第9話 新たな依頼

「結論としましては、宮坂葵は血脈ともなんら関係が無い単なる一般人のようです」

「ふむ、報告は以上かね」

「はい。彼女は如何がいたしますか」


 仕立ての良いスーツを着込んだ男は保井の用意した資料をパラパラと捲り、眼鏡の奥の冷ややかな瞳で見つめてくる。

 保井はこの上司があまり得意ではなかった。

 市井の人間を数として数え、常に自分以外の人間の使い途を考えている。

 それはきっと上に立つ者に求められる視点だが、他者から好意を持たれやすい気質ではない。

 そもそもこんな場所で人の上に立つ人間など、心の大事な部分をどこかに落としてきている者が多いのだ。


「どうもせんよ。この依頼を彼がこなしてくれればな」


 そう呟くと手元の封筒を保井へ放って寄越し、革張りの椅子に深くもたれて目頭を揉んだ。


 つい先日起きた事件による機動隊の壊滅の後始末に、上司はここ何日も寝ずに働いていた。

 そんな彼の手を、「人見君の家に女が転がり込みました」なんて報告で煩わせたくはなかったが、こんな程度でも案件が案件なのだ。

 人見鱗に関する内容であれば、特務部署はどれだけ馬鹿げて思えても逐一正確な報告が義務付けられている。

 それこそ些細な生活リズムの変化から、風邪を引いたなんて日々の暮らしの体調不良まで、鱗は自分で知らないうちにすべてを監視され管理されていた。

 

「仕事に関わらないプライベートは放っておきたまえ。なにも我々は彼の人生を奪いたいワケではない。ただ指示した時に指示した相手を討ってくれれば、それだけでいいのだから。……だからこそ、もし彼がその女性の影響で動かなくなってしまうなら、その時は穏当に別れて頂くことにしよう」


 他人の関係を自分たちが決定づけられると、彼はきっぱり言い放つ。

 それだけの社会的な力が彼らにはあった。

 力無い人々を守るための組織でありながら、時にそれを踏み潰す。

 そこに矛盾を感じていては、この機構の中で上に登っていく事はできない。


 これは単なる優先順位に則った取捨選択だ。

 たった一人の惚れた腫れたより、何人もの生命を重く扱うのは当然の話である。

 人権だの、一人一人を軽んじないだの……綺麗事だけを言って世の中がお花畑で埋まるなら、それこそ霊祓寮その物が生まれることも無かっただろう。

 だからこそ、彼らは線引きを決めて行動するのだ。

 私利私欲を超えた先で、より多数の生命を最も重いものとして、他の何よりも丁重かつ最優先で取り扱う。


 そのためならば、誰かが不幸になっても仕方ない。

 死んだ人間は不幸も感じられないし、家族を亡くした人間はその誰かより不幸なのだから。

 それは仕方のないことなのだ。



 封筒を開け中を確認した保井は、そこに書かれた名前を見て眉を顰める。


「封来、ですか」


 保井も知っている手練れだ。

 コイツは邪法衆というよりも暗殺者と言った方が正しいような、自身の利の為に依頼されて人を呪殺する職業犯罪者である。

 とはいえ、この程度ならば保井としても心配するほどではなかった。

 人間なのでもちろんこんな尺度は適切ではないが、霊障度で言えば参くらいのものだ。

 ススキの原の怪異の方が、よっぽど恐ろしい。


「あぁ、奴さんついにボロを出した。とある土着信仰の対象を呪殺に利用しようとしたが、ソレは我々が監視下に置いていた怪異でな。コソコソ逃げ回っていたバカの霊気を遂に捕捉したワケだ」

「なんでまたそんな奴の相手を人見君に?」

「お前も知っているだろうが、業腹な事に封来には今までも幾度かすんでのところで逃げられてきた。アイツは霊気感知能力と危機察知の勘が良すぎる。だからこそ霊気が無く、害意を持たなければ危機ですらない彼に任せたい」

