幻駅の彼女

松本凪

第1話

 電車の揺れが、心地よい子守唄のように身体を揺すっていた。

窓の外に流れる景色は黒々とした影のようで、時折、ぼんやりと浮かび上がる街灯の光だけが、ゆっくりと流れていく。車窓に映る自分の顔はどこか他人のもののようで、虚ろな目をした青年が、じっとこちらを見つめている。

 藤倉透は、膝の上に置いたスマートフォンを指先で弄んでいた。だが、画面をつける気にはなれない。ただ光のない画面が、かすかに冷たさを伝えてくる。何かを考えようとすると、そのたびに思考がまとまりかけては霧散していく。

「はあ……」

 数時間前のことを思い出す。

 透は、大学で同じサークルに属しており、長年片思いをしていた西村咲に告白した。そして、見事に振られたのだ。

『……ごめんね、透くん』

 その言葉が、静かに蘇る。

 彼女の声は優しく、傷つけまいとする気遣いが滲んでいた。それがかえって心に刺さったのだ。無理に微笑もうとする唇の形まで、鮮明に思い出せる。何度も想像してきた場面だったはずなのに、いざ現実となると、思ったよりも静かに心が冷えていくものだった。

「もう、どうでもいいや」

 そう思っていた。

 スマートフォンの画面をつける気にもなれず、かといって音楽を聴く気にもなれず、透はそっと目を閉じていた。揺れに身を任せ、ただ車内の静寂に沈み込んでいく。

 ――次に目を開けたとき、そこは見知らぬ駅だった。

 車内には、誰もいなかった。

 蛍光灯の青白い光が虚ろに照らす車両には、整然と並んだ座席と、吊り革が揺れる気配すらない。窓の外を見ても、夜の闇が広がるばかりで、駅のホームの様子ははっきりと見えなかった。

「次は……◯◯駅です」

 突然、スピーカーからアナウンスが流れた。

 しかし、肝心の駅名の部分が、不自然に掠れている。雑音に紛れたわけではない。むしろ、言葉の一部だけが意図的に消されたような、不気味な違和感。

 透は眉をひそめ、思わず身を乗り出した。

「まずい、寝過ごした——!」

 慌てて立ち上がり、ドアの方へ向かう。ちょうどその瞬間、電車がゆっくりと速度を落とし、停止する感覚が伝わった。

 ドアが開く。

 躊躇うように一歩踏み出し、ホームに降り立った。

 その瞬間、背後で鈍い音が響く。

 振り返ると、電車はすでに動き出していた。ヘッドライトの光が暗闇を切り裂きながら、ゆっくりと遠ざかっていく。声をかける間もなく、電車は静かに走り去り、ホームに残されたのは、透ひとりだった。

 深い静寂が降りる。

 周囲を見回してみても、人の気配はなかった。駅舎も見当たらない。線路の先を見ても、闇に溶けるように消えているだけ。

 そして、決定的な違和感に気づく。

 ――駅名が、どこにも書かれていない。

 駅の看板を探すが、それらしきものは見当たらないのだ。ホームの床も妙に白く、どこか現実離れした光沢を帯びている。まるで、ここが本当に存在する場所なのかどうかさえ、疑わしくなるような感覚。

「……あっ」

 透はふと気づいた。

 ホームの端、古びたベンチに、ひとりの少女が座っている。

 白いワンピースを身にまとい、長い髪を風になびかせながら、静かに膝の上で指を組んでいる。その姿は、まるで遠い昔の記憶の中から抜け出してきたように儚げで、そして、どこかこの世界のものではないような違和感を伴っていた。

 彼女は透と同じ年頃に見える。もしくは、少し年下。柔らかな光を帯びた肌と、どこか遠くを見つめるような澄んだ瞳。その瞳が、不意に透を捉えた。

 視線が交錯した瞬間、彼女は微笑んだ。

「お兄さん、急がないと、もう戻れなくなっちゃうよ?」

 穏やかな声。まるで日常のちょっとした忠告のような口調。しかし、その言葉が持つ意味は、あまりに異質だった。

 透は一瞬、思考が追いつかずに立ち尽くした。

「……え?」

 無意識に問い返すと、少女はただ微笑んだまま、何も言わずに透を見つめている。その瞳には、嘘や悪意といったものは一切感じられない。だが、それがかえって恐ろしかった。まるで、彼女だけがすべてを知っているかのような、そんな目をしているのだ。

 透は意を決し、ゆっくりと少女のもとへ歩み寄った。足音がやけに響く。深夜のホームは静かすぎて、まるで世界に自分たちしか存在しないかのようだ。

「……君は?」

 至近距離まで近づくと、少女は静かに答えた。

「水瀬ナミ」

 名前だけ、ポツリと呟く。その表情はどこか達観したような、それでいてほんの少し寂しげな色を帯びている。

 透は困惑しながらも、もう一歩だけ距離を詰めた。

「それより、お兄さん、今は自分のことを心配したほうがいいよ」

 言葉を失う透に、ナミは言葉を加えていく。

「ここに降り立ったら、もう元の世界には戻れない」

 静かに放たれたその言葉が、透の鼓膜に染み込んでいく。まるで、ずっと前から決まっていた運命を告げるかのように、淡々と、けれど確信に満ちた口調で。

「……どういう、こと?」

 掠れた声が、思わず唇からこぼれ落ちる。

「ここに居続けたら、もう抜け出すことはできなくなるの」

 ナミの言葉を聞いても、透にはまだ現実感がなかった。ただの夢だろうか。それとも、悪質な冗談か。 しかし、目の前の少女はあまりに自然にそこにいて、彼女の言葉はどこまでも真実の響きを帯びていた。

