第29話 偶然

そんな状態が続いたある休日、霧はショッピングモールへ向かっていた。最近、ペンのインクが切れたまま放置していたことを思い出し、ついでに新しいノートでも買おうかと考えたのだ。特に深い思いもなく、ただ淡々と歩く。

ショッピングモールの中は休日らしい賑わいを見せている。人々のざわめきの中で、霧は小さく息をついた。


買い終え、帰ろうとエスカレーターに向かう途中、ふと見覚えのある横顔が視界の端に入った。霧は足を止める。

「あれ……白鷺?」

彼女だった。沙羅が、少し先のベンチに腰掛け、スマートフォンを見ながら微笑んでいる。柔らかい日差しが店内に差し込み、彼女の髪をきらめかせていた。霧の胸が思わず軽く高鳴る。


一瞬、声をかけるべきかどうか迷った。けれど、迷っている間に沙羅が顔を上げ、視線が霧とぶつかった。

「あ……桐崎君?」

沙羅は驚いたように目を丸くし、すぐに小さな笑顔を浮かべた。その笑顔に、霧の中の迷いは一瞬で吹き飛ぶ。

「偶然だな。こんなところで何してんの?」

霧が歩み寄りながら尋ねると、沙羅はスマートフォンを両手で握りながら微笑んだ。

「ちょっと待ち合わせしててね。早く着いたから、時間つぶしていたの」

「待ち合わせ?もしかして鳳条さんと?」

「ううん、違うよ。…桐崎君、ここ空いているし座ったら?」

霧は沙羅の隣に腰を下ろし、少し間を置いてから視線を彼女に向けた。休日の喧騒が辺りを包み込んでいるはずなのに、彼女の周囲だけは不思議と静かな空気が流れているように感じた。

「こんなところで会うなんて、意外だな」

霧がぽつりと言うと、沙羅は柔らかく笑った。

「意外?桐崎君だって、普通にこういうところ来るでしょ?」

「まぁ、そうなんだけどさ。白鷺はお嬢様だからもっと敷居が高いところにしか行かないイメージだったんだよ」

霧が冗談めかして肩をすくめると、沙羅は驚いたように目を見開き、それから小さく吹き出した。

「そんなイメージ持ってたの?私、そんな人じゃないよ。普通にこういうところも来るし、ファストフードも食べるし」

「本当か?信じられないな。白鷺って毎日懐石料理を食べているイメージだけど」

「なにそれ」と沙羅はくすりと笑いながらも、どこか嬉しそうだった。

「でも、桐崎君が思っているより、私は普通だよ」

沙羅のその言葉に、霧は少し笑みを浮かべたあと、わざとらしく首を傾げてみせた。

「白鷺で普通なら、俺は普通以下ってことになるな」

「そうだね……うん、そうかも」

沙羅は冗談めかしてあっさりと頷き、微笑みを浮かべた。

「おい、そこは否定するとこだろ!」霧は軽く声を張り上げたが、その口調には怒りの色はなく、むしろ沙羅の反応を楽しんでいるようだった。

「だって、桐原君が自分で言ったんでしょ?」

沙羅はいたずらっぽく笑いながら霧を見上げる。その表情が無邪気で、霧の胸がまた少しだけ跳ねた。


「……ま、いいけどさ。それにしても、待ち合わせって何時からなんだ?」

霧はさりげなく話題を変えた。少し間を置くことで、自分の高鳴る鼓動を落ち着けようとしたのだ。

「えっと、あと30分くらいかな」

沙羅は腕時計をちらりと見て、答えた。

(30分か……意外と時間あるな)

霧は心の中で決意を固める。今こそ、三条に邪魔されずに話せるチャンスだ。このチャンスを逃す訳にはいかない。

少し緊張した面持ちで、霧は沙羅をちらりと見た。

「あのさ、白鷺……突然だけど、ずっと言いたかったことがあるんだ」

その一言に、沙羅は目を瞬かせ、霧を見つめた。

「…言いたかったこと?」

その問いかけに、霧の胸はさらに鼓動を早める。けれど、逃げるわけにはいかなかった。

「俺さ……」

霧は息を吸い込み、心臓が喉元まで上がるような感覚の中、言葉を続けようとした――そのとき。


「沙羅!」

どこかから声が響き渡る。その声は雑踏を割って響き、霧と沙羅の間に横たわっていた空気を一瞬で吹き飛ばした。

驚いて二人が声の方を見ると、二つの影がゆっくりとこちらに近づいてきた。最初に目に飛び込んできたのは、白のリネンシャツに、ベージュのスラックスを合わせた男性の姿だった。シャツの袖は肘のあたりまで無造作に折り返されており、手首にはシンプルながらも一目で高級と分かるプラチナの腕時計が見えている。


