第2話 希望の種
1
「――迷惑かけてごめんなさい」
という私の言葉を聞くと、彼はすぐには返事をしてくれなかった。私は俯いたまま、早く何か言ってほしくて、前で組んだ両手をもぞもぞと動かす。
「……迷惑だなんて、どうしてそう思うの?」
彼の静かな声に、私は顔を上げた。男の子は笑顔を引っ込めて、私をまっすぐ見つめている。私は視線を逸らして少し横を向き、
「だって……時間取らせてしまって。恥ずかしい、だろうし……」
と細い声で言った。私と彼の影か長く伸び、辺りが暗くなってきていた。
「いや、もうあと家に帰るだけだし。それに、恥ずかしいなんて全然思わないよ。だって、僕が勝手にやったことだから」
その言葉にすごく驚いた。何でそんなに他人に優しく出来るの……? 訊いてみたかった。彼ともっと話をしたかった。でも言いたい言葉は言葉にならず、泡のように消えていく。代わりに出てきた言葉は、「分からない……」という、あまりに言葉足らずな台詞だった。
でも、彼は首を傾げなかった。デニムパンツのポケットに両手を突っ込み、「うーん……」と呟いて何かを考えているようだった。
「多分、僕ってすごく暇人なんだよね」
「……え?」
「家にあんまり帰りたくないし、君に声かければちょっと時間潰せるかなって。……家にいても、落ち着かないんだよね。――それに、僕も、色々大変なときがあって、見て見ぬふり出来なくて。あ、君って呼び続けるのもよくないか。名前、何て言うの?」
彼の言っていることが、本当の気持ちなのか、それとも私への気遣いなのか分からなかった。でも、とりあえず、名前を教えようと思った。
「藤原美羽、です」
そう言うと男の子はにこりと笑った。
「藤原さん、でいいのかな。俺は柏木悠真。その制服、東山第一でしょ? すごいね、めっちゃ進学校じゃん」
柏木くんは私の制服を一瞥した。赤いスカーフに青い襟のセーラー服は、東山第一高校の子ってすぐ分かるから誇らしい、と多くの生徒たちは思っているらしかった。でも私は、だから、嫌だった。
「全然すごくないよ……」
そう言うのが精一杯だった。こんな進学校の制服を着ているのが後ろめたい。私には、相応しくない。
「僕も学校帰りなんだけどさ。ほら、ここから二駅の吉野駅の近くにある高校なんだけど。でも、私服でしょ? 何でだと思う?」
そう訊かれ、私は柏木くんの服に目をやった。白地に英字のロゴが書かれたTシャツに、黒のデニムパンツ。焦げ茶の大きなリュックを背負っている。何でだろう、そう言われれば。
「……服装自由の高校?」
それしか思いつかなかった。でも、吉野駅の近くの高校で服装自由のところなんてなかった気がする。
柏木くんは、にこにこして言った。
「通信制高校に通ってるんだ。全日制、中退したから。通信の高校で、僕は大分自分のペースで生きられるようになったんだよね」
中退、という自分の生きてきた世界では聞くことがほとんどなかった単語を、柏木くんは楽しそうに口にした。
色々なことをもっと知りたくて学びを深めてきたけれど、世界って、まだまだ分からないことだらけだ。
2
話したいこと、訊きたいことは色々あったけれど、そろそろ帰らないとお母さんに不審がられてしまうと思った。「私、帰らないと……」と呟きながら、気付いて、と願う。私があなたともっと話したいってこと、連絡先とか交換したいってことが、伝わってほしい。
「あ、ごめん。雑談しすぎちゃったね」
柏木くんは頭を掻き、バツの悪そうな顔をした。違うの、君が謝る必要なんてないんだよ。言えない言葉がどんどん心に積み重なっていく。
「柏木、くん。……助けてくれて、ありがとう。ごめんね、ホント、ごめん……」
謝罪の言葉を重ねるしか出来ない自分が情けなくて、また俯いた。前はもう少し自己主張が出来る人間だったのに、随分とちっちゃな人間に成り下がってしまった。不良品で、壊れ物で、『アレ』が持病だなんて、本当にみっともない。
