長いほどむしろ元気になっていくような有紗。
疲れているのは私ひとりのようだ。
服だコスメだアクセサリーだと、彼女らは休憩もなしにぐるぐると駆け回り、お気に入りを見つけては密やかに何やら囁き合っていた。
それは少女特有の秘め事のようで、私も声をかければ彼女らは拒まなかっただろうが、そうはしなかった。
ただ見守っていたかったのかもしれない。
「有紗ちゃん、今度メイクの仕方教えたげるねー」
『ありがと』
有紗がにこりと笑う。
歳相応の、愛らしい笑顔だった。
「つーことで、清水さん。またカフェ連れてってくださいねー」
「一人でも行けば良いじゃない」
「清水さんも仲間なんですー」
「あらあら、ありがとう」
一歩引くことで、むしろ気を遣わせただろうか。
しかし自分といる時には見せることのなかった有紗の笑顔を見ていると、やはり木村に任せたのは正解だったと思わされる。
「あれ、尾倉ちゃん?」
不意に、三人の後ろから声がかけられた。
振り返れば、制服姿の二人組がいる。
あっという顔をする有紗に、「やっぱりそうだ!」と二人は駆け寄ってきた。
「あー、もう、元気だった?」
「ずっと来ないから、心配してたんだよ」
二人も手に紙袋を持っているところを見れば、彼女らもモールでの買い物帰りなのだろう。
下校中の寄り道、と言ったところだろうか。
有紗は慌てた様子で、手早くスマートフォンに打ち込んでいく。
『ごめんね』
「え、なんで、謝らないでよ!」
一人の女の子がそう言って、突然有紗をぎゅっと抱きしめた。
「尾倉ちゃん悪くないし、あたしらが待ってるだけだもん」
「ね、待ってる」
もう一人の子も、二人の背にそっと手を当てる。
抱きしめられた有紗は何も打ち込めず、困ったような顔でただただ何度も首を縦に振って、頷いていた。
木村がトンと私に肩をぶつけてくる。
「なーんだ。心配、要らなそうですね」
「……ふふ、そうね」
でもさ、と少し寂しそうな木村の顔を見つめる。
「有紗ちゃんが今日外に出なかったら、彼女たちの思いは知らないままだったかも」
「……それじゃ、私、役に立てましたかね?」
「うん。十分過ぎるほど、有紗ちゃんにあげられたと思うよ。それに、これからもあるんでしょう?」
木村はパッといつもの笑顔に戻って、「もちろんです!」とVサインを作った。
それから礼儀正しく、ピシッと頭を下げる。
「我儘聞いてくれてありがとうございました、清水さん」
「やだもう、やめてよ。むしろ私の方がありがとうよ」
同級生に囲まれる有紗を見つめて、本当にそうだと心の中で呟く。
私だけではあの有紗を見られなかっただろう。
別に、私に有紗へ何の義理があるわけでもないのだが、彼女に負い目があるからだろうか、それとも自分のかろうじての善性なのか、この姿が見られて良かったと心底思う。
そして木村も、有紗との今日を通して、これからを重ねて、かつて同級生だった少女への後悔を自分の糧にしていく。
あ、これも養分か。
不意に気がつく。
自分で自分の糧を、養分を作り出すこともできるのか。
そうしてもうひとつ悟る。
店長はそれができたのだ。自分が生きるための養分を、自分で作り出して、そうして生きている。
それだけでは、いつか疲れてしまうのではないだろうか。
人はそんなに強い生き物なのだろうか。
私にはとても、できそうにない。
それでも、何かを食い物にするよりは余程良い生き方に思えた。
これは日々を真剣に生きた人の特権だ。
友達とも言い切れない程度の付き合いだった同級生の人生に、しっかりと目を向けていた木村だからこそ、自分の中で自分を充実させていける。
私は。
少女たちの姿がぼんやりと滲む。
私は、どう生きれば良いのだろう。
どうすれば、恥ずかしくない生き方ができるのだろう。
その日、私はようやく、私の一行目を書いた。
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