第2話

 透がここに居残ると決めてから、どれだけの月日が過ぎたのか、その実感はもうもはや掴むことができなかった。

 ここにいれば、時間の感覚が次第に消えていき、ただ静かな夜が繰り返されているだけ。空腹も感じないし、疲れもない。あらゆる感覚が曖昧で、まるで永遠のような、心地よい不安定さの中に身を置いていた。

 そして、何よりも彼を支えていたのは、彼女だった。

彼女と共に過ごす時間は、奇妙でありながら、どこか安心感に包まれていた。二人で話をしたり、ただゆっくりと周囲を散歩したり。時折、彼女が語る過去のことを聞くたびに、その優しさと哀しみを感じて、透の心はますます彼女に引き寄せられていった。

 彼女と一緒なら、どこまでも、いつまでも生きていける気がした。まるでこの場所が、二人だけの世界であり、誰にも邪魔されることはないのだと、透は心から感じていた。

 だが、ある日のこと。

 透は彼女とプラットフォームのベンチに座っていた。隣に座る彼女の表情には、少しだけいつもと違うものが浮かんでいる。

「透くん、そろそろ選ばないと」

 透はその言葉に一瞬戸惑った。彼女の口からそんな言葉が出るのは珍しい。彼は首を傾げると、問いかけた。

「選ぶって、何を?」

 ナミは、いつものように穏やかな顔をして、少し間を置いてから答えた。

「この場所に残るか、それとも、あの電車に乗るか」

 透はその言葉を聞いた瞬間、どこからか遠くから響くような音を感じた。

「あの電車がどうやら最後の電車みたい。だから、最後のチャンス」

すぐに振り返ると、いつの間にか、薄暗い線路の先から電車が静かに近づいてきているのが見えた。その車両の扉が、ゆっくりと開く。まるで待っていてくれたかのように、静寂の中でその存在を主張している。

 透はその光景を見つめた後、彼女の方に体を向け、自然と口を開いた。

「俺はここに残るよ」

 その答えは、迷いのないものだ。ここが心地よく、彼女と共に過ごす時間が大切で、他の世界には戻りたくないと思っていた。

だが、彼女の反応は予想と違った。

「……それはダメ」

 ナミは静かに、しかしはっきりと答えた。透はその言葉を耳にした瞬間、驚きと戸惑いが胸に広がった。

 どうして、と透が口を開く前に、彼女は透に疑問を投げかけた。

「じゃあ聞くけど、透くんはなんでここにいたいの?」

 透は、ナミの問いに答えようとしたが、言葉が一瞬喉に引っかかり、口にするのが遅れる。

 彼女の瞳が、あまりにも深く、透を見つめているからだ。彼の心の奥底に感じるのは、何かが引き寄せられるような感覚。まるでこの瞬間が、永遠に続くかのような静けさの中で、自分が答えるべきことを見つけ出さなければならないという重圧を感じていた。

 だが、透は心の中で整理した。そして、ゆっくりと、慎重に言葉を紡いでいく。

「君のことが、好きだから」

 それは、紛れもない透の本音だった。彼女と過ごしたこの奇妙で、けれども心地よい時間。時間の流れも空腹も感じない、この場所での生活。それは確かに、彼の人生においてかけがえのないものになっていたのだ。しかし、それ以上に、彼が彼女を好きだという気持ちが、強く、静かに湧き上がってきていた。

「本当に?」

 彼女の瞳を見つめ、もう一度、確信を込めて言う。

「うん」

 それが真実だと、透は感じていた。しかし、彼女の顔に浮かんだのは、まるで透の言葉が響かないかのように、わずかな寂しさを含んだ微笑み。その笑顔の中には透が見落としていた何かがあるようで、彼はその微笑みの意味を理解できない。

 彼女がその表情を保ちながら、ゆっくりと口を開いた。

「じゃあ、私の名前、言ってみて」

 その言葉を聞いて、透は心の中で驚いた。思わず、彼女の顔を見つめ直す。なぜ、名前を言う必要があるのだろうか。しかし、ナミはそれを求めるように、透の目をじっと見つめていた。

 透は、少し困惑しながらも、自分の記憶を掘り起こそうとした。彼女の名前……彼女がずっと一緒にいた、この奇妙な時間を過ごしてきた目の前にいる女性の名前。

しかし、なぜか思い出せない。

 透は驚愕し、焦りを感じ始めた。彼女の名前が、全く思い出せない。苗字も、名前の一文字も、何も。彼の脳内には、ただ空白だけが広がっている。まるで彼女が最初から、名前さえも持たない存在のように思えてきた。