「なるほど……この『場合によっては遭遇した怪異の殲滅も依頼に含む』というのは、まさか同時にやれって事ですか?」

「無理にとは言わんよ。遭遇した場合、さ」

「……わかりました」


 この感じだと、確実に遭遇する事を前提として作戦は組まれているのだろう。

 鱗へ依頼を持っていく前に、その土着信仰されている怪異についても詳しく調べておかなければならない。

 無論、彼とて霊祓庁のこんな部署に勤めているのだから、人間に害を及ぼす怪異であれば日本全国どこのものでもおよそ概要は知っている。

 だが鱗の命にかかわる可能性がある以上、知っているからなんて言って手を抜くことは一切無い。

 そういった細部を詰めて、考えうる可能性を全て洗い出し鱗へ説明するのも彼の仕事なのだから。


 ……まぁその詳しい説明を、鱗が理解できているかは別として、である。

 そんな事は保井がやらなくていい理由にはなりはしない。




「いや実際ね、今後の方向性が決定するまで、無理な事を言うつもりは無いんだ」

「方向性?」

「件の機動隊を壊滅させた邪法衆は……古賀令明だと判明した。いつか機が来れば、アレに彼を当てる案が出された」

「令明……!?」


 その名を聞いた保井は大きな衝撃を受けた。

 確かに今までも鱗は危険な相手と対峙してきたし、今だって手の中に封来という危険人物の相手をする依頼が握られてはいる。

 けれど、令明ばかりは話が違う。

 彼はもはや、保井たちのような通常の人間とは次元を異にした……怪物である。

 封来という暗殺者が可愛く見えるような、そんな化物。



 そもそも今回の事件は、廃ビルに憑いた単なる悪霊の浄滅に向かった対霊特殊機動隊の一部隊が、作戦開始と同時に連絡途絶した事に端を発する。

 応援に駆けつけた別の隊がそのビルで見つけたのは、人間でジグソーパズルでもしていたのかと思うような、凄惨な"人形"遊びの跡だけ。

 そして同時刻、隊員たちの中でもっとも血脈と縁深かった嶺染翔馬隊員の二親等が、尽く呪殺の憂き目にあったという霊害事件。


 現場にわざと残されたであろう霊紋の解析結果から判明した容疑者こそが……件の古賀令明であった。


 血脈外の出ながら、類稀な霊気量と資質を持つ邪法衆。

 その手口にわかりやすいパターンなどなく、手を変え品を変え人を殺し呪っている。

 たった一つの共通点は「悪辣なまでの残忍性」のみ。

 社会そのものを揺るがすような事件の陰で常に蠢動したと推測されているが、未だ彼が何を目的に動いているかもようとして知れない稀代の愉快犯。


 恐らくは、ソイツがこの件には関わっている。

 それもかなり深く色濃く。


「それは……あまりにも、大物過ぎませんか。確かに人見君の実力の底は未だ知れませんが、限度という物があります。そもそも彼はその特性上、複数人での任務には向きませ……まさか単身で令明と当たれ、と言うつもりですか?」

「上層部でも人見君を推す声は大きい。彼ならばあるいは、とね。……これは言いにくい話だが、対霊特殊機動隊が一部隊に、その親族がいくらか呪殺されたのがデカかった。あのレベルの呪いを行使する相手には、やはりどんな隊員も腰が引けてしまう。その点、彼ならば万が一呪殺されようと一般家庭が数人で治まるという打算が見えた」

