第10話 ゴンロサマ

 陽も沈みきった山中の少し開けた場所にて。

 少し前から本降りになり始めた雨の中で鱗はため息をついた。


 どうもこの間から、彼は夜の山と妙に縁がある。

 ススキに始まり、幽霊屋敷に、そして今日。

 どれもこれもロクでもない用事で訪れているせいで、鱗は少し山という物が嫌いになり始めてしまっていた。

 まぁもともとインドア派の彼にしてみれば、そもそも端からたいして好きなものでもないが。


 ビニール傘をさした鱗は、不満を隠さない表情でダルそうに棒立ちしている。

 まずもって雨模様の冬の山なんてクソ寒いからというのもあるが、しかしもっとも彼を不機嫌にさせていたのはこの傘だ。

 つい先程コンビニで買った、値段がちょっと安い故にサイズの小さなものである。

 小振りなソレは、小柄とはいえ男性である鱗の全身をカバーできず、彼の右肩はしとどに濡れてしまっていた。


 どうせ金なら不自由しない程度にあるのだから、別に節約する必要は無かったというのに、なぜ彼はこんな物を選んだのか?


 それは皮肉な事に「自身がすぐに傘を無くす」と彼が理解していたからである。

 どうせ無くすのなら、と意識的に安い方を買ったのだ。

 その時は珍しく良い判断だったと自画自賛して、むふぅとドヤ顔の鼻息を吐いた鱗だったが、コンビニから出てすぐに後悔し……今に至っている。

 忘れるから安いのを買って、安いのは小さいから全然雨を防げないという本末転倒っぷりに、我が事ながら彼はほとほと嫌気がさしていた。

 どうしてこう自分は学びや進歩が新たな失敗に繋がってしまうのか……もはやそういう星の下に生まれたのだろうとしか思えなかった。



 このままじゃ風邪を引いちゃいそうだなぁ、なんて。

 今から命懸けの勝負が始まるというのに、自分が死ぬ可能性なんて微塵も考えず、彼は帰宅後の心配をしている。

 それは彼の自信の表れというわけではなく、単に危機感が無いだけの平和ボケした思考である。


 けれどその平和ボケを維持したまま、彼は数えきれない相手を葬ってきた。

 町を壊し、市を壊滅させ、いつかは国すら揺るがしそうな化け物を相手にしてもなお、それらは彼の平和を揺るがせなかったという事だ。


 そうして今も、人見 鱗は目の前の男が怖くない。

 少なくとも、今のところは。


「えっと、そういうわけですんで……どうか観念して自首して頂けません……?」

「そんな言葉に『ハイわかりました』などと返答するとは、貴方も思っておりませんでやしょう」

「……まぁ、そりゃそうですよねぇ……いやでも、これは毎回本心から言ってるんですよ?だって別に生きてても死んでてもデッドオアアライブ、どっちにしろ仕事の報酬は変わらないんで……それなら、穏当に済む方が良いじゃないですか」

「……存外、貴方と拙は気が合うのかもしれませんな。しかし事ここに到っては、もはや問答は無用!」


 鱗が会話している相手は、異様な風体の男であった。

 服装そのものは黒いダウンジャケットにジーパンという在り来たりなファッションだが、極めて異質な点が一つ。

 それは彼の頭部が、虚無僧笠で覆われているという事である。

 あまりにも顔と身体がミスマッチというか、結局どうしたいのかわからないアンバランスさ。

 人目を避けたいのか、それとも目立ちたいのか。

 彼を見れば万人が万人確実に記憶に残るであろう奇妙ないでたちだが、これこそが彼の仕事着なのだ。

 声の感じは虚無僧笠から想像するものよりもずっと若く、もしかすれば20代ですらあるかもしれない。

 というのにこの格好なのだから、違和感も一入であろう。

 追われればコレを外して人混みに紛れ、仕事中は常に顔を見せない為の仮面とするならば、まぁ理には叶っているのかも知れない。

 だからと言って、もっと他に最適な恰好があるだろと言われれば言い返せないので、これは単純に彼のセンスの問題である。



 男の本名は誰も知らず、彼を知るものはただ『封来』と呼ぶ。

 生業とするは、怪異と呪いを持って人を殺す暗殺。

 その手口は極めて合理的なものだ。

 最近になって産まれたその土地に根付く怪異を利用したり、世界各国の呪術を独自でミックスして呪殺を執り行う為、犯行が封来の物かを判別するのも困難を極める。

 自発的に他者を害すことはなくとも、判明してるだけでその手にかけた人間は数知れず。

 それがどれほどの数に上るかは、暗数を含めれば本人にしかわからないだろう。

 社会の転覆を狙うような思想犯でもないし、県まるごとを呑み込みかねない霊障度の高い怪異というわけでもないが、けして軽視できるものではない。

 これまでも何度も問題視されていたのだが、その度に身を潜めて難を逃れる嗅覚も持つのが厄介極まりない邪法師である。


 果たしてどのような経緯で、そんな相手を補足するに到ったのか?