全体的に無駄のない洗練されたスタイルだが、表情は柔和そのもの。その佇まいには、見る者を自然と惹きつけるような落ち着きと、大人の風格が漂っていた。

その隣を鳳条瑠璃が控えめなポピーレッドのワンピースを身にまとい、髪を後ろでゆるくまとめた姿で歩いていた。

ワンピースの裾が歩くたびに揺れ、季節の風を感じさせる。彼女は相変わらずの冷静な表情で、隣の男性と歩調を合わせながらこちらへ向かってくる。


「沙羅、待たせちゃった?」

その男が軽やかな声で言うと、沙羅は驚きながらも笑顔を浮かべた。

「あれ、来るの早かったね。どうしたの?」

沙羅の声には親しみが込められており、その言葉に霧の胸がざわつく。

霧はその場に立ち尽くしながら、二人のやり取りを見つめていた。

気まずさを誤魔化すように目を逸らそうとしたその瞬間、瑠璃の視線が鋭く霧に向けられる。まるで「なんであんたがここにいるの?」と言わんばかりの眼差しだった。

「たまたま予定が早く終わったからね。沙羅を待たせるのも悪いし、早めに来たんだ」

男の柔らかな声が続く。彼は軽い微笑みを浮かべたまま、沙羅に視線を向けている。その余裕ある態度に、霧は無意識に拳を握りしめていた。

「瑠璃ちゃんと一緒に来たの?」

沙羅が少し首をかしげながら尋ねると、男は穏やかな微笑みを浮かべたまま軽く首を振った。

「いや、さっき偶然会ったんだよ。久しぶりだったから、少し話してた」

その言葉に、瑠璃が横で小さく頷く。


「で、桐崎君はどうしてここに?」

瑠璃が霧に向き直り、冷淡な声で問いかけた。まるで自分がここにいることが不自然だと言わんばかりの態度だった。

「俺も鳳条さんと同じだよ。買い物にきたらたまたま白鷺と会って、話していただけ」

「ふうん、そう」

その冷ややかな表情の中には、どこか探るような鋭さがあった。沙羅は気まずそうに笑い、霧と瑠璃の間の微妙な空気を察しているようだった。

「君は沙羅の友達?」

男は穏やかな微笑みを浮かべながら声をかけた。その突然の問いかけに霧は少し戸惑ったが、すぐに短く頷いた。

「ええ、まあ……そうです」

「へえ。沙羅に男友達がいるなんてな」

男の冗談めかした口調に、霧はどう返していいかわからず、ただ曖昧に笑ってみせた。

「これからも、沙羅のことよろしく頼むよ」

「ね、ねえ!早く行こうよ!」

沙羅が急に慌てた声を上げ、男の腕を軽く引いた。

「じゃあ、また学校でね」

沙羅は短くそう言って、気まずそうな笑顔を浮かべたまま、その場を離れ始めた。柔和な男性も軽く手を振り、二人は雑踏に紛れてどこかに行ってしまう。

残された霧はその場に立ち尽くし、どこかもやもやした感情を振り払おうとしたが、隣から刺さる視線がどうにも落ち着かない。気づけば、瑠璃がじっと霧を見つめている。相変わらず冷静で、どこか探るような瞳だ。 


