家守異聞録
アカトキ
壱話目:ホテイアオイ
此の家の床の間には、掛け軸がある。本紙には何処かの沼地らしきものが描かれており、其処には二匹の鮒と青紫の花を咲かせた水草らしきものが見受けられた。品の良い色合いで思わずうっとりと眺めていたが、植物に関しては門外漢の為花の名前はとんと判らない。
掛け軸にしては風変わりな題材ではあったが、私個人としてはそれをとても気に入っている。
如何にも、この屋敷の前の主――私が先生と呼ぶ彼の作品らしい。
その人は学士時代の私の恩師なのだが絵の専門と言う訳でもなく、此れは趣味で描き上げたものを気に入って掛け軸にしたものだと聞いた。つまりは、世界に一点限りの唯一無二の掛け軸であるのだ。
有名な大家の作品ではないのだが、そう考えると大変趣がある。
「こんにちは、渡会さーん?」
お隣に住むおかみさんに呼ばれ、私は忘我の状態から引き戻された。慌ててすみませんと返事をしつつ、玄関へと戻る。
そうだった、荷解きの途中だった。
とは言え、私が下宿先から持ってきた荷物は旅行鞄一つと仕事道具一式を入れた風呂敷ぐらいである。
此処に到着して早々、何をするでもなく座敷へ行ってぼうっとしていたのがいけない。
「渡会さん、お久しぶりねぇ。学生さんの時以来かね?」
そう言って笑うおかみさんは、五十代程の小奇麗なご婦人である。笑うと目じりの皺が深くなり、何処となく恵比寿を想起させる様な安心感があった。
彼女は挨拶ついでに、刺身で彩られた豪華な散らし寿司を差し入れに来て呉れた。
本来なら越して来た側が引っ越し蕎麦を配るべきものなのだが…懐が心許ない身としては非常に有難い。
ただ矢張り申し訳ないので、後日蕎麦を彼女に送る事を固く心に誓った。
礼を述べつつも、彼女の科白に些か驚く。
「立花さん、久方ぶりです。…私の事、覚えておいででしたか」
実を言うと、恩師の家に来るのは初めてではない。
此の家には昔、友人が住んでいたのだ。名を江ノ本と言う。
彼と出会ったのは私の故郷だった。彼の父――つまり恩師と調査ついでに旅行に来ており、同い年もあって暫し滞在していた江ノ本と仲良くなった。
其の付き合いは私が此方へ進学の為に上京してからも続いており、学生時代は駅二つ挟んだ下宿先からしょっちゅう此の家に遊びに来ていたのだ。
もう十年以上も前の事である。懐かしい、と言えるぐらいには遠い記憶だった。
「勿論覚えてますよぉ。元気してました?」
「ぼちぼちです」
ころころと笑う彼女とひとしきり談笑し、散らし寿司を頂戴して台所へとひとまず持って行った。
三人前ぐらいありそうな量だったので、昼飯として直ぐに少しだけ食べる事にする。
酢の爽やかさと海鮮の旨味が疲れた身体に沁みる。こんなに豪勢な食事は久々かもしれない。
何せ、一カ月程入院していた身である。病院の其れは薄味な上に粗食と言っても過言ではなかった。
散らし寿司をじっくりと堪能した後に、私はようやく荷解きを始めた。
寝室とする場所は迷ったものの…利便性の都合もあり一階の応接用の座敷、其の横にある六畳間に決めた。丁度文机もある。
確か此処は恩師の私室だった記憶があるが、何とも曖昧である。
其れはそうなのだ、何せ友だった江ノ本の部屋は二階にあった。此の家を訪れても基本は直ぐに二階に上がっていて、余り下の部屋には行った覚えがない。
恩師は家を引き渡すと決めた際に、家財道具は運ぶのが面倒なので其の儘にすると言ってくれた。そのお陰で、荷解きも少なく済んだ。
至れり尽くせりと言う有様なので、何れ恩師から来る書き物仕事には精一杯取り組まねばなるまい。
身体を壊して入院していた折に、恩師が見舞いに来た。老いてきたので親戚の家に身を移す事にしたが、良ければ私の旧家に住んで家守をしないかと打診をされたのである。願ってもない申し出であった。
何せ私は未だに上京して以降、ずっと同じ下宿先で暮らしていた。
下宿先は建物が古く、隙間風やら雨漏りに度々悩まされており目下の悩みの種でもあった。益々身体が弱くなった身としては、此れだけでも障りが出る。
家守をして呉れるのならば手間賃も渡すと言われたら、もう喜んで引き受けるしかない。身を崩して仕事が減った身としては非常に有り難かった。
しかし勤まるだろうか、家守など。
いやいや、何を気弱になっているのだ。病み上がりの身なれど私も男だ。
任された以上はやらねばならぬ。
と、不意に庭からけたたましい音が響いた。
―コココッ
人の笑い声とも鳥の鳴き声ともつかぬものだった。何事だろうか。
隣室へと移動し、障子を引いて廊下に進む。空気の入れ替えもしようと、硝子戸も錠を外して開け放ち縁側に出る。
陽光の眩しさに辟易していたが、直ぐに庭の鮮やかな色彩に心を奪われた。
引っ越しの話が決まった後の退院明けに挨拶に来て以来だったが、相も変わらず此の家の庭では四季ごとの植物たちが栄華を極めている。
詳しい種類は分からないが、今の時期は春の始まりである。漸く陽も温かくなる頃合いだった。恐らくは、此の新緑豊かな草木は春のものなのだろう。