 決定的だったのは、彼が今回の依頼に利用しようとした土着の怪異が、協会にとって極めてアンタッチャブルな存在であった事だ。


 それはこの地方に完全に根を張った怪異。

 明治の初頭にこの地域へどこからともなく流れ着いた当初は、名も無き小さな弱々しい妖だったとされている。

 その頃は力も大してない、ただ山に立ち入った者を驚かせる程度の、他愛もない猿の化け物であった。


 けれど年を経るごとに妖は、襲った人間から、自然の摂理から、他の大妖の横暴から……邪な智慧を蓄えていった。

 そうしていつしか猿は、その小さな身の丈には到底見合わぬ、肥大した欲望を持つようになる。


 大いなる力を手にし、自由にふるまって暴れ回り、人間どもに供物を捧げさせ、神として崇められたい。


 そんな馬鹿げた夢物語を思い描くようになっていた。

 けれど単なる小さな猿の怪異に、そのような大それた真似ができるワケが無い。

 人間であろうと怪異であろうと、凡夫の直面する現実は同様に辛く厳しいものだ。

 精々眠りにつく前に頭の中で夢想して、矮小な己を慰めるのが関の山だった。


 その非現実的な夢が叶う日は、きっと来ることは無かっただろう。


 本来であれば。


 しかし、何の因果か、どのような応報か。

 複雑極まる幸運と不運の絡まりあった糸の果てに。

 猿は、その馬鹿げた妄執を成し遂げてしまったのだ。


 猿はいつの間にやらこの地域の山の主となりかわり、信仰を奪ってここらの地域の村々へと根づいてしまった。

 それ以来この地域では歪められた神託が幾度も下され、昭和の中頃に協会が事態を把握し食い止めるまでに、数百人に上る無意味な生け贄と人柱が行われていたとされている。

 それらが全て猿の腹を満たし、欲を埋める為に消費された。


 どうやってなり代わりを成しえたのか、今となっては当の猿以外わかりはしない。

 現代まで残っているのは、元々あった純粋な信仰や人々の切なる願いを全て自らの糧に変え欲望のままに貪り喰らい、猿は強大な怪異へと変貌したという事実だけ。


 今やその力は単なる妖の域を遥かに超え、土地の神にすら差し迫らんとしている。


 偽物の山神。

 産土を奪うモノ。

 村人が『ゴンロサマ』と呼ぶソレ。


 小さな猿の妖は今では身の丈八尺にもなるという、人の顔をした黒い大猿おおましらの化生と成り果てた。



 そんな凶悪な化け物を、霊祓協会が指をくわえて放置しているハズも無い。

 が、ゴンロサマを強制的に祓おうとしたところで、その抵抗による影響がどこまで及ぶかわからない。

 過疎化が進んだとはいえ村にも人は未だ住んでいるし、なにより貴重な霊祓師を何人潰されるかわかったものではなかった。


 だからこそ積極的な調伏ではなく、山間部の人口減に由来した信仰の目減りによる緩やかな消滅を待つべきとされ、監視下に置かれていたのだが……封来がそうとは知らずその怪異を呪殺へ利用しようとしてしまった。