「……その言い様はいくらなんでも、看過できません」


 そのあんまりな言い様に我慢できず口を開いた保井を、スーツの男は手をかざし抑える。 


「無論、万が一の話だ。彼であれば、奴をも打倒しうると考えた上での、仮定の話だとも」


 上層部とて、流石に成人したばかりの子供を捨て駒前提の使い方などしたくはないし、させる気もない。

 これもまた、優先順位の話だ。

 たとえそれが非道であっても、被害が少なく勝算が高い手段を選ばなければならない。

 それに報いるだけの報酬は用意するつもりだ。


 けれど、これもまた多寡の話として、鱗一人に支払われる報酬と、機動隊隊員とその血脈の血筋の価値であれば……後者の方が圧倒的に高いのは言うまでもない。

 現代社会に生きている以上、どこまでいっても人間は数字から逃れられない。

 その人の血も肉も心も魂も、書面の上では1という数字に内包されてしまうから。

 数字の大きい方を優先して守り、減算される数を減らし自身の消耗を軽減せねばならない。


 そしてその点において鱗は、極めて優秀であった。


 コスパの良さとは、資本主義社会の組織においてある種麻薬のようなものだ。

 いつしかそれなしでは身動きが取れなくなる、遅行性の猛毒。

 先を読める人間ですら抗えない、その場しのぎの魔法。



「彼に、頼り過ぎるのは……危険ではありませんか?」


 だからこそ、保井は進言する。

 鱗もこの組織も、どちらもを守る為に。

 今彼の身を守る事は、ひいてはいつか訪れる霊祓庁そのものの破綻を回避する事に繋がっている。

 保井にはそのように思えてならなかった。


「そうだな……認めよう、我々は彼に依存している。しかしね、組織という物はそもそもそこに所属する人間の能力を前提として機能するものだろう。換えの効かぬ重要な人材である彼には、丁寧に敬意を持って接している。それに関してはそこらの会社となにも変わらんよ。……まぁとはいえ、たった一人の人間の能力をアテにし続けていれば、危険なのは間違いない」

「であれば……」

「で?だったらどうする。彼を放り出して再び協会におんぶにだっこか?ならこれからまた貴重な戦力をすり減らしながら、経済が傾く程資金を注ぎ込んでジリ貧の戦いを続ける事になる。差額はお前のポケットマネーからとは言わんが、財務省から引っ張ってきてくれればそれでいい」


 続く彼のその言葉に、保井は目を伏せ眉間に深い皺を寄せる。


 やはり上司だって保井の気付くようなことにはとっくに気付いていて。

 そして、分かっていてももう止めようがないのだと理解したから。


 続く不景気は、社会から何もかもの余裕を取り払ってしまった。

 マスターキーを手に入れてしまったら、わざわざ鍵束に予備なんか用意しない。

 それは不用心だからではなく、そんな予算が降りないから。


 誰にもどうしようもない力場が、この社会を下方へと押しやっている。


「……今のところ危なくなくて、かかる費用は本来の一割に満たず、そしてよしんば下手を打って彼に敵と見做されたら……我々には抗う術があるかもわからない。だからこそ良き関係を築いて、十分な報酬と引き換えに難事の解決を願うのだ。人がずっと、神にそうやってきたように。……神を荒ぶるものとするか、それとも良き守り神とするかは、古来より我々崇め奉る矮小な人間次第だ」


 これからも彼らは、いつか訪れるだろうしっぺ返しを畏れながら、まるで神に祈るように鱗を頼っていくしかない。

 その事実が、保井の心に暗い影を落とした。

 自身で世界を救う力の無い只人の彼にとって、それは手の出しようのない領域。

 たった一つの歯車がどんなに願ったところで、永久機関の代わりになれはしない。


 けれど、それでも、足掻き続けねばならないのだ。

 保井の神にとって、少しでも良い状況を作り上げる為に。


「もしも、もしも令明に人見君を当てるとして……倒してしまえば、それはそれで問題となります。彼の者を誅殺した人見君を見逃す程、協会の眼は節穴ではないでしょう」

「だろうな。もはや隠し通すことはできなくなる。彼という存在が善悪どちらもの霊祓師業界全体に知れ渡ることとなるのは避けられん」

「でしたら!」

「だが、そもそも協会もとっくに感付いて手を伸ばし始めている。今までは完璧な秘匿路線が取られていたが、どうしても協会のような規模の組織から一人の人間を隠し通すのは無理があるんだ。ここ最近の彼の働きとその力は、我々がヴェールに包んで匿える域をとうに超えてしまったんだよ。直近のススキの原での霊気爆発は決定的だった。近隣の都市に住む血脈の一派が感知して、今もなおずいぶんと騒がれてるそうだ。この世の終わりのような霊気の放出を見て現場に向かえば、そこにいたはずの霊障度:陸の怪異が残滓も残らず消えていた……そりゃまぁ、調査するなという方が無理がある」

「だから、完全に露見する前に見せてしまうと?いささか性急ですし、極端過ぎませんか」


 焦りを押し隠し反論する保井の顔を数秒間眺めた後、スーツの男は軽くため息をついた。

 入れ込み過ぎるななんて言葉で、人が簡単に己の意識を改めたりはしない。

 それに警護対象のひととなりを思えば、多少自分に入れこんでいるくらいの人間の方が信用されるだろう事を思えば、わざわざ保井の想いに水を差す事もないと彼は判断する。

 情でも人間関係でも約束でも、人見鱗の鎖となるならばなんでもいい。


 もっともマズいのは、彼が協会に奪われる事なのだから。


「疑り深い人間はな、相手が隠そうとした物はすべて暴きたてねば……なんなら自分が考えた最悪のケースを隠匿物の中から見つけ出さねば、気がすまないものなのさ。

「自分たちを上回るような霊気量をしているアレは本当に人なのか。もしかして怪異そのものなのでは。人だとしても何か実験の産物の可能性もある。……ある程度の情報を開示しなければ、彼らは空回ったエンジンをもって暴走を続けるだろう。下手をすれば生物兵器か何かかと深読みして、我々が危惧しているような直接的な襲撃にすら発展しかねん。