そして此の庭、実は池がある。家の裏手には山があり、其処から田んぼに向かって疎水が引かれている。
其の水路の途中に、此の家があるのだ。池は家の主が風情を凝らすために作ったのだろう、小さいが立派な造りだった。
しかし件の池は今は残念な事に、何やら浮草の様な物で全面覆われてしまっていた。冬の間に枯れたものが残ってしまったのだろう。みっちりと池に詰まった儘、僅かに悪臭を放っている。これでは灌漑の役目を果たせるかも怪しい。田圃の主の為にも取り除いてやるべきだろうか。
ただ今日新たに重労働をする気にもなれず、私はひとまずこれを棚に上げた。顔を上げて庭を一望する。
「嗚呼、綺麗だな…」
誰にともなくぽつりと呟いた。
一通り見渡しても音の正体は掴めなかった。此の儘探しても詮無いので、鳥だと思う事にする。
学生時代は此の庭を二階の窓から眺めていた。下から見るのと上から見るのとでは、美しさの質が違う。視点が違えばこうも感想も違うのか。
ぐぅ、と伸びをして深呼吸をしたら、何だか移動の疲れが込み上げてきた。風も日差しも心地良い。
腹を満たしたのもあるのだろう、眠い。
ちょっとだけ休んでしまうか。
私は座布団を二つ折りにすると、其れを枕にして畳にそのまま寝転がった。
横になるともう抗い切れず、ちょろちょろという淡い水音を聴きながら眠りに落ちる。
―ざぶり
大きな飛沫の音で目が覚めた。
身を起こすと既に夜になっていた。月明かりが座敷に差し込んでおり、其の為か室内はまだ明るかった。
道理で肌寒かったのか。畳に直に寝ていたので節々が痛い。強張った身体を伸ばしつつ、ひとまずガラス戸を閉める。
しかし錠を掛けた辺りで、また謎の水音がした。
―ざぶり
家の中から音がしたのだ。おや、となって私は耳を澄ませる。何処からだと探っていると、此の部屋の床の間からだった。
そんな場所から水音がするのも妙な話である。
薄暗くはあったが、床の間を通過して灯りを点ける度胸も無い。そのまま目を凝らす。
床の間の掛け軸からだろうか?
非現実的な状況に身を置かれかけている事に気付き、私は俄かに緊張した。心臓が早まっているのが判る。
掛け軸の中の湖沼が、波立っているのだ。おまけに絵の中の二匹の鮒も、優雅に泳ぎまわって水面を揺らしている。
見間違いではないかと思いながらも、目を逸らせない。
そのまま硬直して見詰めていたが――…やがて、其処に一艘の舟が現れた。青紫の水草の合間を縫って、此方に近付いて来ていた。
誰かがそれを漕いでいる。誰だろうと必死に目を凝らしていたら驚いた。江ノ本だった。
「透一郎」
思わず名を叫んでしまった。名で呼ぶのは幼少期以来かもしれぬ。掛け軸の中の彼はその声に気付いたのか、漕ぎながら此方を見た。視線が合う。
江ノ本は本紙の端まで舟を漕ぐと、何とそのまま掛け軸から出て来た。わざわざ靴を脱いで床の間に着地する彼を見る。
成人男性が通れる大きさではない筈だが、ぬるりと出てこられて目を疑った。如何いう理屈なのだろうか。
「渡会、息災で何よりだ」
そう平然と挨拶され、私は開いた口が塞がらない。困惑したまま、脳からまろび出る言葉を何とか声に出す。
「と、あ、いや、江ノ本…久しいな…。と言うか、お前、今まで何処に居たんだ?」
江ノ本は、懐かしい姿のままだった。学生の頃の姿そのままに、縦縞の小倉袴を穿いている。
そう、彼だけが時間に置いて行かれていた。
江ノ本は、学生時代に失踪してしまったのだ。しかも、それは私の所為かもしれない。真実は彼しか知らないので、可能性でしかなかったが。
私が彼の失踪を知ったのは、病院の寝床だった。そのまま死んだと言う事にされたと聞き及び、私は退院早々にこの家で骨壺すらない彼に焼香をした。
其れから恩師は大事な長男を亡くしたと言うのに、暫く私の面倒も見てくれたのだ。返そうとしても返し切れぬほどの恩が、彼にはある。
幾分か時が過ぎ、私も成人し職を持ち――そして身体を再び壊して、流れ流れて彼の生家の家守に就任している。
奇縁、とも言うべきだろうか、此れは。
目の前に居る彼は、生者なのか死者なのかすらもよく判らないぐらいはっきりと其処に居た。
信じられない気持ちと、肩を揺すりたい気持ちと、触れる事がとてつもなく恐ろしい気持ちが、私の中で鬩ぎ合っている。
江ノ本はそんな私の心中を知ってか知らずか、畳に胡坐を掻く。座れと言うかのように畳をぽんぽんと叩かれ、私も座った。向かい合う形になる。
「何、ちと遠い処だ。お前は…そうだった、身体をまた壊したんだったな」
そう言って、表情の少ない友人は此方の顔を覗き込んだ。昔と何ら変わらぬ其れに、懐かしいやら哀しいやらで声が詰まった。
下を向いてしまった私に、苦笑交じりの声が降って来る。
「そう哀しむなよ、俺は好きでこっちに来たのだ。今は気楽にやってるよ」
「…お前は、息災だったか」
ようやくそれだけを話せた。声は震えていないだろうか。
「そうだな、まぁぼちぼちだ。…お前が此処に移ったと聞いたから、様子見のついでに頼み事に来た」
頼み事?
