第3話 魔物憑き
ランカスター家の領地には牧歌的な麦畑が広がっている。
麦の色は、春の鮮やかな緑色。黄色くなるまであと二ヶ月といったところか。
コネル家の馬車に揺られながら、アムリタは過去に思いを馳せる。
ルエズ=ヤナム城で暮らしていた頃、領民の生活を脅かす多くの危険種と戦ってきたが、その中でも極めて厄介だったのが作物を食い荒らす飛蝗だった。
ヴァルターは毎年、予算と人員を割いて産卵地の調査と駆虫作業を徹底させていた。そこまでしても、飛蝗の群れは久鳳のセイカイ山脈から国境を越えて飛んで来た。大量発生した飛蝗は餌を求めて大移動をおこなう。領内での発生は防げても、外から来るものはその都度、対処するしかなかった。
「最近は、バッタは出ていないようだね」
「バッタ?」
――平和で結構だこと。
新米騎士たちの不思議そうな反応を見て、アムリタは内心そう独りごちる。
「レディ。思いついたことは何でも話して下さい。記憶を取り戻すきっかけになるかもしれません」
ランカスター家を訪ねるにあたりロイドは平服に着替えているが、クラウスは鎧を装備したままだ。いざというときは護衛騎士として、身を挺して二人を庇うつもりなのだろう。もっとも、そんなことをさせるつもりは毛頭ないが。
「歴史の授業で『蝗害』って習ったろう」
「ああ、祖父が言っていた。バッタを駆除するためにカビを散布したんだ」
イストックに限らず、ヨーム王国では蝗害対策にカビを用いる。効率よく感染させるため、アムリタは当時、一日がかりで広範囲に霧を発生させていた。
「最後の大量発生はおれたちが生まれる前ですね。でも領主様は毎年、領内を念入りに調査させています」
「養父上は実際に食い荒らされた畑を見ているからな。いずれは俺が引き継ぐ大事な仕事だ。空を埋め尽くすバッタの群れなんて、想像もしたくない」
体験したことはなくとも、二人とも蝗害を軽くは考えていないようだ。若い世代に教育がしっかり行き届いていることにアムリタは安心した。
「二人とも、よく勉強して偉いね」一呼吸置いてから、彼女は尋ねた。「ロイド。あんたのお祖父ちゃん、元気なの」
ロイドの表情がわずかに憂いで陰る。
「病気はしていないが、なにぶん高齢だからな。屋敷で静養なさっている」
どうやら、あまり長くはなさそうだ。
「そうか。……今年で八十八歳になるんだね」
――ああ、やだやだ。
心に隙間風が吹いている。
急いで未練に蓋をした。
ヴァルターが知るアムリタは死んだ。もう元の姿ではないのだから、会ったところでわかるはずがないし、今さら意味もない。年寄りが寿命で死ぬのは自然の摂理だ。
だが、この体の持ち主である少女は違う。急げばまだ助けられる。これから先、何年でも何十年でも生きることができる。
ロイドが怪訝そうにアムリタを見やる。
「確かに祖父は八十八歳だが。君、なんでそんなこと知ってる?」
「たまたまさ」
村の入り口で馬車を降りた。
住民の大半は小作人で、昼間はその多くが畑に出ている。
ランカスターの屋敷に向かう道中、畑で作業をしていた老人がこちらに気づいて声をかけてきた。
「あんれま。ソフィアお嬢さんでねえか」汗を拭きながら彼は不思議そうに言った。「お帰りになったって聞いたけども、どうしなすった」
ロイドとクラウスが素早く目配せを交わした。
お手並み拝見といこうかと、アムリタはしおらしく戸惑う演技をする。
クラウスが前に出て言った。
「ご老人。彼女をご存知なのですか?」
「兄ちゃんこそ、どこの騎士だい」
「失礼致しました。私はイストック騎士団のクラウス=ヘンデルです。イストック領に一人でいた彼女を保護したのですが、よほど怖い思いをなさったのか、今時分までご自身の名前すら記憶があやふやで……。我々はわずかな手がかりを頼りに、ランカスター家を訪ねるところでした」
老人は目を剥いて飛び上がった。