 怪異を監視していた協会関係者が、間抜けにも接近してきた神出鬼没の殺し屋を発見できたのは、正に偶然の出来事であった。



 探知能力を持つ封来に対して、今回霊祓庁は罠を張って待ち構えた。

 今回突然鱗が呼び出される事になったのは、並の霊祓師ではその霊気を封来に感知されてしまうからだ。

 霊祓師にしろ邪法衆にしろ、彼らは霊気的空白の場所を恐れない。

 霊気を持たぬ人間など、彼らにしてみれば赤子を相手するかの如く簡単に捻れるから。

 一切の霊気を持たぬ鱗は、こういった目敏く嗅覚の効く相手にとって天敵足りえた。


 そもそもが霊気を人並み以上に扱える者全てにとって、彼は天敵なのだが。



「それでは拙がお相手仕る! 行きますぞ!」


 封来はそう言い放つと、凄まじい速度で手中にて印を組み、「喝!!!」と大声で裂帛の声を張り上げた。

 簡単な気の操作にて強化された喉から放たれる咆哮は、周囲の木の葉すら震わせる大音声となる。

 鱗は突然の轟音に、何が起こるのかとビクリと身を震わせ反射的に目を瞑ってしまう。


 彼は武芸に一切触れてこなかった一般人らしく、こういった部分にとても弱い。

 それを封来は一発で見抜いたのだ。

 仕事の際彼自ら手を下しはしないが、けして己の身一つで戦えないわけではない。

 百戦錬磨の殺し屋が、一般人相手に引けを取るハズが無かった。


 そうして絶好の隙を作りだした彼は。

 その一瞬を見逃す事無く凄まじい速度で"身を翻し"て。


「え」


 目にも止まらぬ早業でパルクールの如く木や枝を伝うと、先も見通せぬ森の中へと消えて行ってしまった。


 その後ろ姿は鬱蒼と茂る枝葉に遮られ、もはやどこへ行ったかなど検討もつかない。

 瞬き一つする間に、鱗は完全に標的を見失ってしまった。



「ええええぇぇぇ! な、なんつー、めんどくさい……!」


 ぽつんと後に残された鱗は数秒間黙り込み、ようやく事態を理解して素っ頓狂な叫び声をあげた。


 大抵の相手は鱗のことをナメ腐り、指先一つで彼を消し飛ばそうとする。

 覇気も貫禄も無い矮躯の痩せた小男であるという事そのものも、鱗と対峙した者にとって罠となる。

 のだけれど……しかし今回は相手が悪かった。


 今までの思考能力を喪失した怪異とも、傲岸不遜でプライドの高い邪法衆とも違う、フリーの殺し屋。

 ただ霊気を保有し、呪術や怪異を用いて依頼された相手を殺すだけの職業殺人鬼。

 今ですら鱗と対峙していたのは、仕事の為でしかない。


 そういった手合だからこそ、封来は逃走という手段をいの一番に取ることができる。

 仕事の完遂をこそ至上命題とする彼は、その為ならば卑怯だろうが無様だろうがなんでもできる。

 これもまた、鱗にとって初めて相手にする手合いだった。



 逃走というのはある種鱗に対する完璧な対策である。

 もし封来に失敗が一つあったとすれば……霊気を使って鱗へ攻撃咆哮してしまった事だろう。

 そしてそれは彼にとって、文字通り致命的な失敗となった。


「はぁ〜〜……雨強くなってきたし。さっさと終わらせて帰りたかったのに、これ長引いたらやだなぁ……ックシ」


 小さくクシャミをして鼻をすする彼の後ろから。

 大きな、とても大きな物が、地面を這いずる音がする。


 彼がここまで歩いて来たぬかるんだ山道に、曲がりくねった轍のような太いへこみが幾本も刻まれる。

 それはまるで数多の大蛇が爬行した跡のようだ。


 鱗の周囲に生えた木々の幹が何の前触れも無く弾けると、彼を避けるように複雑な紋様を象って倒れ込む。

 その歪な呪印から生み出された霊的な力場が、降り注ぐ雨の軌跡を歪曲させ、鱗から少し離れた一所へと集約させる。


 集められた雨粒は徐々に形を変えて、いつしか紅く染まり。

 数秒と経たず、真っ赤に染まったヒトガタを象っていた。


 おそらくは一般的な人間が見れば、人という水風船を針で突き刺し破裂させたみたいな、そんなイメージを想起させる邪悪な偶像。

 その真紅の水面は小さく泡立ち、ところどころ凝固して揺れる様はまるで脂肪を含むゼリー状の肉片のようだ。

 ヒトガタは小刻みに左右へ揺れながら、足を引きずって呪印をゆっくり周回しはじめた。



 只人はけして見てはならない、重篤な祟りを曳き起こす霊障。

 もしもこのヒトガタを葵や羽島が画面越しでも見れば、その精神を正気のまま保つ事は出来ないだろう。

 きっとそれは、封来すらも。