霧はその視線の強さに耐えかねて、苦笑いを浮かべながら軽口を叩いた。

「そんなに見つめてどうしたの、鳳条さん。俺に何か言いたいことでもある?」

「そうね、あなたが今何を考えているのかは、少し気になるわね。まあ、聞かなくても何を考えているのかは大体察しがつくけど」

霧は少し眉をひそめた。

「察しがつくって…勝手に決めつけるなよ」

軽く反発するように言いながら、霧は目を逸らした。

「あの二人がどういう関係なのか気になっているんでしょう?桐崎君がどうしても教えてほしいっていうなら、教えてあげるけど」

霧は瑠璃の言葉に一瞬ぐっと息を飲み込んだが、表情には出さないよう努めた。

「いや?白鷺が誰といようが、俺には関係ないし」

霧はわざとらしく軽い口調で答える。その言葉は自分の本心とはかけ離れていたが、瑠璃の予想通りの反応はしたくなかった。

「あら、そうなの。意外だわ。まあ、沙羅にはもうちゃんと理解してくれる人がいるんだから、あなたが入り込む隙なんてないってことがはっきり分かったでしょ?」

瑠璃はからかうように言葉を並べながら、霧の反応を楽しむかのように小さく笑う。

霧は一瞬だけ瑠璃の挑発に心を乱されそうになったが、すぐに表情を引き締めた。ここで感情を露わにするのは、相手の思う壺だ。

「鳳条さん、なんか勘違いしていない?俺はただの友達で、白鷺と付き合いたいとか思っていないよ」

言い放った瞬間、自分の胸の奥が少し痛むのを感じた。それでも、瑠璃の視線に負けたくなくて、口元に薄い笑みを貼りつける。

瑠璃はじっと霧を見つめたまま、微かに眉を上げた。次の瞬間、ふっとため息をついて肩を落とし、わざとらしく首を振った。

「あら、嘘はやめてほしいわ。せめて私には本音を言ったら?」

まるで霧の心を見透かしたかのような瑠璃の言葉に、冷や汗が背中を流れるのを感じた。

「嘘って……別に嘘なんかついてないけど?」

霧は平然を装い、再び肩をすくめて見せた。しかし、その声にはわずかな震えが混じっているのを自分でも感じていた。瑠璃は、そんな霧の態度を見逃さなかった。

「そう?じゃあ、なんでそんなに声が震えているのかしら。嘘をついていないなら、もっと堂々とすればいいのに」

「気のせいじゃない?それに鳳条さんは俺が何を言おうと、どうせ信じないだろ?」

霧は自嘲気味に言い返す。

「そうね、確かにあなたみたいな人は信じられないわ。下心が見え見えだもの。気付いていないのは沙羅ぐらいよ」

「下心って……だから勝手に決めつけるなよ。俺はそんなつもりじゃない」

「決めつけたいわけじゃないわ。ただ、あなたの態度や反応を見ていると、どうしてもそう感じてしまうの。堂々巡りになるからこの際、はっきり言わせてもらうけど」

そこで瑠璃は一瞬言葉を飲み込み、深く息を吸い込んだ。そして、落ち着いた声で続ける。


「あなたが沙羅のことを本気で好きなわけじゃないことくらい、私にはわかるわ。目的は別にあるのでしょう?沙羅は優しすぎるから、あなたのような人にも親切に接してしまう。その優しさを利用しようとしているのなら、幼馴染みとして見過ごすわけにはいかないのよ」

瑠璃の冷静で鋭い言葉に、霧は核心を突かれたような気持ちになる。しかし、それを表情に出さないようにと全神経を張り詰め、軽く笑って見せた。負けるわけにはいかない。

「目的って何だよ?俺はただ、白鷺と普通に話してるだけだろ。それに、俺が白鷺に何かした訳でもないし。流石に偏見が過ぎるんじゃないか」

「まだ何もしていないのは分かっているわ。でも、これから何かする前に阻止しておきたいのよ。…だって、目的はお金でしょう?」

雑踏の喧騒が遠のき、瑠璃の言葉が鋭く霧の胸を刺すように響いた。

「……お金?」

霧は一瞬言葉を失ったが、すぐに笑みを浮かべて切り返した。

「何言ってるんだよ。俺がいつ白鷺に金くれなんてこと言った?そんなことは一度もないんだけど」

「確かに、まだ口に出したことはないようね。でも、そんなのは当たり前でしょう。まだ深い関係になれていないのにそんなことを口に出したら、あなたの計画はその瞬間に崩れるもの」

「計画?冗談きついな。そんなもの、俺にはないよ」

霧は笑いながら手を広げてみせる。だが、その笑顔はどこかぎこちない。

「例えば、沙羅のようなお嬢様と親しくなることで、将来的に何か便利な立場を手に入れるとか――そういう『夢』を見ているんじゃない?」

その一言に、霧の心臓が大きく跳ねた。体が一瞬、固まったのを瑠璃は見逃さなかった。


「まさか……そんなこと考えてるわけないだろ」

霧は笑いを浮かべながらも、声が微かにかすれているのを感じた。瑠璃は、そんな霧を試すようにさらに言葉を重ねる。

「私にはそう見えないのよね」

彼女はまっすぐ霧の目を見つめ、続けた。

「沙羅は優しい子だから、あなたがどんな背景を持っていても拒絶はしないでしょう。でもね、優しい人を利用しようとする人を私はたくさん見てきたの。だからこそ、私は沙羅の代わりにそういう人を排除したい」

「排除って……俺が何か悪いことをしたって言うのかよ?」

霧は肩をすくめてみせたが、内心は冷や汗が止まらなかった。瑠璃の言葉は、霧の心に隠した願望を的確に見抜いている。


「まだ何もしていないのは事実ね。でも、私の勘はきっと間違っていないわ。あなたの言動、目線、仕草――全部が『目的』の存在を示している」

瑠璃は一歩近づき、声を低くして言った。

「だから、忠告しておくわ。沙羅に近づくなら、その『目的』を捨てなさい。でなければ――」

瑠璃は言葉を止め、一瞬霧を見つめる。


「でなければ、あなたがこれ以上沙羅に近づくことは、絶対に許さない」


霧はその場に立ち尽くし、言葉を失ってしまった。彼女の目に宿る確固たる信念に圧倒される中で、彼の胸の中には焦りと悔しさがじわじわと広がっていく。

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