魔が差すときはお呼びください

chouette

暗闇よ、こんにちは

暗闇は、いつも私を覆い尽くす。視界を塞ぎ進路を止め、微笑みを貼り付けて私を見る。その度に願ってしまう。どうか次に目を開けるときは、心から笑えていますようにと。


「おばあちゃん、大丈夫?」


「大丈夫よ、少し咳がでただけだもの」


「寒くない?」


「寒くないわ、彩恵あやめちゃんが湯たんぽを持ってきてくれたもの」


「うん」


「私は大丈夫ですから、彩恵ちゃんもお布団にはいっておやすみしましょう」


「……でも」


「大丈夫よ、きっともうすぐ治るから」


「でもっ!」


「おやすみなさい、彩恵ちゃん」


「……はい」


ゆっくりと襖を閉め、廊下を歩き部屋へと戻る。意味もなく部屋を見渡し、床に散らばった本を睨みつけた。おばあちゃんの具合が悪くなって、もう2週間。お家に来るお医者さんは、私に笑いかけながら帰っていく。苦しそうなのに大丈夫って笑うおばあちゃん、おばあちゃんを治してくれないのに笑っているお医者さん。可哀想にと言うだけで、何もしてくれない親戚の人達。私には、何も教えてくれない。


「うっ、ないちゃ……だめなの」


私が泣くと、天国のお父さんとお母さんが悲しくなるからって。お葬式で皆が言っていたから、私は泣いちゃいけない。おばあちゃんは私が泣いても、優しく頭を撫でてくれる。泣いたっていいって言ってくれた。でも、お隣家のかずき君もずっと泣いているのは変だって言っていた。どんなに涙が流れても、きっと誰にも見せちゃいけないんだ。


「おやすみしないと、困らせちゃう」


お布団に入って目を閉じれば、いつの間にか眠っている。おばあちゃんも大丈夫だと言っていたのだから、私は言われたことをやらなくちゃ。眠くなくても、目を閉じてみる。音がしない部屋は、少しだけ寂しい。静かな家に、おばあちゃんの咳の音が響いていた。


「おばあちゃん、また咳してる」


『眩しいから電気は点けないで欲しい』そう言われた時から、お部屋はとても暗くてよく見えない。おばあちゃんの優しい笑顔も、私の頭を撫でてくれるちょっと温かい手も。いつもおいでと呼んでくれる声が、私を遠ざけるように部屋に行きなさいと言う。そう言われる度に、寂しい気持ちでいっぱいになる。


「……おばあちゃん」


思い出したら急に怖くなって、お布団から抜け出し部屋を出た。怒られてもいいから、おばあちゃんの顔が見たくなった。大きな音を立てないように、そっとそっと歩いていく。襖を開けて、我慢できずにおばあちゃんに抱きついた。


「おばあちゃん、ごめんなさい!

やっぱり気になって来ちゃったの!」


どうしたのって聞いて欲しくて、ぎゅっとしがみついたまま緊張していた。いつもみたいに、頭を撫でて欲しくて。いつもみたいに笑って欲しくて、恐る恐る見上げてみた。


「えっ……だ、れ?」


目に映るのは、黒。部屋が暗いからじゃない、全てが黒色になっていた。


「おばあちゃん!どうして真っ黒なの!?」


おばあちゃんの優しい笑顔は、いつもきらきらだ。通り過ぎる人達が、振り返るほどに目を引いた。綺麗ね素敵ねって、そんなおばあちゃんは私の自慢でもあった。そんな真っ白で、優しいおばあちゃんが私は大好きだ。なのに今のおばあちゃんは真っ黒で。苦しそうに、白い涙を流していた。


「あや、めちゃっ……戻りなさい……」


「やだ!おばあちゃんと一緒にいる!」


「離しなさい!」


「きゃっ!」


優しい優しいおばあちゃんが、私を突き飛ばした。いつもなら絶対に、そんなことはしないのに。やっぱり、嫌われちゃったのかもしれない。涙が出そうになるのを我慢しながら、顔を上げる。こんな時、目の前の人はいつも怒った顔をしている。目をつり上げて口を閉じて、私を鋭く睨んでいる。なのに、おばあちゃんは泣いていた。


