第27話 距離

沙羅は、霧の態度が少しずつ変わっていることに気づいてはいた。以前のように気軽に話しかけてくることも、さりげなく助けてくれることも減った。それでも最初のうちは特に気にすることもなく、「桐崎君も忙しいのかな」くらいに軽く流していた。霧との距離感に変化が訪れていることを最初は深く考えなかった。


だが、日が経つにつれて、彼が他の女子たちと親しく話す場面を目撃する機会が増えると、沙羅の胸には小さな刺のような違和感が芽生え始めた。その明るい笑顔、優しい言葉遣い──それらは以前は間違いなく自分にも向けられていたはずだ。

それなのに、どうして最近は自分にはそっけないのか。彼の視線が自分を捉えることが少なくなり、その笑顔が自分から遠ざかっていることを、彼女は次第に自覚し始めた。気づけば霧の行動を目で追ってしまう瞬間が増えていく。


彼がふと目の前を通り過ぎるとき、わずかな期待とともに「声をかけてくれるかな」と思う自分がいる。そして、その期待が外れるたびに、「前は違ったのに」という小さな寂しさが胸をよぎる。彼の存在が少しずつ遠く感じられるその違和感が、どうしても拭いきれなくなっていた。


昼休みの教室、沙羅の机の周りには数人の友人たちが集まり、何気ない話題で盛り上がっていた。その中で、ふと話題が霧に移った。


「ねえ、桐崎って最近、女子とよく絡もうとするよね」と友人の一人が、何気なく口にした。

「わかる!ちょっと女子と話すの好きすぎじゃない?あれ、逆に引くよね」もう一人が声を上げ、周りが軽い笑い声で応じる。沙羅は無理に笑みを浮かべようとしたが、顔が引きつりそうなのを感じた。

「ねー!この前なんてさ、プリント配るの勝手に手伝い出して、周りの子が“優しい~”って言ってたけど、別に頼んでないしって思わなかった?」

友人たちの軽い悪口に、沙羅は表情を変えることなく少し俯いた。だが、その耳は彼女たちの会話を逃さず拾っている。

「でもさ、なんだかんだで便利じゃない?桐崎みたいな人って」

「まあ、そうだね。言い方はアレだけど、使えるよね」

その場がまた軽い笑い声で包まれるが、沙羅は笑いに加わることができなかった。心の奥で、何か小さな刺のようなものがひっかかっている。

「意外と気が利くっていうか、別に悪いやつじゃないよね。でも、女子にばっか絡むのはどうなの?って感じだけど」

友人の一人が言葉を継ぐと、周りから「それな!」と声が上がった。沙羅は静かにノートに視線を落としながら、指先でペンをくるくる回す動作を止めない。

「ねえ、沙羅はどう思ってるの?」

唐突に話題を振られ、沙羅はペンを止めて顔を上げる。

「どうって……別に、普通かな」

沙羅の言葉に、友人たちは「そっか」とあっさり引き下がった。だが、沙羅自身、その言葉にどこか引っかかりを覚えていた。自分で言った「普通」という言葉が、どうにも嘘くさく響く。


「でも、最近沙羅には絡んでこないよね、桐崎って」

友人の一人が笑いながらそう言うと、沙羅は思わず「え?」と声を上げた。そして友人たちの視線が彼女に集中していることに気づき、すぐに目をそす。手元のペンを無意味にいじりながら、努めて平静を装う。