「あ、ありがと……全く、酷いよね。こんなとこに会話相手を放り出して、どっかに行っちゃうなんてさぁ」


 それを目の前にして鱗は、濡れぬよう雨を退けてくれた事に気付きただ感謝と愚痴を告げる。

 ちょっとグロいはグロいが、これくらいならもう彼も見慣れたものだ。

 それに自分の為にやってくれた事を、怖がるのもおかしい気がするから。


 雨水の代わりにどこからともなく現れた真っ黒な泥が、ぼたぼたと彼や地面へ滴り落ちているが、それも彼は気にしていなかった。


 泥が足元のぬかるみに触れると、慎の時のように即座にグジュグジュと腐り果て不快な臭いが立ち籠める。

 ……だというのに、同じくそれを浴びているハズの鱗自身には、目に見えた変調は一切起きていない。


 彼にとってこの泥はもはや慣れた物で、そもそもさして嫌悪感を抱くものでもなかった。

 腐った地面から放たれる腐臭はかなり嫌だが、どうしてか自分に触れる泥は服や体を腐らせたりはせず、地面のも放置すれば跡も残さず消えるし、なんならむしろちょっと温かいので雨で冷えた今の身体にはむしろありがたいくらいだと彼は感じている。


 自身に結び付いた“何か“が起こす現象に関して、鱗が恐怖を覚えることは一度たりともなかった。


 なぜかは彼にもわかっていない。

 けれどなんというか……畏れなければならないようなものではないと、どうしてか彼は知っていた。

 だからたとえ今地面に刻まれているのが、彼以外の人間が見れば狂を発しそのまま腸をブチ撒けて絶命に至らしめる最悪の呪いだとしても。

 触れれば腐る黒い泥が、たった一つの存在を永劫に苛み封じ込め続ける為の古呪だとしても。


 べつに自分に害がないし、自分の為にやってくれているなら、人見 鱗は怖くなかった。



「なんかいっぱい出てるねぇ、あの人そんなにすごいんだ。えっと、お願いできる? 多分あの人が逃げちゃうと、僕お金貰えないだろうから……」


 そんな場違いなまでに穏やかで、気の抜けた彼の言葉に彼の周囲のなにもかもが反応する。


 紅いヒトガタはまるで水膨れのように弾け飛び。

 黒い泥は拇指が七本ある不可思議な手の跡を、地面にいくつも残して消え。

 目の前の森の木々が轍を刻みながら朽ちて倒れてゆく。


 そして後には、なぜかその空間だけ降らない雨の中、傘を閉じて思いだしたかのようにスマホを弄り始めた痩せた男だけが残った。

 その傍には、既に2体目のヒトガタが作り上げられ始めている。

 どうやら雨を防いでいる間中、副産物としてコレが補充され続けるらしい。




 堆積した枯れ葉を、雨粒がバタバタと叩く音がうるさい。

 どんな小さな異変も聞き漏らすわけにはいかないこの状況で、降りしきる雨音がひどく厄介だった。

 自分の息切れすらも、可能ならば止めてしまいたい。


 雨に打たれながら、寒さ以外の理由で封来は震えている。

 指がうまく言うことを聞かず、鞄が上手く漁れない。

 とはいっても例え指が器用に動いたところで、鞄の中の札も短刀も煙玉も、この状況を覆してくれるとは彼には到底思えなかった。


「なんだアレは……! なんなんだアレは! あんな! あんな化物が、どこから……どうして!!」


 大きく波打った感情が、意味をなさぬ叫びとなって口から漏れ出る。


 死ぬ。

 間違いなく自分はこのまま死んでしまうのだという、逃れようのない確信。

 それは封来をしてこれまで感じたことの無い感覚だった。


 多くの怪異を利用し幾人もの標的を始末してきた彼でも、あんなモノは見たことが無い。

 いや、そもそも、あんなおぞましい怪異など、現し世に在っていいワケが無いのだ。



 最初から嫌な予感がしていた。

 妙な胸騒ぎというか、軽い頭痛や倦怠感など普段なら気にならない体調の不良が目立った。

 それはきっと封来の超人的な感知能力が、目の前に迫る死をなんとか回避しようと本能的に訴えかけていたのだと、彼は今になってようやく理解する。


 ゴンロサマとやらの下見に来た先で出会った痩身矮躯の青年を見た時、彼はさっさと通り過ぎようとした。

 こんな深夜に山奥にいるなど、自殺しに来たかそれを撮りに来たような悪趣味なバカか、そのどちらかしかない。

 どっちにしろ霊気も持たぬ一般人など、一銭にもならないのにわざわざ殺す必要もなかった。

 虚無僧の笠を被った変人と記憶に残ったところで、怪異による霊害事件なんぞ一般人の耳に入るわけもない。

 写真を撮ってSNSに上げようとでもしない限り、こちらから手を出す気にもならん。

 