「うっ、うぅ……あやちゃん、ごめんなさい……彩恵、あやめちゃん……っ、ごめんね」


泣きながら謝り続ける姿は、私の知らないおばあちゃんと心優しいおばあちゃんがごちゃ混ぜになっているように見えた。そんな姿を見ていたら、突然思い出した。


「おばあちゃん!お医者さん呼んでくる!」


私の声が聞こえないのか、おばあちゃんはお返事をしてくれなかったけれど。私は走り出した、大事なものを取りに行くために。


「もう!お部屋ぐちゃぐちゃ!どこだっけ!」


部屋に戻り、襖を力強く開け放った。散らばった本を端に寄せ、歩ける場所を作りだす。開いたままの本を、ぺらぺらとめくっていく。


「ちがう!えーっと、えーっと!」


焦る気持ちを落ち着けようと、ふーふーと息を吐きなから部屋をぐるりと見渡す。散らかった部屋の中で、綺麗なままの場所が目に映った。きちんと閉じられた机の引き出し、大事なものをしまうために使いなさいとお母さんに言われていた所だ。勢いよく引き出しを開き、中から大きな絵本を取り出した。薄くて軽いけれど、今日はなんだか重たく感じる気がする。本の表紙をゆっくりと撫で、大丈夫大丈夫と唱えながら本を開いた。


「あった!」


探し物を見つけた私は、散らかったままの部屋を飛び出して全力で走った。おばあちゃんを助けてくれるのは、もうこれしかないと思ったから。息苦しいのに、頭の中ではこれを貰った時のことを思い出していた。ぼんやりとした思い出の中で、お父さんが言っていた。困った時、誰も助けてくれない時。助けを求めることを忘れないで欲しいと。お母さんが話してくれた。私達も困った時、助けてくれた人がいたんだって。お父さんが懐かしいなと言いながら、1枚の紙を渡してくれた。折り紙よりも小さくて、硬い紙。トランプみたいに文字が書いてある。


「お医者さん、お名前……えっと」


困ったら、ここに電話をしてごらん。必ず助けに来てくれる優しい人が、彩恵ちゃんの力になってくれるよ。お父さんもお母さんも、その時笑っていた。難しい文字が並んでいるから、分からなかったけれど。今なら、私にも分かる。

ここに書かれているのは、名前で。横には、電話番号が書かれているってことも。震える手で番号を打ち込み、受話器を耳に寄せた。プルルプルルと音が鳴り、しばらくして音が止まる。


「はい、なにかお困りでしょうか」


淡々とした声が私の不安な気持ちをいっぱいにして、あふれ出てくる涙を止めることもできずに声を出した。


「あのっ……まごころセンターの……ばさし、さん……ですか?」


握りしめて折れ曲がった紙に書かれた文字を、私は必死で読み上げた。お父さんが私でも読めるようにと、書いてくれたひらがなを目で追っていく。ばさしさんのお返事を待っていると、遠くで何かを吹き出す音が聞こえた後。さっきよりも穏やかな声で、自己紹介をしてくれた。


「はじめまして、真心まごころセンターの馬刺まさし しょうと申します。

貴方のお名前を聞いてもいいでしょうか?」


優しい話し方で名前を聞いてきたその人は、私とおばあちゃんの名前を聞くと直ぐに会いに来てくれる事になった。ずっと不安でたまらなかったのに、助けに来てもらえると分かった瞬間に体の力が抜けていくのを感じる。ぽろぽろと流れていく涙は止まらないのに、少しだけ呼吸がしやすくなってきた。


杜若かきつばた 椿つばきさん……おばあ様と彩恵さんのお家は、昔から住んでいる所ですか?」


「はいっ……ずっと同じ家です」


「青色の瓦の屋根で、玄関に杜若の絵が描いてあるお家で合っていますか?」


「はいっ、描いてあります!」


「ありがとうございます。今からピンポンを鳴らしますね」


馬刺さんは、私と話をしながら家までやって来たようで。ときどき息を切らしながら、住所の分からない私の説明を頼りにここまでやって来た。足音が聞こえてくると、受話器を握りしめたまま玄関に走り出す。ピンポンが押される前に、扉を勢いよく開け私は飛び出した。


「ばっ、まさ!おばあちゃん!助けてっ!」


脚にしがみつき、叫ぶように声を上げる。振りほどかれるかもしれない、泣いてはいけないと言われるかもしれない。不安な気持ちでいっぱいだった私に、馬刺さんは真剣な顔でこちらを見下ろし応えてくれた。