「けれど、霊祓庁側に能力ある人間が居て、そいつはたいそう強く手強い怪異や邪法衆を尽く打ち倒している……くらいなら、まぁ納得の範疇に収まる。ちょっと調べれば本当だとわかるし、生まれも育ちもおかしな部分がないのは我々が調査済みだ。軽い喧嘩を売られたり、目の敵にされる事はあっても、武力行使には出ないだろう。彼らとて人殺しを躊躇せぬ暗殺集団ではない。

「……協会と霊祓庁、その二つの始まりは力の一極集中を嫌った政治力学的な物だった。

「にも関わらず、今のザマはどうだ?結局能力を持った協会に、我々は小間使いとして顎で使われている。このまま彼らの専横を許せば、過去に懸念した通りの世界となるだろう。双頭の蛇なら、身体の支配権は半々でなければいけない。

「我々には彼が必要だ。協会の持つ強大な力に対抗しうる、圧倒的な個。その手綱を握るのは私達でなければならないんだ」


 上司が思いの丈を語れば語る程に、保井の中で何かが冷めていく。

 だからと言って、嫌になったそれらを放り出してどこかへ行くわけにはいかなかった。

 保井にだって、自分の力で世の人々を守りたいという熱意に満ちていた時期があり。


 そして、今。

 その自分の願いを叶えてくれる……生活能力が無く不器用で他の生き方なんてできそうにない、蛇によく似た神様が居る。


 それらに対して無責任になる事を、彼は選べない。



「さっき言った通り、むしろこれは彼を守る為でもあるんだ。このままでは協会がありもしないきな臭さまで嗅ぎつけかねない。契道の娘を部署に入れたのも、ガス抜きの意味も兼ねている。ある程度分かりやすく見えていないと、人は藪の中に鬼を幻視してしまう。だからこそ、この危難に彼を使う。協会が手を焼いた邪法衆を単騎で倒す虎の子が霊祓庁にはあるのだと、あちらさんに知らしめるお披露目式だよ」

「……結局彼の危険は増します。それこそ、これまで隠してきたのが無駄になるかもしれません」

「かも知れんね。しかし、その為に囲ってきたんだ。使いどころで抜かなければ、伝家の宝刀も竹光と変わらん。彼をまがいものにするか、妖刀にするかは、使う側の手腕にかかっている」


 使われる側から、使う側になったとて。

 自分たちは何一つ変わってないじゃないですか。


 喉まで出かかった言葉をなんとか飲み下して、保井は手元の資料へと目を落とす。

 そこに映っているのは、間の抜けた面で散歩している痩せっぽちの青年だ。

 きっと、自分たちが護りたかった……平和に暮らしたい国民の、その一人。


 それを使って、対立組織を牽制して、それで?