「そりゃ本当かい、あんた! ソフィアお嬢さんはトビー坊ちゃんの大事な許嫁だよ。こうしちゃいられねえ!」
仕事仲間に声をかけて、彼は一目散にランカスターの屋敷へ走って行った。
この話は風よりも早く村中に広まり、様子を見に来た小作人たちの口からは次々と「ソフィアお嬢さん」を心配する声が上がった。それらに対してアムリタは、適当に涙ぐみながら頷いたり、感謝や謝罪といった当たり障りのない受け答えを返した。
――ソフィア。きっと良い子なんだろうね。
こんなにも早く名前がわかったのはひとえに、普段から小作人にも分け隔てなく接していたであろう彼女の人徳のおかげだ。
アムリタは胸に手を当てた。
――待っておいで。すぐ迎えに行ってやるから。
そうこうしているうちに、ランカスター家の使者がやって来た。
「ここからは俺が出る。ヘンデルは彼女のそばに」
「ああ。任せろ」クラウスは表情を引き締めた。「ご安心下さい、レディ。何があってもお守りします」
コネル家の名前のおかげで、一行はすんなり応接間まで通された。
飾られた調度品はどれも派手すぎず、かといって地味でもない。ランカスター夫人の品の良さが窺える、居心地の良い空間だった。
出されたお茶が冷めてきた頃、部屋の外から言い争う声が聞こえてきた。
「いやだ、いやだー! 僕は会わないぞ!」
「いい加減にしろ、トビー! ソフィア嬢が心配じゃないのか!」
身なりの良い中年男性が、抵抗する少年を引きずりながら応接間に入ってきた。
ロイドが椅子から立ちあがる。
「ランカスター卿。ロイド=コネルです。突然の訪問をお許し下さい」
「気にしないでくれ、ロイドくん。それより、ソフィア嬢を保護してくれたそうだね。ありがとう。どれだけ感謝しても足りないくらいだ」
気遣わしい目つきでこちらを窺うランカスター卿に、アムリタは小さく会釈を返す。息子のトビーはというと、父親にがっちり腕を掴まれながら青ざめた顔で俯いて、自分の許嫁を見ようともしない。
対面で席についてから、ロイドは少女を保護した経緯を説明した。
話を聞くうちに、ランカスター卿の額にみるみる青筋が浮き上がった。彼は膝の上で拳を震わせながら、隣に座る息子を睨んだ。
「トビー。おまえは昨日、ソフィア嬢を自宅まで送り届けたと確かに言ったな。それが本当なら、なぜ彼女はキルビス近くの森で倒れていたんだ?」
「知らない」
誰とも目を合わせず、トビーはそっぽを向いて小指を握りしめている。
「トビー=ランカスター」ロイドが冷淡に言った。「おまえは嘘をつくとき、いつもそうして小指を握っているな」
ハッとしたのも束の間、厳しい眼差しに囲まれて、少年は逃げ場を失ったネズミのように縮こまった。青ざめていた顔は今や土気色になるまで血の気を失い、今にも失神しそうだ。
アムリタは一言、あえて感情を込めずに声を発した。
「トビー」
少年が初めてこちらを見た。許嫁の姿を映した両目から、みるみる涙が溢れる。そこに浮かんでいたのは罪を犯した後ろめたさではなく、困惑と恐怖、そして深い悲しみだった。
「ソフィ……」トビーは震える声で絞り出した。「違う。……ソフィじゃない」
「どうしたというんだ」
肩を掴む父親の手を払いのけて、トビーは堰が切れたように叫んだ。
「僕は、僕は止めたんだ! でも、ソフィは……じ、自分は魔物憑きだって言って……毒を飲んで、それで、それで……動かなくなっちゃったんだよお!」
アムリタは愕然と立ちあがった。
いやいやと首を振りながらトビーは泣きわめいた。
「やだよお……こんなの、ソフィアじゃない……僕のソフィじゃない! なんなんだよ……おまえは誰なんだよ。ソフィを返してよ!」
――なんてこと。なんてこと!
アムリタは脇目も振らず応接間から飛び出した。
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