「助けます、おばあ様に会わせてもらえますか?」


「っ、はい!」


私は、おばあちゃんの部屋まで引きずるように連れて行った。長い廊下を歩き、4つ目の左の襖。襖の前に立つと、馬刺さんはしゃがみ込み真剣な顔をして私の目を見た。 


「ありがとうございます、ここで待っていて下さい」


「まっ、待って!」


「俺が戻るまで、襖を開けないで下さいね」


「で、でも……わた、し……っ!?」


どうして私を置いていくのか、立ち上がった馬刺さんの顔を見上げる。頬をひくひくとさせ、無理に笑った顔をしているように見えた。おでこに汗があって、手を強く握り込んで。私に背中を向けた馬刺さんは、黒にのみ込まれていった。襖は開いているのに目の前は真っ暗で、トンっと閉まる音がするまで動くことさえできなかった。大好きなおばあちゃんを怖いと思ったのは、この時が初めてだった。立っていることもできず、壁に寄りかかりながらその場に座り込み、ひざをぎゅっと引き寄せた。


「大丈夫、大丈夫……」


いつだって、そうやって自分に言い聞かせてきた。助けを求めることしかでないから、せめて言われたことは守りたい。襖の奥で何をしているのか、おばあちゃんは苦しくないか。馬刺さんが、本当に助けてくれるのか。私には、分からないから。どうか次に目を開けるときは、心から笑えていますように。静かすぎる廊下で、祈るようにおでこをひざにこすりつけていた。


「……彩恵ちゃん」


何かに揺られるように、私の体は浮いている。温かくて大きな何かに包まれて、美味しそうな匂いがする。


「お、ばあちゃん……」


おばあちゃんの声が聞こえた気がして、ゆっくりと目を開ける。私の知っている、きらきらで真っ白なおばあちゃんが私の頭を撫でていた。


「おはよう、彩恵ちゃん」


少し温かい手、優しい声。咳もしていない、泣いて謝ってばかりいるおばあちゃんじゃない。

私のおばあちゃんが、ちゃんと目の前にいる。


「怖い思いをさせて、ごめんなさい」


真っ黒なおばあちゃんにはできなかった、今のおばあちゃんにしがみついて顔をくっつけた。

よかった、ちゃんとあったかい。


「どこか痛いところはない?」


おばあちゃんの手が、私を触りながら確認する。ここは痛くないか、こっちは大丈夫か。本で読んだことがある、手を痛いところにあてて温めると手当てになるんだって。黒くなったおばあちゃんにも、そうしてあげればよかった。私には、できなかったけれど。馬刺さんが、してくれたのだろうか。


「お医者さん……ば!ばさしさんは!」


「はい、馬刺まさしです」


「ま!なんで、ご飯を作ってるんですか?」


割烹着姿の馬刺さんが、台所からひょっこりと顔を出す。周りを見渡すと、色んなお皿が並んでいた。お粥や野菜の和え物。卵焼きに肉団子、お味噌汁にゼリーが置かれている。お夕飯というより、作りたいものをとりあえず作ったような不思議な選び方に思えた。でも、こんなに沢山食べ物が置かれているなんて。


「ふ、ふるこーす!?」


「ふふっ、そうね」


おばあちゃんが笑ってる。馬刺さんも、わらってる。本当に、よかった。


「お台所お借りしました、椿先生。お加減がよしければ、お召し上がりください」


「ありがとう、翔君」


私は悩んでいた。おばあちゃんは元気になって、馬刺さんはお料理をしていて。馬刺さんは、おばあちゃんを先生って呼んでいて。おばあちゃんは、馬刺さんを翔君って呼んでいる。

質問しても、いいのだろうか。あまり質問ばかりすると、先生もため息が出ると言っていた。おばあちゃんも馬刺さんも、困らせたくない。でも、どうやってお友達になったのか知りたい。お医者さんでお料理もできて、とても綺麗な言葉を話すこの人と仲良くなってみたい。


「椿先生、俺から彩恵さんに説明をしても構いませんか?」


「ええ、勿論よ」


「ありがとうございます」


そわそわしていることに気付かれてしまったのか、馬刺さんは私に向き直り微笑みかけた。どうやら、怒ってはいないみたいだ。


「改めて自己紹介させてください。馬刺翔と申します」


「かっ、杜若彩恵です」


「彩恵さんのおばあ様は、私の先生……お師匠様なんです」


「ししょう……忍者みたいなことですか?」


「いい例え方ですね」


馬刺さんは、おばあちゃんに色んなことを教えてもらったそうだ。お料理やお洗濯、お話のしかた。おばあちゃんはとても物知りだから、きっと楽しかっただろう。私も、おばあちゃんにいろんなことを教えてもらっていたから。馬刺さんも同じだと知って、とても嬉しかった。でも、最後に話してくれた事だけはよく分からなかった。