精神科の先生に言われた言葉が脳裏に蘇る。
『パニック障害ですね。適応障害も併発していると思われます。進学して環境が変わったことが負担になったんでしょう。今はゆっくりしてください』
今までにその病名を見聞きしたことはあったけれど、自分には無縁だと思っていた。自分で言うのも何だけど、メンタルは強い方だった。中学時代の女子同士の小さないさかいは上手いこと言ってその場を切り抜けてきたし、受験勉強は大きく躓くことなく続け、第一志望校の合格を勝ち取った。
なのに、高校生活は出だしから上手くいかないことだらけだった。勉強のこと、友達関係のこと、先生とのこと……今まで運のよさと自分の努力で優等生でやってこれたのに、運の悪さと努力の限界が同時に訪れてしまい、あとはどんどん崩れていくだけだった。
そして、発症。
だから私はもう以前のようには振る舞えない。目の前の優しい男の子にも、自らシャットアウトしてしまうのだ。私は誰とも付き合えないかもしれないな、と思った。
「――何でそんなに辛そうなの」
柏木くんが、真顔で顔を覗き込んできた。眼鏡の奥の静かな瞳に、心が揺れる。この目を見つめては駄目だ、と思った。私はきっと話してしまう。自分の心の痛みを。誰かに分かってほしくて堪らない、胸の内を。
私は背中を向け、停車している電車に駆け込んだ。身体を滑り込ませるのと同時に、ドアが背後で閉まる。私は窓の外を見られなかった。彼がいる方向に背を向けたまま、目をぎゅっとつぶって背中を丸めた。
電車が走り出す。ごめんなさい、と何度も何度も心の中で呟いた。もうホームから電車が完全に見えなくなったであろうときに、目をゆっくり開ける。
滲んだ涙で車内が滲み、私はまた消えたくなった。
3
家に帰ってきてテレビをつけても、鬱々とした気持ちはまるで晴れなかった。助けてくれたのに、酷いことをしてしまった。恩を仇で返すって、こういうことを言うのだろう。リビングのソファに身体を小さく縮こまらせて座り、ため息を一つつく。こういうときに部屋に一人引きこもっていると、ネガティブな考えが堂々巡りして収集がつかなくなるので、お母さんがすぐ側にいるリビングが心地よかった。キッチンから食欲をそそる匂いがする。今日は、親子丼らしい。
「美羽、最近どうなの?」
キッチンからお母さんが声をかけてきた。
「……学校のこと?」
「学校もそうだけど、パニック発作は? まだなるの?」
私は言葉に詰まる。まだなるどころか、頻度が増え、前より派手になってきている。でもそんなの言えるわけかなかった。
「ううん。最近は大丈夫だよ」
明るい声を出そうとしたのに、喉の奥から出たのは細々とした掠れた声だった。キッチンから聞こえていた包丁のリズミカルな音が、突如やんだ。
「本当? この前中村先生がカウンセリングも勧めてきたじゃない。そこまでじゃないよね? だって学校に友達もいるもんね。進学校だから学校の雰囲気も悪くないでしょ? ……お母さんも、どうしたらいいいか分からなくて。このまま良くなっていったらいいんだけどね」
心配そうでありつつも、自分を安心させたいのが見え見えなお母さんの声。私は目を伏せて部屋着の袖をぎゅっと握った。良くなるとは正反対に病状は進んでいっている。お母さんはそんなことにも気付いてくれないんだ、と思うと、息が詰まる感覚に襲われる。
主治医の中村先生は、カウンセリングで行う認知行動療法が治療によく効くと言って勧めてきた。私とお母さんは曖昧に微笑んでその場は答えを濁した。分かっている、お母さんはカウンセリングは反対派だ。でも私は、それで少しでも良くなるなら受けたい気持ちがあった。
それすらも言えずに、私は嘘をつく。