 自分たちは一体、何になれると言うのだろうか。







「すみません人見さん、お時間よろしいですか」

「ん、あぁ。えーっと……依頼、ですか?」


 時刻は夕方。

 橙に染まる世界の中、駅へ向かう人々の長く伸びた影が地に落ちている。


 講義が終わり葵の下宿先へ食材を取りに寄った帰宅中、ふいに声をかけられた鱗は声の主を見てその内容を理解した。

 そのパンツルックの女性は初めて見る相手だったが、鱗の事を人見君と呼ぶスーツの人間なんて、仲介者以外存在しないからだ。


「えぇ、人見君にどうしてもと」


 鱗はうげぇという顔をして、彼女の手の中の封筒をうんざりと見つめる。

 なんといっても彼は昨日、よくわかんない廃屋の名前も知らない悪霊を滅するタダ働きをしたばかりだ。

 二日連続で労働そんなモノと関わる話をしたくなかった。


「ほ、本当に僕がやんなきゃなんですかぁ……? ホラ、もっとやる気のある人とか、有望な方にやってもらった方が、安心なんじゃ……」


 彼は伏し目がちに両人差し指を指を合わせ手遊びしながら、気まずそうにボソボソとそう呟く。


 が、そんな迂遠な非労働宣言が通る程、社会は甘くできていない。

 そもそも彼が仲介者と思っている相手は霊祓庁の公務員であって、市民を守るために働いている人間が簡単に引くはずもないのだが。


「すみませんが、あなたにどうしてもと言われています。ご承知ください」

「う、うぅ……」


 頑として引かない姿勢を見せられると、気弱な鱗は強く断ることができない。

 この悪癖のせいで彼はウォーターサーバーを契約させられており、なおかつ物を調べる能力にも欠けるので解約の仕方も分からないままだ。

 実際羽島たちはそういったところを問題視していて、ウォーターサーバーについても解約方法を説明してやりたく思ってはいるのだが、鱗から言いだしてくれないと口を出せない。

 が、常識が少しないとは言え鱗も流石に仕事の取引相手に「契約しちゃったウォーターサーバーの解約法を教えてくれ」とは言えなかった。そこまで突き抜けて常識が無ければ、むしろそっちの方が生きやすかっただろうに難儀な話である。

 葵が同棲を始めたのは、またとない解約のチャンスなのだが……鱗が最近なんだかんだで「案外カップラ作るのに便利なんだよな……」と、ウォーターサーバーの事をまんざらでもなく思い始めている為、当分彼の部屋からあのデカブツが取り除かれる事はなさそうだ。



 話は戻るが、結局鱗はその毅然とした態度に押し切られ、封筒を受け取った。

 どうせ目先の臨時収入に釣られて最終的には受けるのだから、素直に初めから頷いた方が無駄な時間を使わないで済むのだが……。

 積極的に働こうと思う程、彼は真人間ではない。


「まぁ、そっか……もう二ヶ月くらい経ちますもんね。お金、あった方がいいよなぁ……わかりました。じゃあいつも通り、車で聞いたらいいですか?」

「お願い致します。お連れの方はこちらで少しお待ちください」


 言われるまでもなくもちろん、葵はついていく気はなかった。

 彼女は居候をさせてもらっているだけで、別に鱗の仕事内容を知る関係でもなければ、その秘密を明かしてもらえるほど信頼されてもいない。

 子供では無いのだから、そのくらい彼女とて弁えている。


 今の二人の関係は、葵が一方的に鱗にもたれかかっている状態でしかないのだ。

 鱗が居なければ今の彼女は生きていく事も難しいし……そうでなくても、そばにいてこの人の事をもっと知りたいと、そう思い始めてしまっている。

 けれど鱗は葵が明日部屋から居なくなっても、べつに困らなければ寂しくもないだろう。

 それが少しだけ、彼女にはもどかしくもあった。


「え、一緒じゃダメなんですかぁ?」

「そりゃダメでしょう」「もちろんダメです」


 そしてもちろん鱗はそんな情緒的な彼女の思いなど知る由もなく、ついでに常識も知らなかった。

 『自分なら外で立って待つより車で座って待ちたい』→『それに宮坂さんなら話しても気楽だから、できれば他の人との会話にも立ち会ってほしい』→『だから宮坂さんを車に入れてもらおう』なんて思考からこういう事を言ってしまうので、本当に彼は社会に出るのに向いていないのだ。

 守秘義務を鱗が未だに護れているのは、ひとえに漏らす相手が居ないからという要素が大きい。

 SNSをもし彼が始めた場合は、投稿の前に逐一特務部署のチェックを介するのが現実的だろう。


「あの、もう、どうぞ、引っ張ってってもらって」

「あ、はい。すみません。ほら行きますよ人見君! 待たせないようにすぐ済ませればいいから!」

「え、あ、でも、あーーーー……」


 共通のバカを挟んだ事で、同族意識が生まれ親近感を覚えてしまった女性二人は、なんとか目の前のアホを上手くさばいて話を進めようと、ジェスチャーを交えつつ即座に協力態勢に入る。