「俺は、魔を祓うお仕事をしています」


「ま、を……はらう……」


「人には見えない黒くもやもやとしたものを取る。と、言えば分かりやすいかもしれません」


「おばあちゃんが真っ黒になったのは、そのもやもやがくっついた……ってことですか?」


「正解です、彩恵さんは理解力がありますね」


まるで絵本の中のお話みたいで、なんだかワクワクしてしまう。おばあちゃんを魔法みたいな力で助けてくれて、正義のヒーローみたいだ。

そんなに素敵な事なら、どうして襖を開けないで欲しいと言ったのだろう。怖いことなんて、ないはずなのに。


「その……黒いもやもやは、どうしておばあちゃんにくっついちゃったんですか?」


馬刺さんが助けてくれるかもしれないけれど、またおばあちゃんが真っ黒になってしまったら。私ができること、を知りたかった。


「……魔は、人の心に入り込みます。苦しい、寂しい、助けて欲しい。色んなつらい気持ちに、くっついてきます」


つらい気持ちに、くっつく。おばあちゃんが病気になったのは、いつだっただろう。咳をよくしていた時、お父さんとお母さんのお葬式の時、私がおばあちゃんのお家にお引越しした時。私が、いる時。おばあちゃんは、とっても苦しかったってことなのかな。


「……私がいるから、苦しかったの?」


落ち着いてきた心が、またざわざわと寂しくなってくる。だめだ、寂しいと黒いもやもやがくっついちゃうんだ。でも、涙が止まらない。


「違うわよ!彩恵ちゃん!おばあちゃん、結構なおばあちゃんなのよ!咳ぐらい出るわ!彩恵ちゃんが迷惑なんて思ったこともないもの!だから泣かないでっ、けほっごほっ!」


「うわぁぁあああ!おばあちゃぁああん!」


「すみません!俺の言い方が良くなかったです!椿先生はお茶を飲んで!あ、彩恵さんも!泣かせてしまい、すみませんすみません!」


困らせちゃってるって分かってるのに、涙は止まらなくって。寂しいって思ってたのに、おばあちゃんに抱きしめられるとあったかくて。馬刺さんは困った顔で、ティッシュを探して走り回ってる。悲しくてあったかくて、寂しいのにおかしいな。もうちょっとだけ、こうしていたい。ちょっとだけ目を閉じて、うずくまっていたい。慌てるパタパタとした音を、いつまでも聞いていたい。そうして次に目を開けた時には、私も、2人も笑っていられるよね。


 遠くから、音ががする。美味しそうな匂いと、トントンとリズムをとった音がする。ゆっくりと目を開けると、私はお布団の中にいた。大きなあくびをして、もぞもぞと布団の中で服を着替える。起きた後は寒いから、いつもこうして頑張っている。


「あら、おはよう彩恵ちゃん」


白い割烹着に真っ白な髪。きらきらで綺麗な、いつものおばあちゃんだ。


「おはよう!おばあちゃん!」


「朝食を食べたら、お支度をしましょうね」


「うん!」


ご飯を食べたら幼稚園に行く、昨日まではすごく行きたくなかったけれど。今日からおばあちゃんが元気だから、私も元気になれる。お隣の家のかずき君も、いつもおばあちゃんを心配していたから喜ぶだろう。黒いもやもやも、私だってやっつけられるかもしれない。馬刺さんみたいに、おばあちゃんを守れるんだ。今度、どうやるのか聞いてみようかな。


「ねぇ、おばあちゃん!馬刺さん、また会える?おばあちゃんのお友達なんだよね!」


「そうね、忙しい子だから……どうかしらね」


「お礼、言えなかったなぁ」


昨日の夜、私が泣き出してから大変だったらしい。おばあちゃんと馬刺さんが私をなんとか安心させようと、いろんなお話をしてくれたのだとか。でも、私は全然覚えていない。ぼんやりとしていて、あったかくて楽しくてよく眠れたことしか覚えていなかった。忘れてしまったことが、なんだか恥ずかしい。