 そう考え一歩を踏み出したところで、封来の足が動かなくなった。


 まるでそこから先に道など無いかのように。

 処刑台の階段を、登りきってしまったかのように。


 それは、彼が気づいてしまったからだ。

 目の前にいる小男こそが、彼の人生のどん詰まりデッドエンドだと。


 封来という男はその確かな実力に反して、とても用心深く言ってしまえば臆病ですらあった。

 しかしそれを彼は恥と思わず、むしろそうでなければならないと考えていた。

 霊気を操り怪異を利用するという行為は、けして尋常な感覚で行われるべきものではない。

 常識を逸したものに自ら近寄る時、恐怖を過敏なまでに感じなければ自身も吞まれてしまう。

 だからこそ、封来は数多くの依頼をこなしながら生き延びてきたのだと、そう思っている。


 そんな彼の信条が、自分はここで死ぬのだと告げていた。



 小男が自首の説得なんていうふざけた話を始めると、途端に目の前がチカチカと明滅した。

 視界に奇妙なノイズが走り、背筋を虫が這い上がるようなぞわぞわとした怖気が登ったのを覚えている。

 おそらくはあの時点でヤツの術中にハマっていたのだろう。

 既に自身は皿の上に盛られて、ポッカリと開いた化物の口の中へと食われていく準備が整ってしまったのだ。

 ……あの時に「自首をする」と言えばよかったのだろうか。

 そう考えて、しかし彼は首を振る。


 降伏したところで自分があの化物から逃れられる気がしなかったのだ。

 対峙した時にはもう呪いは完了してしまっていたと彼は予測している。

 あの男と戦わずとも、その後自分は牢の中で怪死を遂げただろう。

 なぜか封来にはそんな確信があった。


 もはやあの時の彼には、戦って逃げ延びるしか道は残されていなかったのだ。

 ……果たしてその道が、本当に残されていたのかどうかすら怪しいものだが。


 恥も外聞も放り出して撤退と潜伏を反射的に行えたのは、彼がこれまで積み上げて来た技術とたゆまぬ鍛錬の賜物だと言って良かっただろう。

 もしもほんの一瞬でも駆け出すのが遅ければ、身動きも封じられこの世で最も恐ろしい何かにより、死ぬより悲惨な目にあわされていたに違いない。

 その証拠に、あの男と会話をしている最中ひっきりなしに封来を襲い続けていた耳鳴りは、ここまで逃げても少しも治まりやしなかった。

 そして今だって、こんな袋小路に追いやられている。


 もしかしたら、もしかしたら気のせいかも知れないと再び彼は走り出す──が、数分と走らずすぐにその足は止まった。


 まただ。

 また自分は、この木の前に戻って来てしまう。

 封来の目の前に立っている木には、彼の顔の高さにわかりやすい傷がつけられていた。

 先程違和感を覚えた彼が、目印につけたもの。


 つまり彼は、小さな山の一角に閉じ込められてしまっていた。

 迷いの森の如く、どちらへ走ろうとここに戻される。


「クソ! どこへ行けばいい……! どうすれば抜けられるんだ、この山から!」


 刻一刻とあの化物が迫る中で、どこにも行くことができないこの状況は、彼の精神をヤスリで削るように摩耗させた。


 封来とて歴戦の殺し屋だ。

 これまでも仕事の中で危ない場面は何度だってあったし、死にそうになった回数も両の指では収まりきらぬ。

 けれど、こんな目にはあった事が無い。

 安っぽいホラー映画でもなければあり得ないような不条理な展開が、現実で起こるとここまで人を恐怖させるなんて彼は知らなかった。

 知らないままでいたかった。


 先程から、耳鳴りは大きくなる一方だ。

 もう、きっと、すぐそこまで。



 ……いや、落ち着け。

 彼は過呼吸気味になっていた息を、腹を抑えて無理矢理整える。

 恐怖が思考を蝕み、鱗の術式までをも増幅してしまっているのを自覚したのだ。

 敵に利する事をして、生き残る可能性を下げるほど愚かな事は無い。


 こんな霊障は初めてだが、結局これは結界の一種。

 であれば結界内の対象が多くなればなる程、基本的にその維持は難しくなるはず。

 そして内部の生物を外に出さぬ結界に、外部からの侵入を防ぐ機能があるとは考えづらい。