「じゃあ……俺は、一生ここに?」

 初めて、心の奥から焦りが込み上げた。冗談だとは到底思えない。しかし、信じるにはあまりに非現実的すぎる。冷たい空気が肌を撫で、胸の奥がざわめいた。

 ナミは、そんな透を見つめながら、そっとかぶりを振った。

「ううん。まだ君には二つ道が残されてる」

 透は、かすかに息を呑んだ。

「二つの道……?」

ナミは電車が去っていった方向へ視線を向ける。長い髪が風にそよぎ、夜の気配をわずかに纏う。彼女の仕草に誘われるように、透もそちらへ目をやった。

 線路は遠くへと続き、消えていく。

 だが、その先には何もないように思えた。ただ、黒い闇が広がっているだけ。まるでこの世界の終端のように、あるいは、どこか別の次元へと繋がっているかのように。

「一つ目の道はね――向こうの世界へ行くこと」

 ナミは夜の帳を見つめたまま言った。

「向こうの世界……?」

「うん。この駅の先には、ここではないどこかがあるの。でも、どんな場所かはわからない。行った人は、誰も戻ってこないから」

 透は無意識に足を一歩引いた。得体の知れないものへの本能的な恐怖が、背筋を冷やす。

「だから、この道を選ぶのは、少しだけ勇気がいるかもね」

 ナミは穏やかに言いながら、線路の先へと目を向け続けていた。闇の向こう側を見透かすように。

「じゃあ、もう一つの道は……?」

 問いかけると、今度はナミが透の方を見た。

「ここに残ること」

 淡々とした口調だった。それなのに、その言葉は凍えるように重たかった。

 透は眉を寄せる。

「ここに残れば、時間の流れはなくなる。お兄さんは、ずっとこの駅の中で生き続けることになる。何も変わらず、何も進まないまま」

「時間の流れが……なくなる?」

「そう。この世界の時間は止まっているの。だから、お兄さんがここに残ると、現実の世界では、まるで最初からいなかったみたいになっちゃうんだ」

 ナミは静かに言葉を紡ぐ。透の心臓が、ひどく重くなった気がした。

「お兄さんのことは、誰の記憶からも消える。家族も、友達も、好きだった人も。お兄さんがいたことすら、思い出されなくなる」

 ナミはそう告げた。

 透は思考が追いつかなかった。ただ、漠然とした絶望が広がっていく。

 誰にも思い出されない。

 家族も、友達も、咲も。

 自分が存在したことさえ、なかったことになる。

「……そんなの……」

 声が掠れる。これは夢だ。悪い冗談だ。何かの間違いだ――そう思いたかった。

「……どっちを選んでも、もう元の世界には戻れないみたいじゃないか」

 絶望に押しつぶされそうになりながら、透はふらりと足元を見つめる。靴の先が、かすかに震えていた。

「私はね、ここに残ることを選んだ」

 透は思わず顔を上げる。

 ナミの表情は、どこまでも穏やかで、それでいて寂しげだった。まるで、ずっと昔に答えを出して、今はもう何も迷うことはないといったように。

 透は息を呑み、彼女の姿をまじまじと見つめていた。

「私ね、ちょうど十年前にここへ来たの」

 彼女の言葉に、透は思わず息を呑む。

 十数年前。

 その響きが、妙に現実離れして感じられる。彼女は自分とそう年齢が変わらないように見えるのに。

「友達と二人で、終電に乗ってたの。その時、私は大学生になりたてで、そんなに遅くまで遊ぶのは初めてでね、すごくワクワクしてた。……だけど、気づいたらこの駅にいた」

 ナミの声は淡々としていたが、その奥底に滲むものがあった。

「最初は、夢でも見てるんじゃないかって思った。でも、どれだけ目をこすっても、いつまでも待っていても、辺りを探索しても、ここから出られなかった。電子機器も使えなかったから、助けも呼べなくてね。そんな時、友達が言ったの。『ここにいたって仕方がないから向こうに行く』って」

 ナミは線路の向こうをじっと見つめた。

「そのまま、友達はあの闇の向こうに消えていった。私は止めることもできなかった。手を伸ばしても、もう届かないところへ行ってしまった」

 彼女の声が、かすかに揺れる。

「私は……怖かったんだと思う。友達と一緒に、向こうへ行くのが想像するだけでも恐ろしくて仕方がなかった。だから、ここに残ることにした。それからずっと、ここにいる」

 透は思わず彼女の横顔を見つめる。

 ナミは、ただ穏やかに微笑んでいた。

「でも、ここにいるのも案外悪くないよ」

 透は、息を詰まらせた。

「誰にも干渉されないし、嫌なこともない。寂しさも、いつかは慣れるし……」

 ナミは淡々と語る。その声には、どこか諦念が滲んでいた。

 ここには時間がない。過去も未来もない。ただ、静かで、変わらない夜が続いている。

 そんなことを語る彼女は、どこか魅力的だった。

 不思議な空気を纏いながら、静かな哀しみと、受け入れた強さを持っている。

 このまま、彼女とここで過ごすのも――悪くないのかもしれない。

 そんな考えが、一瞬だけ透の心を掠めた。

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