「また会えるわ、その時に言ってあげて」


「うん!」


そうだ、また会える。お父さんとお母さんみたいに、突然会えなくなってしまうこともあるけれど。寂しくなったら、真っ黒がくっついてきてしまうから。おばあちゃんには、ずっと真っ白のままでいてほしい。だから、私も頑張らなくちゃいけない。馬刺さんも『彩恵さんならできます』って、言ってくれたから。幼稚園バスの入口に着くと、帽子をぐしゃくしゃに手に持っている男の子の姿が見えた。


「かずき君!」


「……おはよ」


「おはよう!待っててくれたの?」


「ちげぇーし……おばあさん元気?」


「っ!うん!元気だよ!」


「そ……よかったな」


ご近所さんのかずき君は、いつもすぐ背中を向ける。私は目を見てお話したいけれど、おばあちゃんが人はそれぞれの話し方があるって教えてくれた。かずき君はもしかしたら、背中で語る人なのかもしれない。この前テレビで見たお侍さんが、男は背中で語るもんだと言っていた。私は忍者の方が好きだけれど。そういえば、馬刺さんも忍者みたいにしゃがんで話していた。今度、私も真似してみよう。


「そうだ!私、新しいお友達ができたんだ!」


「そ、そーか……どんなやつ?」


「えっとね、えっと……あ、れ?」


分からない。頭の中には、馬刺さんがいるのに。思い出そうとすると、目が痒くなる。おばあちゃんの友達で、忍者みたいにしゃがんで話す人ってことしか覚えていない。どうしよう。


「どうしたんだよ、まさか忘れたのか?」


「あ、えっと……忍者みたいな人、だよ」


おかしいな、馬刺さんはすごくいい人で。あと覚えているのは、おばあちゃんのお友達だってことしか分からない。もしかして私って、眠ったら忘れちゃう人だったのかな。


「真っ黒ってこと?」


「絶対違うっ!……と、思うたぶん……」


かずき君が言った言葉に、びっくりして大きな声が出してしまった。馬刺さんは真っ黒なんかじゃない。どうしてなのかは分からないけれど、それだけは絶対に違うと思ったから。


「わ、わかったって!怒るなよ」


「お、怒ってないよ!ごめんね」


恥ずかしい、怒ったりするなんて。かずき君は、私に質問してくれただけなのに。下を向きながらバスに乗り込み、よろよろと椅子に座る。嫌われちゃったかもしれない。ぎゅっと手を握りしめ、窓の外を見る。隣に誰も座らなくても、窓を見ていれば気にならない。バスに向かって歩いてくる人を見下ろしていると、椅子がキシッと音を立てた。


「忍者ってことはさ、影うすかったんだろ。テレビで見た、影であんやくするタイプだ!」


音のする方へ顔を向けると、かずき君が得意げな顔をして隣に座っていた。


「え、あ……あんやく?」


「隠れて敵をやっつけるんだ!」


「かっこいい!」


「侍の方が、かっこいいだろ!」


「えー!忍者だって!」


いつもみたいに、お話できてる。おばあちゃんが、元気だった時みたいに。きっと、今は思い出せないだけなんだろう。かずき君が言っていたみたいに、静かな人だったから。帰ったら、おばあちゃんに聞いてみよう。馬刺さんが、どんな人だったか。どんな髪と目の色で、どんな話し方をする人だったのか。おばあちゃんなら、色んなことを教えてくれる。馬刺さんが、どんな髪の色でも、どんな目の色でも、どんな話し方をする人でも。きっと絶対、好きになる。お礼をしたいと思うくらいだから。髪や目が真っ黒でも、かずき君みたいに背中で語る人でも。きっと、おばあちゃんみたいに大好きになる。だから次会う時は、泣かないで貼り付けた笑顔じゃなくて、笑って会えるって信じている。


 パタン、扉が閉まる音が静かな家に木霊する。椿先生は襖を開け、俺を迎え入れた。穏やかな日常に、ほんの少しの闇が差し込んだ。


「翔君、彩恵は……見えていたのかしら」


震えた声で問いかける姿は、愛する孫の未来を憂いているのだろう。無理もない。


「子どもは感受性も豊かですから、感情と視界がリンクすることもあるでしょう」


「でも、もし彩恵ちゃんに何かあったら……」


「5歳であることを、気にしていますか?」


子供は7歳まで神の子と言われ、3歳、5歳、7歳の時に無事に成長できたことを神に感謝する。力の発現も節目の歳であることが多い。彩恵さんが3歳の時、両親が事故で亡くなった。それ以来、彩恵さんは黒色を怖がっていたらしい。事故でのショックの可能性もあるが、特定の色だけを怖がることに違和感を覚えたのだろう。椿先生は、早急に彩恵さんを引き取り育てる環境を整えた。