「大丈夫だよ〜。カウンセリング受けるほどじゃないよ、絶対。友達だっているよ。紗奈とよく喋ってる」
そう言うとお母さんは「……なら、いいんだけど。別に成績とかどうでもいいから、うまいことやってけば、適応障害の方も良くなっていくと思うから、大丈夫よ」と話を完結させた。再び包丁の音が響き渡る。私はお母さんには聞こえないようにため息をついた。
紗奈は、高校で唯一の友達だった。でも、紗奈は目の前で発作を起こした私に「え、大丈夫? 過呼吸?」と声をかけつつも、「私、どうすればいいか分からないよ。ね、ちょっと落ち着こうよ。人来ちゃうから……」と困惑した様子で言ったんだ。
だから、私は紗奈から離れていかなければいけないと思った。
ごめんね、紗奈、迷惑かけて。
でも本当に言いたいのはそうじゃなかった。背中を撫でて「大丈夫だよ」って安心させてもらいたかったんだ。
言葉も、願いも全部飲み込んでしまう。私はきっといつまでも私のままなんだろうな、と思うと、何のために生きているのか分からなくなりそうになる。
4
素直な人生を歩みたかった。どこかで、変わらなきゃいけないと分かっていた。
柏木くんの、全日制を中退したという言葉。彼がこれまでどう生きてきたのか、知りたかった。どうして私なんかに優しくしてくれたのかも、ちゃんと訊きたかった。
私の呼吸を整えてくれた、命の恩人。柏木くんとちゃんと向き合わなかったら、この先私はもう誰にも助けてもらえないかもしれない。そう思うと、胸の真ん中がじんと痛みを感じた。
だから、私はスマホで検索した。
『吉野駅 通信制高校』と。
検索結果には、いくつかの高校名が並んでいた。その中の吉原駅から徒歩十五分と書かれた高校のホームページを開く。
『私立 朝ヶ山学園高等学校』
そこのトップページには、『自分らしく、自由に生きよう。全ての生徒は希望の種です』と書いてある。
希望の種、なんて綺麗事もいいところだ。私は人生に絶望し始めていた。でも、きっと柏木くんはここに通っている。もしかしたら、柏木くんと仲良くなる物語が待っているかもしれない。
『週に一度のスクーリング』『必修科目以外は自由に好きな科目を選べる』という、進学校では絶対に聞くことのないワードばかりが並んでいる。そんなに自由で、大丈夫なのだろうか。
ページをスクロールしていくと、生徒のコメントが載っていた。
『朝ヶ山に転入して、初めて学校生活が楽しいと思えるようになりました。もっと自分も自由に生きていいんだなと思いました。一年 柏木悠真』
名前を見つけた瞬間、心臓が跳ね上がった。柏木くん、だ。胸のリズムが乱れる。息が速くなる。でも、苦しくはなかった。柏木くんは、確実にここにいる。ここに行けば、会えるかもしれない――。
私は学校の所在地が書いてあるページを保存し、机の上に飾られた写真立てに目をやった。小さな私を抱いたお父さんが写っている。
お父さんは、私の将来を楽しみにしてくれていた。百点を取ってくると、美羽は天才だなって顔をしわくちゃにして笑って頭を撫でてくれた。大きくなったら学者とか医者になるかもしれないよ、ってお父さんの友達と電話で話しているのを耳にしたこともある。お父さんの部屋には私の成績個票がすぐ手に取れるところに並べられ、私がマラソンで一位を取ったときの賞状が飾られていた。父さんは、私に期待をかけてくれていた。私はお父さんが大好きだった。
そんなお父さんは、もういない。
だから、もう少し前を向いている私を見せなくちゃいけないんだ。いつか会える日が来るときまで。
――その日が来るかどうかは、私にも分からないけれど。
一週間後の同じ曜日、朝ヶ山高校の前まで行こう。私は、お父さんの写真に誓った。
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