第76話
ゼアットは変身を解き、鼻の穴を膨らませながら俺のところに来て、胸を張った。
「褒めてあげてください」
可憐な姿に戻ったデアデフイが云う。
「すごい力だ」
実際その時俺は気が気ではなく、多分にぞんざいな云い方になったが、ゼアットは満更でもなさそうに鼻を鳴らした。
俺はユーリップに駆け寄った。ネロドマイガに弾き飛ばされた吸血鬼は、地面にぺったりと座って首を傾げている。さいわい怪我はないようだ。
「痛いところはないか」
「なんぞない」
俺は安心して、自分の十倍以上も歳を重ねた吸血鬼の頭を撫でた。
ユーリップは自分の手を見ながらやはり首を傾げる。
「相当フロイに吸われたようじゃのう」
あの時のくちづけのことを云っている。
「血を?」
「奴は血は吸わん。吸われたのはわらわの力じゃ」
つまりと云ってユーリップは立ち上がった。
「わらわは今、ただの女になっておる」
「ただの女? 人の女ってこと?」
ユーリップはうなずく。俺は試しに懐から干したニンニクを出してみる。吐く。
ニンニクをしまい、俺は尋ねる。
「血はいらない?」
「いらぬ」
「おなか空いてない?」
「空いとる」
俺は腕を出す。
「これと干し肉とどっちがほしい?」
ユーリップはしばらく俺の腕を見つめ、ほ、ほ、ほ、ほ、と壊れたように繰り返した。
「無理するな。ただの人になったんじゃなく、元の吸血鬼に戻っただけだ」
ユーリップの魔王の力はフロイが授けたもの。フロイはそれを取り返したに過ぎないのではないか。そういった、目に見えない力のやりとりなど俺には想像もつかないが、多分そういうことだと思う。
「痛手だな」
ゼアットが云う。それはそうだ。ユーリップの魔王の力の喪失は単純に戦力減だ。それはわかっているが、俺は内心ほっともしていた。
「たとえば人になれるなら、なりたいか?」
ユーリップは唸って小首を傾げた。
「昼に普通に歩けるな」
「うん」
「血を吸わないでもよいな」
「うん」
「カザンの料理が食べられるな」
「そうだ」
ゼアットが言葉を挟んだ。
「いつまでくちゃくちや話してやがる、次行くぞ」
「あ、ああすまない」
次は誰だ。どの魔王を。
各個撃破できるならその方がいい。一人の魔王に集中し、一人の魔王討滅後、回復や身支度の時間を取り、準備を万全に整え、また次の魔王に向かう。
「おい」
黥面文身体格のいい男が立っている。見たことのない男だ。俺が前に出ようとするのを、ゼアットが無言で制した。
「尋常じゃねえ」
男はゼアットを見た。眉毛すら墨で描かれている。
ポポタマがデアデフイの前に出る。
「ユーリップ。ユーリップっ」
ユーリップは男の刺青に見入っていた。
「見覚えある顔か?」
「んむ? いや。器用に描くもんじゃのう」
魔王ではないのか。そんなことはあるまいと、俺は確信めいたものを感じていた。俺は魔王を呼び込む体質なのだ。
男は見た目のイメージそのままの、野太くドスの効いた声で話しはじめた。
「ネロドマイガが徘徊していると聞き馳せ参じたが、ひとあし遅かったようだ。やあやあ、そこな三人は竜人族か。なるほどなあ、三人でかかってこられては、さしものネロドマイガも打つ手なしか」
地面に大きく広がった赤褐色のシミは、魔王ネロドマイガの痕跡だ。刺青の男は漫然と地べたのシミを見る。
「こうなってしまうと相当時間がかかるなあ」
やはり死んではいないようだ。相当時間がかかるとは、復活するのに相当時間がかかるという意味だろう。ひと月か一年か、あるいは二年か。ここまで叩きのめして死なないのなら、復活までの間に封印する術を見つける方が建設的か。
「五百、いや千年か」
まるで桁が違った。俺は呆れると同時に少し安堵する。
身を硬くし再び竜に変わる隙を伺うゼアットに、男は笑いかけた。
「良かったな、姫君が無事戻られて」
ゼアットは眉間に深い皺を掘った。
「だがなあ。貴様の姫は、どれだけ貴様が尽くそうとも貴様には靡かんよ」
「な」
男はジールデールと名乗った。俺はその名を知っている。九人の魔王のひとり、渇望を司っている。
ジールデールは歯を見せにやりと笑った。瑪瑙のような作り物めいた歯だった。
「恋い焦がれ、ているなあ。立場が違う懸想など、罪と同様」
まるで歌うようにそう云って、ジールデールはゆっくりと息を吸った。
「まあ諦めろ」
それはつまり、ゼアットがデアデフイに岡惚れしているということなのか。なにも答えられなくなっているゼアットを見ると、おそらくその推測で間違っていないようだ。
デアデフイに表面上変化はない。ゼアットは喉を鳴らし、額に浮いた汗を拭った。長い間秘密にしていた事柄だったはずだ。いきなり現れた男に心の奥を覗き見られ、衆人のもと引き出され、それは容易に平静ではいられるものではない。
ポポタマはゼアットの肩を叩いた。
「不敬千万」
「違う! お、俺は」
ジールデールは掻き乱す者なのか。次に竜人族の姫を見た。
デアデフイは警戒するように後ずさった。
「まだ食いたい」
「……え」
「食っても食っても腹が減る。愛しく思えば思うほど食いたくなる。やはり愛した男の味は格別かな?」
デアデフイは目にいっぱいの涙を溜め、口を手で押さえた。
「罪なものよ。心を寄せれば寄せるほど、その相手を食いたくなる。それとも竜ならそれが普通か?」
渇望。心の奥にある願い。
「ポポタマ。お前の思いはこの先も届きはしない。お前は絶対に思いを吐露しない。勘の鈍い相手には通じない、永遠にな。俺が伝えてやろうか」
ゼアットがポポタマの胸ぐらを掴んだ。
「おめえも姫様のことを!」
ポポタマは静かにゼアットの手を押さえ、見えない目を見開いて、それ以上はしゃべるなとジールデールに釘を刺した。ジールデールは乾いた笑いを発した。
「お前らはフロイを求めている」
ジールデールは今度はユーリップを見た。
「ドロヴァデッド、だな」
ユーリップは返事をしない。そのかわり野暮天めと呟きそっぽを向いた。心の奥底に眠る願いを曝け出されて、動揺しないものはいない。
俺は問う。
「フロイの居場所を知っているか」
「知っていたとして、教えると思うか?」
秘密にする理由があるとするなら、ジールデールはフロイ側だということ。ならばここで始末をつけなくてはならない。
俺の決意を読んだのか、ジールデールは紋様の入った顔を歪めた。
「ドロヴァデッド、ドロヴァデッドドロヴァデッド、料理、料理料理食い物料理。つまらん奴かと思っていたが、そうか。人間ごときが魔王に楯突くか」
浴びただけで吐き気を催すような黒い圧がジールデールから放たれた。
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