魔祓まばらいは、己の魔を祓う事はできない。椿先生を祓えるのは、世界でもう俺だけですからね」


幸か不幸か、この世界に魔祓いは俺と椿先生だけしかいない。伝承できる力ではなく、遺伝し発現したものだけが扱える。厄介で、残酷だ。


「この先、誰が彩恵を助けてくれるの!?」


魔祓いの力が目覚めてしまった場合、彩恵さんの魔を祓えるのは俺か椿先生だ。椿先生が危惧しているのは、己の命が尽きた時。そして俺がいなくなった後の未来を恐れているのだ。


「魔に包まれた時、彩恵さんは先生にしがみついたと聞きました。力がない人が触れれば、魔が流れ込むことは稀にあります」


喪服と親戚の言葉が、波のように押し寄せて来たことだろう。言葉と目で見た色を結びつけてしまい、怖がっている可能性もある。


「私は、息子と同じ思いをさせたくないんです……いつか必ず、魔に飲み込まれてしまう」


「……藤吾とうごさん、あんなに優しい人を俺は知りません」


奥さんの皐月さつきさんだって、とても温かい人だった。椿先生が俺を引き取った時だって、魔の扱い方を学べる絵本を作ってくれた。ユーモアのある人達で、俺の名刺を作ったりもしてくれた。いつか何かの役に立つと。


「名前を変えただけでは、あの子を守れなかった。それが私の、人生最大の後悔です」


「杜若……椿先生の旧姓が馬刺だからといって、貴方自身の事まで否定しないでください」


馬刺家は、魔祓いの力を誇りとし親族とばかり関わるようになった一族だ。人には見えない魔を祓い、様々な災いを遠ざけて生きてきた。己の魔を祓えなくとも、互いに祓える存在がいる。その慢心が、後の悲劇を招いたのだろう。魔祓いで生計を立ててきた馬刺家は、力を奪われることを警戒するあまり他者を拒絶し続けた。血縁同士の婚姻、他所の家に嫁ぐことも許さなかった。歪で異常な世界で、希望を捨てなかったのは椿先生ただ一人。親族の目を掻い潜り結婚して杜若となった椿先生は、逃げるように故郷を離れたのだと後に聞いた。


「もっと早く……翔君を連れ出していたら、何か変わっていたのかしら」


椿先生は玄関の扉をずっと見ている。ほんの少しでいい、貴方の未来に希望を感じて欲しい。


「彩恵さんの僅かな魔も、椿先生の膨大な魔も、俺が祓いました」


「そうね」


「魔祓いは秘匿の力、魔を持たない人の記憶に干渉することもできます」


「えぇ、そうね」


「きっと帰ってきたら、彩恵さんは俺を忘れていることでしょう」


「っ!?翔君、あなた!」


魔祓いの力に干渉しやすいのは力を持たない人の特徴だ。魔を祓われた人は、体調を崩しやすくなる。体力を削られ、眠ってしまうことも多々あった。黒いもやが見えた程度では力がある確証はない。ましてや馬刺家特有の欲深い性質を、彼女は持ち合わせていない。馬刺家には無いものを、彩恵さんは持っている。支え合える家族、手を取り合える友人。最後の友人に至っては、彼女自ら手に入れたものだ。


「俺が、馬刺家最後の魔祓いになります」


「そんな重荷を背負わせたくて、魔祓いの使い方を教えたんじゃないわ!」


椿先生の思いが、頬を伝っている。窓から差し込む日差しが、彼女をより輝かせていた。愛する者が誰よりも幸せであって欲しいと強く願い、誰もが手を取り合えると信じた人。欲深く、愛に溢れた人。そんな貴方が育て上げた孫に、魔が差すことなどあり得ない。



「なぁ、その本どうしたんだ?」


「絵本だよ!お父さんとお母さんの!」


「タイトル怖くないか?……怖い絵本のしゅうしゅうかなのか、おまえの家族」


「先生!しゅうしゅうかって、なに?」


和希かずきさんは、難しい言葉を知っているのね?物を集めるのが好きな人のことよ」


「そうなんだ!でも、絵本はこれしかないよ」


「先生も初めて見るわ。どんなお話なのか、教えてくれますか?」


「はい!読みますね『暗闇よ、こんにちは』作・絵 ばさししょう」

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