水の魔女アムリタ

@satomi-akira

第1話 よみがえった魔女


――こんなに寂しいなら。もう一度くらい、会っておけばよかった。


 目が覚めると死体袋の中にいた。

 直前の記憶はベッドで往生したところで終わっている。なんの間違いか、どうやら息を吹き返したらしい。それはいいとして寝覚めは最悪だった。体の下から不愉快な振動が絶えず続いている。硬いゴワゴワした感触が顔を擦っている。

 何度か瞬きして目の焦点を合わせた。白い光に浮き上がった幾何学模様は、繊維の編み目だ。麻袋に詰められて運ばれている最中だと理解する。馬車の荷台にでも転がされているのだろう。車輪が小石を砕く音は、アムリタに若い頃のいやな記憶を思い出させた。

 頭に血が巡ってきたことで、状況のおかしさに気づく。

 アムリタは自宅で死んだ。

 孤独死した独居老人の遺体を教会が回収してくれた、という可能性はまずありえない。だってアムリタの家は町ではなく、多種多様の危険種が棲息する森の奥にあるのだ。

 彼女はくつくつと笑う。

(こんなババアの死体を持ち出すなんて、面白いじゃないか。どれ、何者か探ってやらなくちゃねえ)

 水の精霊に呼びかけると、待っていたかのように反応が返ってきた。

(おやまあ、義理堅いこと)

 死んでも繋がりが断たれていなかったのは幸いだ。

 外の様子を覗くために、空気中の水分を集めて鏡を作る。三枚もあれば足りるだろう。目を閉じ、〈水鏡〉を通して瞼の裏側に周囲の景色を映し出す。

 なだらかな丘陵地帯だ。緑の野は青々と茂り、あちこちで白い花が揺れている。未舗装路を進んでいるのは馬車ではない。輜重車だ。大きな車輪に挟まれた荷台に、アムリタが入った死体袋が載せられていた。

 どうりで乗り心地が悪いはずだと納得するのと同時に、彼女は不愉快になる。

 近くにいるのは二人。輜重車の馬を牽いている者。また、その近くで乗馬している者。白銀の鎧。鉤爪の意匠。勲章のひとつもつけていないが、どちらもヨーム王国の騎士だ。

 なるほど騎士であれば、森に蔓延る危険種を退けて死体を運び出すことも出来よう。

 忌々しい、と歯噛みする。

 人生で二度目だ。騎士の手で麻袋に詰められるのは。

 魔術によって爪の先に鋭利な薄刃を纏う。剃刀程度の小さな刃だが、麻袋を内側から切り裂くには十分だ。

 顔の前から鳩尾あたりまで一息に爪を走らせる。開けた視界の眩しさに顔を顰めながら、アムリタは起き上がった。

「うわあっ!」

 輜重車と並走していた騎士が怯えた声を上げた。手綱を握っていた騎士が振り返り、慌てふためいて馬を止める。

 青い顔をして息を呑む青年達を、アムリタは一瞥する。どちらもまだ若い。叙されたばかりの新品騎士だ。こんな右も左も分からぬ若者に魔道士の死体を運ぶ任務を与えるとは、ヨームの騎士団も堕ちたものだと嘲笑う。

 魔道士にはこのような警句がある。

『触れれば障りがあり、殺せば祟りをもらう』

 六十四年前、サナン解放戦線に参戦したヨームの騎士たちは、この教訓を祖国へ持ち帰り後世に伝えた。つまりこの青年たちは、組織の貧乏くじを引かされた哀れな生け贄なのである。

 茶色い瞳の青年が呆然と呟く。

「息を吹き返した……?」

「いや、間違いなく死んでいた。寄生型の危険種かもしれない」

 水色の瞳の青年が油断なく剣の柄に手を伸ばす。

 魔道士を相手に剣を抜くとはなんたる無謀。あるいはそもそも、自分たちが運んでいた死体が魔道士だと知らされていないのか。

 アムリタは輜重車に仁王立ちして、穏やかな風に目を細めながら辺りを見渡した。

 この景色には見覚えが、ある。

「あの、君! 気は確かか!」

 茶色い瞳の青年が真剣に、間の抜けた質問をする。

 警戒態勢を解かないもう一人の青年に注意を払いながら、アムリタは空中に浮かべていた三枚の〈水鏡〉を手元に戻す。

「あんた達こそ……」

 第一声を発した瞬間、たちまち強い違和感がせり上がった。

 この声は――自分の声では、ない。

 手のひらを広げて彼女は目を瞠った。すべすべした華奢な指は、老婆のそれではなかった。

 若く瑞々しい手で、顔に、髪に触れる。

 蘇生と同時に若返った可能性は、栗色の髪に指を通した瞬間に消えた。年老いて色が抜ける前のアムリタの髪は、青みかがった濡れ羽色をしていた。

「ここはヨーム王国東方領イストックだ。君はキルビス近辺の森の中で倒れていたんだ。僕たちが見つけたときにはもう、息がなくて……死んでいるように見えた」

 目の前に展開した〈水鏡〉には知らない顔が映っている。クリッとした薄紫色の瞳、栗色の髪。体の肉づきは健康的で身なりも粗末ではない。両親から宝物のように大事に育てられたであろう、十代半ばの少女。

「ヘンデル、離れろ。こいつ魔道士だ」

「わかってる。剣を下ろせ、ロイド。事件かもしれないんだぞ」

「魔道士殺人事件? ハッ、だったら犯人は今ごろ祟りで死んでるさ」

「おい、不謹慎なこと言うな!」

 アムリタは指を鳴らして鏡を閉じた。たったそれだけのことで、言い合いをしていた騎士たちがビクリと後ずさる。

 頭の痛い状況だ。

 他人の体で生き返った。

 口承に聞く星還事故の当事者に、まさか自分がなってしまうとは。

「あんた達もこの娘も、とんだ災難だね」

 騎士は嫌いだが、少女の身元を調べるには彼らの力を借りる他ないだろう。

 アムリタは死んだ。それがこんなことになったのは、きっと、死に際につまらない未練を抱いたせいだ。

 どんな理由があろうと、他人の体を乗っ取って死者が蘇ることなどあってはならない。

 彼女は年若い騎士たちを見下ろして腕を組んだ。

「あたしは水の魔女アムリタ。黒騎士ヴァルター=コネルの縁者だ。イストックの騎士たち。この娘を家に帰すのを手伝いな」

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