幕間Ⅰ 黒騎士

 ヴァルター=コネルは、ヨーム東方領イストックの前領主である。

 六十四年前。当時二十四歳だったヴァルターは国王の命令で配下と共に海を渡り、サナン解放戦線に参戦した。巫女姫を擁する神殿勢力と対立する部族連合の援軍として送り込まれたのだ。

 ヴァルター率いるイストック騎士団は、その機動力によって敵方の防衛ラインを突破する先鋒を務めた。彼らは立ちはだかる僧兵のことごとくを挽き潰し、叩き伏せた。漆黒の鎧を身に纏い、白銀の騎馬隊の先頭で勇猛に戦斧を振るう姿から、いつしかヴァルターは敵味方から〈黒騎士〉の異名で呼ばれるようになった。

 そんな彼の足を止めたのは、たったひとりの女魔道士だった。

 僧兵たちが逃げ散った荒野に、彼女は立っていた。

 淡褐色の肌。青みがかった濡れ羽色の髪。藍色の瞳。手枷と足枷の鎖は、地面に深く打ち込まれた杭に繋がっている。

 神殿は奴隷の魔道士を戦術兵器として防衛地点に設置する。

 ヴァルターは兜の中で眉を顰めた。女魔道士の境遇に同情したのではない。灼熱の太陽に照らされた荒野で、彼女の半径五十メートル範囲に重たい灰色の雲が立ちこめている。魔術の有効射程範囲だ。そのうち雨粒がポツリ、ポツリと地面を打ち始めた。

 静かに降り注ぐ雨が散弾のように大地を抉る。

 こんな大技は長くは続かない。が、作戦時間が惜しい。

 ヴァルターは射程範囲の際で怒鳴った。

「神殿の僧兵部隊は潰走した! 投降しろ!」

 女魔道士は投げやりに吐き捨てた。

「降参したって、殺すんでしょ」

「ヨーム王国は文明国だ! 捕虜を殺したりなどしない!」

 紺色の瞳が疑り深くヴァルターを睨む。

「ホリョってなに。……捕まえても、殺さないってこと?」

「そうだ!」

 雨が弱まる。

「もう……戦わなくていいの? ふつうの人みたいに暮らせるの? こんなふうに鎖で、繋がれたりしない?」

「そうだ!」

 ヴァルターが辛抱強く肯定すると、女魔道士の瞳に光が差した。

 雨が止み、雲が晴れていく。そのときだった。

 銃声が辺りに響き渡る。女魔道士が膝を突いて倒れるのと同時に、遠くの岩陰に何者かが素早く身を潜めた。迂闊だった。ヴァルターは舌打ちした。僧兵のほとんどは退却していったが、奴隷の監視役だけは息を潜めて隠れていたのだ。

 部下に追撃を命じて、ヴァルターは倒れた女魔道士に駆け寄った。深い傷だったが幸い、急所は外れていた。彼は奴隷の鎖を戦斧で断ち切った。

 衛生兵の担架に載せられた女魔道士が、切れ切れに呟く。

「……殺さないで」

「イストックの騎士は約束を違えない。おまえの身の安全は保障する」

 ところが戦後、話が変わってきた。

 サナン部族連合は戦後、捕虜にした魔道士の処遇について明文化を避けた。というのもこのときすでに、各部族では捕らえた魔道士に対する私刑が横行、黙認されていたのだ。捕虜の人権を保障するというのはあくまでヨーム王国の法で、サナン部族連合の掟にはない。しかも魔道士たちは元々神殿の奴隷だ。はじめから、守られるべき人権などないのである。

 郷に入っては郷に従えという言葉がある。

 だが、約束は約束だ。

 ヴァルターは部族連合に引き渡す捕虜の数をごまかし、偽の書類を拵えて架空の戦死者をでっち上げた。身元のない人間をねじ込める場所が他になかったのだ。彼はやだやだと暴れる女魔道士を縛り上げて死体袋に隠し、何食わぬ顔で引き揚げ船に積み込んだ。

 こうして黒騎士ヴァルターは、元奴隷の女魔道士を領地へと連れ帰った。

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