 その瞬間、彼女は静かに微笑みながら、確信を持って告げた。

「透くんが好きだったのは、『私』じゃない。私に投影した、別の誰かが好きだったんだよ」

 その言葉は、透の心を強く打ちのめす。彼女の言葉が彼の胸に突き刺さり、彼はその意味を理解することができなかった。彼女の目には、やはり少し寂しさが浮かんでいたが、それでも透の胸の中で何かが崩れ落ちるのを感じた。

 その瞬間、透の頭の中に、一つの名前がふっとよぎる。あまりにも強く、あまりにも鮮明に、その名前が浮かび上がった。

『西村咲』

 その名前に、透は驚き、そして恐れを感じた。まるで彼の心の中で長い間封印されていた何かが解き放たれたかのように、彼はその名前を認識する。そして、彼が本当に求めていたのは、彼女ではなく――

 透はその瞬間、自分が抱いていた感情がどれほど錯綜していたのかを理解した。彼が好きだったのは、彼女の本当の姿ではなく、彼女に投影した『誰か』だったのだ。 その誰かが、彼の心に刻まれた記憶に引き寄せられていた。

その思いが、透の胸に深く沈み込み、言葉が喉元で詰まる。

 気づけば、目の前にいる彼女は、まるで西村咲その人のように感じられた。声、笑顔、雰囲気、話し方……すべてが、あまりにも似ている。

 その時、彼女は静かに言った。

「ねえ、透くん。あなたは『未練』でここに来たの。本当の気持ちに気づいた今、もう帰ることができる。透くんは、もうここにいるべきではない。再び前を向いて生きるべき」

 その言葉が、透の心を揺さぶった。未練――それがどうして、こんな場所に導かれたのだろうか。そして、どうして今、彼女がそのことを言うのだろう。透は一瞬、反論しようとしたが、その言葉が喉元に引っかかり、口をついて出ることはない。

 彼女はそんな透の思考を遮るように口を開いた。

「ごめんね、もう時間がないの」

 その言葉が、透の胸に深く響いた。彼女の目は、どこか寂しげで、けれども確かな決意を宿していた。その瞬間、透の意識はまるで引き裂かれるように、強い引力に引き寄せられる感覚を覚える。

 そして、次の瞬間、彼女は透を軽く押した。

 軽い力であったはずなのに、透は何もできず、無防備に倒れ込んでいく。

目の前がぐるりと回り、バランスを崩し、彼の体はどうしようもなく倒れる。尻餅をつきそうになるその瞬間、透は心の中で叫びたかった。しかし、その叫びはどこか遠くに消えていく。

 その後、まるで何事もなかったかのように、透は気づいた。

 ガタンゴトン――。

 電車が規則的に揺れる音が耳に届く。

 あまりにも静かな、どこか懐かしい音。透はその音を聞いて、瞬間的に意識を戻す。だが、何が起こったのか、何が現実で、何が夢だったのか、全く分からなかった。

 彼は、ただ目の前に広がる景色に目を凝らしてみる。しかし、どんなに目を凝らしても、目の前に広がるのは、見覚えのある景色――それは、確かに「現実」だったはずの世界なのだ。

 透は手に握られているスマホが振動した。

 画面には、どこか無機質なニュース見出しが表示されていた。透は一瞬、目を凝らしてその文字を追っていく。

『水瀬ナミの遺体発見が発見される』

 そのニュースには、十年前に失踪した大学生・水瀬ナミが失踪からずっと、行方が分からなかった。しかし、最近になって、山奥の廃駅近くで白骨化した遺体として発見されたという。

 透はその情報をただぼんやりと眺めていた。心の中で何かが引っかかる。水瀬ナミという名前に、どこか見覚えがあるような気がしたが、具体的に思い出せない。目の前に広がるニュースの内容に、ピンと来ない。

「物騒な事件だな……」透はその一言を呟き、何とも言えない冷たさを感じながら画面を閉じた。

 画面が消えると、透の頭の中に浮かび上がるのは、西村咲の笑顔。彼女の、透を見つめるその可愛らしい笑顔が、無意識に何度も繰り返し浮かんでは消えていく。彼女の顔が、まるで遠くの記憶のように透の意識を支配していた。笑顔と一緒に、どこか暖かさが、どこか切なさが胸に広がる。

 透はその瞬間、何かがまた、少しずつ揺れ動くような感覚を覚えた。それは言葉にできない何かで、確かに彼の心の中で動き始めていた。でも、それが何であるのか、いったいどんな意味を持つのかは、まだ分からない。

 そして、透は再びその場に座り込んだまま、静かに目を閉じた。

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幻駅の彼女 松本凪 @eternity160921

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