 手持ちの道具の中ならば──。


 冷静に現状を分析した封来は、それを打破する方法の模索を開始する。

 そうして彼が取り出すは、白い素材でできた小さな笛。

 それが何からできているかは知らぬ方が幸せな話である。


 とはいえ、その効果はたいしたものではない。

 周囲の雑霊を音色へと引き寄せる、それだけのものだ。

 霊祓師相手にはちょっとした攪乱にしかならず、一般人でも体調不良にしかならない程度だが、封来は逃走時によく使っていた。


 この笛を使って霊を呼び寄せ結界内に充満させれば、いつかは結界が壊れるはず。

 あの化物の張った結界であろうと、限界はきっと来るに違いない。


 願うようにそう考えて、封来は吸い込んだ息を笛へ吹き込もうとする。

 が、それが叶うことは無かった。


「は……が……?」


 口から生えた何本ものムカデに気道を塞がれた彼は、間の抜けた声を漏らす。

 小さな何本もの脚で喉の壁を掻きながら蠢いている感覚が、あまりにもハッキリと知覚できた。


「う゛っ、おげええええぇぇぇ」


 喉元を抉られる不快感から思わず地面に手をつき笠を放り投げて、嘔吐反射にげぇげぇと胃の中身を吐き出せば。

 吐瀉物に紛れ十を超えるムカデやゴキブリが、彼の身体の内から這い出てくる。


 少なくない霊気を纏った人間の体内に直接作用し、無数にも思える生命を閉所に発生させ、それを一回きりでなく持続させる。

 こんな強力な呪いを、会ったばかりの縁も繋がらぬ相手に、十分に満たぬ短時間で、霊気増幅の為の儀式も無しに……?


 無理だ、誰にだって無理だ。そんな事はあり得てはならないからだ。

 なら、そんなものが居るのなら、誰がこの世界で安心して暮らせるというのか。


 自分は一体、何の相手をさせられているのか。



「っが、ぐっ、おおぉぉぉっ……!」


 胃の腑を空にしてもなお、喉の奥から這い出る何匹もの蟲を噛み千切り、封来は嗚咽と絶叫の混ざった叫びをあげて駆け出す。

 どこにも行けぬとわかっていても、この場に留まり続ける事そのものが濃密な死を彼に予感させた。


 自分はネズミだ。

 あの小男という猫の目前に落とされた、哀れなネズミ。

 アイツは仕事と言いながらも、標的をいたぶりもてあそんで愉しんでいる。

 であれば、このままここに居れば、更なる呪いが飛んでくるのは想像に難くない。


 口腔内を満たす害虫の潰れた咀嚼物を吐きながら、手元にあった道具を見境なしに全て使用する。

 雨をものともせず吹き上がった煙幕が封来の姿を隠し、札は燃え上がって木々を焼き、短刀からは甲高い高周波が響いた。


 どれもこれも、けして今この窮地を脱せるカードではない。

 が、少しでも呪いの鉾先を逸らせるなら、この命を永らえせられるなら、彼はもう何でもよかった。

 事ここに至って、彼は完全にパニックに陥っていた。

 これまで殺してきた相手が、きっとそうであったように。


 どうする、どうする、どうする、どうすればいい!!

 

 這ってでも離れなければ。少しでも遠くへ。逃げなければ。逃げなければ。

 まるで内側から金槌でなぐられているかのように痛む彼の脳内で、大音量のアラートが鳴り響ていた。

 今回の相手は、これまで関わってきた怪異とはそもそもモノが違いすぎる。


 天敵と同じ空間に入れられ恐怖に呑まれたネズミは、ガラスのケースの中を駆け回る。

 その恐れを吸い取って、猫が大きくなる事すら忘れて。



 そうして三度傷のある木の前へと舞い戻った彼の視界に、脚を引きずってこちらへにじり寄る紅いヒトガタが映り込んだ時。

 彼の恐怖は頂点に達した。



「あ゛あ゛あ゛あ゛!!かしこみかしこみ申す!!!」


 封来は素早く印を組むと、張り上げる大音声で祝詞を詠う。


 本来は清く神聖なる儀式だったハズの詞を。

 今や、神の猿真似ゴンロサマが餌を手繰り寄せる邪悪な触腕と化した詞を。




 人の踏み入れぬ深山幽谷の最奥から、邪悪な猿叫が響き渡った。

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