 同じ対象に同じ印象を抱く事は、いつだって人間関係を改善する最高の方法なのであった。

 そういう意味では鱗は他者を繋げるのにもっともむいた人材と言える。

 いわゆる一つの潤滑油だ。就職面接の際に自分を何かに喩える例の質問が来たら、そう答えるのがベストだろう。

 あまりにもベタで減点対象になりそうなものだが、そうでなければゴミ箱の中のゴミくらいしか喩え先が無いのだからしょうがない。



 袖を捕まれ車へと引っ張りこまれていきながらもこちらを見る鱗の姿に、苦笑しつつ軽く手を振りながら。


 なんとなく……あんまり心配しなくてもいいのかもな、と葵は思うのだった。




 背を押され乗せられたバンの中には、鱗もよく知った顔があった。


「や、人見君。一昨日ぶりだね」

「あ、羽島さん! ホントすいませんでした」

「もうその話はいいって、気にしないで。……でもまぁ、もし対価を払いたいって言うなら、この依頼を受けて貰いたいかな」

「そっか、なるほど……そういうものなんですねぇ。わかりました、やります……!」

「いやいやいやいや、ちょっと待って待って待って。話を聞いてから決めよ、な?」


 さっきまで嫌がっていたというのに、良くしてもらっている羽島から「昨日の深夜労働の対価として」と言われれば、内容すら聞かずに承諾してしまう。


 人格が二つあるのかと疑ってしまうような相反した態度だが、鱗の中ではけして矛盾した行動ではない。

 さっき話を受けたお姉さんは仲介者とはいえ知らない人だし、単に仕事の話を受けるかどうかと言われればやはり面倒くさい。

 けれどいつもお世話してくれている羽島さんから言われた依頼は受けて喜んで欲しいし、なによりあんな場所へ深夜に迎えに来てくれた事は鱗にとってとても嬉しかった。

 だから、その事の対価を払えるなら、自分にできることなら進んでやろうと思えただけの話なのだ。

 なにより、彼は優柔不断なクセに一度決めると考え無しで変に思いきりが良い。


 お人好しというよりは、信用した相手の言う事は手放しで受け入れてしまう考えなし。

 その上あまりにも対人経験が無いから、普通に接するだけですぐその相手を信用してしまう。

 そしてその後手ひどく裏切られれば、きっと彼は身も世もなく泣くのだろう。

 そこまで簡単に想像できるほど、鱗という人間は単純だった。


 単純で扱いやすく今後の動きが予想しやすい。


 これほど警護が簡単でなおかつ難しい相手もないだろう。

 なんてったって、あれだけ言い含めたというのに、彼ときたら。


「人見君……そもそもこの前ちゃんと気をつけようって言ったよね?」

「はい? ……あっ、え、な、なんか……やり、ましたっ、け……」

「知らない人についていかない事。この人がちゃんとウチの仲間だったから良かったけど、もしかすれば良からぬ事を企む相手かも知れないんだから」

「あ、あー……あー……はい……」


 スーツ着てて名字を君付けで呼ぶだけで、ほいほい言われるがままについてきてしまう小学生のような青年に、彼は頭を抱えながら再度注意を促す。

 彼がこんな危機意識のままこの年まで五体満足生きてこれた事が、いかに日本が平和な国かの象徴とも言えた。


「まぁ、今回は実際そうだったから良いさ。けど、気をつけるようにはして欲しい。君は俺たちにとって大事な取引相手だからね」

「はい……すいません……」


 すっかり自己嫌悪でショボくれてしまった彼の背をパンパンと叩きながら、落ち込みすぎないようフォローも忘れない。

 すっかり羽島もクソめんどくさい鱗の扱いに慣れてきていた。

 この仕事以外で一切活かせないスキルばかりが自分の中で上昇していくことに、彼は心の中で苦笑する。


「彼女はウチの新入りでね。今回みたいに君と接する時も増えるだろうから、よろしくやってくれ」

「初めまして、契道亜沙喜と申します。よろしくお願いします」

「あ、はい、人見鱗です」


 亜沙喜は折り目正しくキチンと、鱗はおずおずと浅く頭を下げる。

 わかりやすく社会人とバイトすら未経験の社不らしい対比だ。


「さて、話を本筋へ戻そう。今回君へ依頼したいのは……」





「う、うげぇ……! し、深夜2時……! さ、最悪……次の日平日だし、絶対また遅刻する……」


 話を聞いた鱗は涙目でそう呟くと、見る者の哀れを誘うような顔で数分間落ち込むのであった。

 そんな彼の様子を見て、羽島は申し訳なさそうに手を合わせ頼み込む。


「ごめんね……大学にはなんとか、なんとか融通を利かせてもらうから、ね?」


 果たして彼が無事に四年で卒業できるかどうかは、今のところ神のみぞ知る話である。

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