何かと思って顔を上げる。
江ノ本は庭の方を指差した。私も釣られて其方を見やる。
障子は其の儘にしていたので、月明かりに照らされて庭の草木は其の姿態をつやつやと主張していた。
矢張り、美しい。
「池があるだろう、此の庭に」
「あ、あぁ。確かに、ある」
池の状態を思い出す。故も知らぬ浮草に侵略され、酷い状態になっていた。
江ノ本は此方に視線を戻した。真っ黒な双眸が私の顔を見据えている。
「あれはホテイアオイと言うものだが…去年隆盛しすぎてな」
「そうなのか」
私の科白に彼は頷く。
「毎年、春になると父がある程度枯れたあれらを退かしてはいたが、引っ越しの都合で忘れてしまったらしい」
「嗚呼…」
其れは、私の所為かもしれぬ。
「いつもはそうでも無いのだが、植生として頑丈すぎるのも困りものだ」
頭を振った彼が、少々申し訳なさそうな顔になった。病み明けの此方を気遣っているのかもしれない。
「越してきたばかりのお前に頼むのもあれだが…初夏を迎える前に、少しばかり取り除いてやってくれ。水の流れが滞りかけている」
「そうか、成程相分かった。直ぐには難しいだろうが…田植えの時期までには池を掃除しよう。でなければ、田圃の主も困るだろう」
助かる、と言う江ノ本は難しげに腕を組む。
「此処は通り道になっていてな。此の池が詰まると、田圃の主以外も困るのだ」
「…通り道?」
彼の科白を反芻する。何とも妙な言い回しである。しかし彼は再度頷き通り道だ、と強調した。
「誰かが通るのか」
「そうだな、河童や人魚が偶に通る」
「か、」
平然と言われ、私は絶句した。予想だにしない答えが返って来て、困惑する私に江ノ本は続ける。
「居るのだ。何だ、知らなかったか」
「し、知らぬよ。…居るのか、河童」
「居るさ。俺が此処に居るのに、河童は疑うのか?」
そんな事を言われては納得するしかない。渋々頷いた私を見て、江ノ本は頷いた。
「じゃあ、頼むぞ。…俺はそろそろ戻るとしよう」
「え」
片膝を立てた彼に、私もつい立ち上がりかけた。もう行ってしまうのか。訊きたい事も話したい事も、まだまだ有ると言うのに。
私の不満が伝わったのか、江ノ本は再度苦笑した。
「何、また来るさ。…病み上がりにしては、調子が良さそうで安心したぞ」
「来てくれるのか」
「来るよ」
「そうか。…そうか」
口約束だったが、其の言葉に何だか安心した。安心したら、また眠くなった。
おい布団は敷いて寝ろ、と言う江ノ本の科白に分かっていると返す。
背中を向けた彼に、私は唐突に惜しくなって声を掛けた。つい、懐かしい呼び名をしてしまう。
「透一郎」
「何だ」
振り返った彼に、何と言おうか迷って――不意に、掛け軸の植物に目が行った。青紫の、美しい花。
「なぁ。其の、掛け軸の花は…何と言うのだ」
「此れか?」
江ノ本は片眉を上げた。少しからかうような調子で、花の名前を答えてくれた。
「あれも――ホテイアオイだよ、啓次」
気付いたら、彼の乗った船は絵の中の靄に吸い込まれるように消えて行った。
―ざぶり
と言う遠い水音を一つ残して、静寂が戻って来る。
目を擦って掛け軸に近付いてまじまじと見て見たが、其れは昼の時と変わらぬ儘だった。先の奇妙な体験は、夢の様にも思える。
しかし、よくよく見たら床の間に水滴らしきものが三つばかり落ちていた。此れは昼の時には無かったものだ。
嗚呼、本当に逢いに来てくれたのか。
胸中に複雑な感情が飛来したが、青紫の花を見て私は再度心を落ち着かせた。何とか、落ち着いた。
また来ると言う約束があったからかもしれない。
座敷から廊下に出る。ガラス戸の先の庭の、池の辺りを眺めた。月が雲に隠れた所為か、庭は暗い。
お前さんも、綺麗なだけじゃないのだなぁ。
そう、しみじみと思った。
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