幕間Ⅲ 幸福の日々


 ヨーム王国の各地を治める諸侯には、年に一度、本国に参勤して領地経営の進捗を報告する義務がある。

 すべての日程を終えて帰途についたヴァルターは、王都から離れた馬車の中でようやく肩の力を抜いた。

 今年も、なんとか乗り切った。

 枢密院での答弁はひどく精神を消耗する。列席する高位貴族たちが何時間もかけて、報告書の粗を徹底的に突いてくるのだ。飛んでくる質問のうちの八割は、妻マーガレットが立ててくれた予想通り。弁明は事前に準備している。しかし残りの二割は、ヴァルター自身がその場で判断して答えなければならない。

 わずかでも隙を見せれば足下を掬われる。

 イストックの領地経営それ自体は高く評価されており、国王の覚えもめでたい。だが近年の成果が、魔道士の力を借りたものであると明らかになった日には。

 枢密院に居並ぶ者どもはこぞってイストックを槍玉に挙げるだろう。

 原因は、先の戦争だ。

 サナンを支配していた神殿が、部族連合との戦争において魔道士を戦術兵器として運用したのは周知の事実だ。

 他の国のことはわからないが、少なくともこのヨーム王国では、魔道士という存在は今や凶兆として忌み嫌われている。おぞましい魔物と同一視して『魔物憑き』と呼ぶ者までいるほどに。

 枢密院が暗躍して、民衆の印象をそのように操作しているのだ。

 戦火によって炙り出されるまで、魔道士は古くは『精霊憑き』と呼ばれる謎多き存在だった。その日の天気や作物の出来を占う、まじない師程度のもの。いわば眉唾物だったのだ。それが戦争で、多くの人間が本物の魔術を目の当たりにすることになった。

 魔術の真価は兵器運用ではない。あらゆる分野に応用可能な汎用性だ。研究と実験を重ねれば、その力は国家の発展に大いに寄与することだろう。

 とにもかくにも、まずは精霊憑きの頭数を揃えなければ始まらない。

 枢密院が『魔道士』の悪評を広めるのはそのためだ。やつらは待っている。隠れて暮らす精霊憑きが、偏見によって居場所を追われるのを。隣人の手で引きずり出されて断罪されるときを、今か今かと待ち構えている。

 許しがたい下劣さだ。ヴァルターは内心、腸が煮えくり返っている。枢密院がもう少しまっとうであれば、アムリタに不自由な思いなどさせないものを。

「おかえりなさい。お疲れさまでした」

 ルエズ=ヤナム城に戻って来た主人を、マーガレットが出迎えた。

「ただいま」ヴァルターは抱擁する素振りで妻の口元に耳を寄せた。「留守中、変わりはなかったか」

 マーガレットは低い囁き声で答える。

「領内を嗅ぎ回っている者が」

「間者か」

 枢密院の回し者だろう。参勤の日程は動かせない。領主が不在の隙に間諜とは、やってくれる。

「居場所は掴んでいます。いかがなさいますか」

 そのとき、階段を駆け下りる足音が響いた。抱擁を解いて、続きはまた後で、と言うようにマーガレットが夫の肩を撫でる。

 娘を抱っこしたアムリタが小走りでやって来た。

「ヴァルター、おかえり!」

「アムリタ。走ったら危ないぞ。どうした」

「見て」

 アムリタは娘を床に下ろし、支える手を離してひとりで立たせた。小さい足がよちよちとヴァルターのほうに歩いてくる。

「おお、歩くようになったか!」

「ヘクターとジョンを追いかけようとして歩いたの」

 ヴァルターはしゃがんで我が子を抱き上げた。息子たちが初めて歩いたときも感動したものだが、娘とはこんなに可愛いものかと頬が緩む。

「来月の誕生日はみんなでお祝いしましょう」

「あたし、マーガレットのケーキ食べたい!」

「いいわよ。最初の一口をケイトに譲ってあげるならね」

 ――ああ、なんて幸せなのだろう。

 良妻賢母のマーガレット。奔放で愛情深いアムリタ。二人が産んでくれた子ども達はみんな、健康にすくすく育っている。ルエズ=ヤナム城の外は物騒だが、家庭は円満だ。

 ――守らねば。

 枢密院がどれだけイストックに間者を送り込もうと、魔道士がいるという確たる証拠なぞ掴ませない。アムリタを鎖で繋いで自由を奪うようなことは、もう二度と、誰にもさせない。

 そのためにヴァルターは、年の一度の参勤に万全の態勢で臨む。

「ねえ、ヴァルター。ケイトも大きくなったし、あたしまた働けるよ。どこか雨を降らせようか。それとも前みたいに危険種をやっつける?」

「大丈夫だ。なにも心配するな」

「でも、役に立ちたいよ。そんな疲れた顔して」

「それじゃあ少し、膝を貸してくれるか。一眠りしたい」

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