第6話 帰ってきた魔女


 無事に目を覚ましたソフィアが、トビーと涙ながらの抱擁を交わす様子を見て、新米騎士たちもようやく肩の力を抜いた。

「ふー。一時はどうなることかと思ったが、これにて一件落着か」

「ああ。……こうしてソフィア嬢を見ていると、さっきまでとは本当に別人だな」

 ロイドの呟きを聞いて、トビーがソフィアの胸から顔を上げた。

「あれは誰だったの?」

「おそらく、俺の祖母だ」

「ええっ!」

「最初に会ったとき、一度だけ名乗った。アムリタは祖母の名だ。それに彼女が馬車で出した分身は、銅像と瓜二つだった」

 神妙な顔をするロイドの横で、クラウスが悔恨に胸を痛める。

「最後にご挨拶できなかったのが悔やまれる。ああ、おれがあと七十年早く生まれていれば……」

「おまえ、妙に親切だと思ったら……」

「そんな目で見るな。わかっている。イストックの守り手に相応しい相手は、黒騎士ヴァルター以外にありえないさ」

 トビーの手を取って、ソフィアが立ちあがった。

「ロイド様。クラウス様」

 気安い軽口を叩き合っていた二人の前で、おずおずと膝を折る。洗練された美しいカーテシー。若者たちはすかさず姿勢を正し、騎士の作法で応じた。

「改めまして、レスコード家のソフィアです。このたびは、なんとお礼を申し上げれば良いか……感謝の言葉もございません。あなた方がいなければ、またこうしてトビー様とお会いすることはできませんでした」

「どうかお気になさらず。奇妙なご縁でしたね、ソフィア嬢。ご両親もさぞ心配なさっていることでしょう。責任を持ってオーコス領までお送りします」

 差し出されたロイドの手を取らずに、ソフィアは胸の前で手を握り合わせた。勇気を振り絞るように大きく深呼吸したあと、意を決して顔を上げる。

「ロイド=コネル様。お願いがございます」

「なんでしょう」

「黒騎士ヴァルター=コネル様に、お目通りの機会を賜りたく存じます」


 ――黙って聞いてりゃ、なにを言い出すんだい! この子は!


「アムリタ様はまだ、わたくしの中にいらっしゃいます。だから、わかるのです。幾星霜を経て今もなお、ヴァルター様を慕う健気なお気持ちが」

 動揺して言葉に詰まるロイドの肩を、クラウスが嬉しそうに叩く。

 中に魔女がいると知って、トビーがソワソワと心配そうにソフィアを見た。

「ソフィ。それは、その……ソフィが望んだこと? ずっといるの?」

「わたくし、自分からお願いしてアムリタ様の弟子になったのです。アムリタ様は『星に還るまで』と仰いました。きっと……それほど長い時間は、残されていないのだと思います。だから……だから、その時間を、大事な人と過ごしていただきたいのです」


 ――大きなお世話だよ! 今さら会えるもんか!


「アムリタ様。男を待たせるなというお言葉、そのままお返し致します」

 自分の中にいる魔女に向けて、ソフィアは強情に訴える。

「アムリタ様は、わたくしに欲張りになれと仰いました。黒騎士ヴァルターと守り手アムリタの物語を、わたくしは悲劇で終わらせたくないのです」

 それだけは譲れないと、ソフィアは唇を真一文字に結んでアムリタの返答を待つ。

 沈黙が不安を生む寸前のタイミングで、ロイドが口を開いた。

「俺からも頼む。祖父はずっと、あなたのことを気に掛けていた」最後のダメ押しとばかりに、彼は言った。「さっきも言った通り、祖父はもう長くない。家族みんなで見送ろう。一生のお願いです。お祖母様」


 ――ああ、もう。ずるいだろう、それは。そんなふうに言われたら。


 ソフィアが目を輝かせる。それを見て、ロイドはホッと頬を緩めた。

 騎士達と少年少女は、森を出て馬車に乗り込む。

 ランカスター夫妻にソフィアの無事を知らせ、置き去りにした御者を拾って、オイリア湖畔の屋敷へ向かう。

 守り手アムリタの魂を連れて、黒騎士ヴァルターのもとへ。

 二人の物語の最後を、見届けるために。



 ノックの音で、ヴァルターは微睡みから目を覚ます。

 テラスから明るい光が差し込んでいる。影の角度からして時刻は正午過ぎ。マーガレットが逝ってから、最近は特に飢えと渇きに鈍くなった。頭はまだ働いているが、夢とうつつが曖昧になるのも時間の問題だろう。

「お祖父様、お休み中に失礼します。ロイドです。お客様をお連れしました」

「入りなさい」

 静かにドアが開く。

 柔らかな風に、香しい春の気配を感じた。


「そろそろ死にそうだって聞いたから。顔を見に来たよ」


 その声は、耳元で囁かれたようにはっきり聞こえた。

 ヴァルターは息を呑む。熱く疼く右目に震える指を伸ばし、数秒遅れて、訪ねてきた客人の姿を確かめる。

 扉のわきに控える少女の手前から、その女は霞を纏って現れた。

 青みがかった濡れ羽色の髪と、藍色の瞳。華奢でしなやかな立ち姿から、勝ち気で悪戯っぽい笑みまで。

 別れた頃と寸分違わぬアムリタが、そこにいた。

「……それも魔術か?」

 情緒の欠片もない言葉に、彼女は唇を尖らせる。

「せっかく若いときの姿を見せてるのに。昔っから変わらないね。あんたって人は」

「少し、透けてるぞ」

「うん。実はこのあいだ、一足先に死んじゃってね。もう体がないんだよ」

 とんでもないことを、何でもないことのように言う。そういうところも昔のままだ。

 アムリタはベッドの側まで近づいてきた。

「右目、大丈夫? ちゃんと見える?」

「よく見える。……見えないはずのものまで」

「そうだよ。特別な目なんだから」

「おかげで、何度も助けられた」

「そう。よかった」

 切ない微笑を零す。その表情で、離れているあいだも、お互いに同じだけの年月を重ねてきたのだと実感できた。

「悪いけど、一緒には逝かないよ」アムリタは扉のわきにいる少女を一瞥する。「面倒を見てあげないといけない子がいるの」

「彼女は?」

「レスコード家のソフィア。精霊憑きなんだ」

 オーコス領の箱入り娘。レスコード夫妻が人見知りだの病弱だのと理由をつけて人前に出したがらなかったのは、その秘密ゆえか。

 カチコチに緊張したカーテシーに、ヴァルターは微笑を返す。

「そういうことなら、フリッツに相談するといい。本国の魔道研究所で所長をやっている」

「あらま。あの小さかったフリッツ坊やが。どういうこと?」

「マーガレットが三十年かけて権利をぶんどった」

「さすがっていうか、びっくりなんだけど」

「俺もだ」

 小さく笑い合う。そんな、ささやかなひとときに、胸を締めつけられる。

「ソフィア嬢」

「は、はいっ」

「申し訳ないが、少しだけ席を外してもらえるだろうか」

 こくりと頷き、頭を下げながら少女は部屋を辞した。

「素直な、良い子だな」

「言い出したら聞かないところもあるけどねえ」

「アムリタ」

「なに?」

「名前を呼んでくれ」


 なにを言ってるのやら、とでも言いたげに、アムリタは苦笑する。

 唇を開いて、ためらうように一度閉じて。

 万感の思いを噛みしめるように、名前を口にする。


「ヴァルター」


 ああ、そうだ。

 これがずっと、欲しかった。

 鼻の奥がツンとした。視界がぼやけた。

 流れる涙をそのままに、ヴァルターはアムリタに手を伸ばす。

 この歳になって、恥も外聞もない。建前などいらない。


「アムリタ、見ろ。……俺を」

 ヴァルターは声を詰まらせながら懇願した。

「俺を、見てくれ」


「言ったでしょ。顔を見に来たって」

 膝をついてヴァルターの手を握るアムリタの手は、血の通わない、実体のない幻のはずなのに。

 彼はそこに、確かなぬくもりを感じた。


「大丈夫だよ、ヴァルター。どこも行かない。見てるよ。ここに、いるからね」


 それから二日後の夕刻。

 オイリア湖畔の屋敷に、ヴァルターの息子三人、娘二人、孫十人、ひ孫八人。総勢二十三名の親族が集まった。

 主治医が帰ったあと、湿っぽいのはよそうという長男ヘクターの提案で、マーガレットを見送ったときと同じくささやかな宴会が催された。料理と酒に舌鼓を打ちながら、彼らは懐かしい人と再会を喜び合った。日暮れと共に灯された明かりは、真夜中を過ぎても落ちることはなかった。

 コネル家に連なる一族に囲まれて、みんなが歓談する声に包まれながら、ヴァルターは穏やかな心地で眠りについた。


 ――もう何も思い残すことはない。また、会えたのだから。

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