「そうそう。沙羅と桐崎って仲良い感じだったのにね。何かしたの?」

「沙羅じゃなくて、桐崎が何かしたんでしょ?」

別の友人が笑いながら突っ込むと、周りからも同調する声が上がった。沙羅は一瞬笑顔を作ろうとしたが、口角がうまく上がらず、ただ曖昧にうなずくことしかできなかった。

「で、何されたの?」

別の友人がさらに話を振ると、沙羅の胸がぎゅっと締め付けられる。冗談交じりのその問いに、沙羅は一拍遅れて首を横に振った。

「別に……何もされてないよ。本当に何もないから」

沙羅がそう答えると、友人の一人が「そうなの?」と軽く肩をすくめた。「まあ、桐崎に絡まれなくなったんなら、逆に良かったんじゃない?」

沙羅はぎこちない笑顔を浮かべる。

「私なんかこの前さ、桐崎に“荷物多いなら持つよ”って言われたんだけど、別にそんなに重くないのになんか押し切られてさ」

と友人の一人が言い出した。迷惑そうな口ぶりだったが、どこか得意げな響きが含まれているのを沙羅は聞き逃さなかった。

「あー私もこの前、プリント落としただけなのに、拾うのめっちゃ張り切られてさ。別に自分で拾えるけどって感じだけど、なんか断れなくて」

と別の友人が肩をすくめる。けれど、その語尾にはどことなく満更でもない響きが感じられた。

「なんだろうね、あのさりげない優しさアピール。女子にいい顔したいの丸わかりじゃん」

また別の友人が茶化すように言うと、周りから軽い笑い声が漏れた。

沙羅はうなずくふりをしながら、手元のペンを再びぐるぐると回していた。会話が軽い笑いとともに流れていく中、心の中に小さな違和感が居座り続けていた。彼女たちの話を聞けば聞くほど、なぜか胸がざわつく。


友人たちの笑い声が少しずつ遠ざかるように感じられた。話題はすでに別の方向へと移り、誰かが芸能人のスキャンダルについて話し始めていたが、沙羅の耳にはあまり入ってこない。


(私、何かしちゃったのかな)


自分の記憶を遡っても、思い当たる節はない。ただ、それが返ってモヤモヤを増幅させる。まるで霧の変化に対して、自分だけが置いていかれているような感覚。

友人たちが言うように、距離を置かれていることには気付いている。でも、それがなぜなのかは分からない。


自問しても答えは出ない。ただ、胸の中で静かに広がる違和感は、次第に霧の姿ばかりを思い浮かべさせる。冷静でいたいのに、どうしても落ち着けない。そのことが、自分でも少し怖かった。



沙羅は、最近の霧の態度に振り回されている自分を自覚していた。その態度は気まぐれな潮の満ち引きのようで、冷たく遠ざかったかと思えば、不意に暖かい波が寄せてくる。その繰り返しに、彼女の心はいつもざわついていた。

たとえば、昼休みのこと。沙羅が飲み物をこぼしたとき、真っ先に気づいてティッシュを差し出したのは霧だった。「ほら、使えよ」と、自然な口調で言いながらティッシュを手渡してきた。

その何でもない優しさに、沙羅は少し戸惑いながらも「ありがとう」と小声で言った。けれど、彼は「気にするな」と軽く手を振るだけで、特に目を合わせることもなく立ち去ってしまった。その一連の行動は逆に霧の不安定さを感じさせた。


だが、次の日になると、また距離を取ってくるのだ。教室で何気なく話しかけたときも、「ああ」と短い返事で終わらせ、特に会話を広げようとする素振りも見せない。

他の女子と楽しげに笑っている彼の姿を目にするたびに、沙羅の中で何かがわずかに疼く。


(なんであのとき優しかったのに、次の日はこんなに風になるの?)


休み時間。沙羅は教室ので読書をしていた。なんとなく視線を巡らせると、霧が教卓の前でクラスメイトの女子と話しているのが目に入った。

手には女子が持ってきたノートらしきものがあり、何かを指さしながら説明している。


心の中に、小さな棘のような違和感が引っかかる。それでも、顔には出さずに友人たちの会話に相槌を打っていた。


そんなとき、不意に霧が沙羅の方へ歩いてきた。少し緊張したが、彼は沙羅の席の隣を通り過ぎ、窓際に座る別の女子に「さっきの問題、分かった?」と軽く声をかけていた。その自然な振る舞いに沙羅は少し驚き、同時に胸の中がじんわりと重くなる。


ふと、霧が誰かの呼びかけに応じて振り返る。その動作が一瞬、沙羅の目に止まった。そして彼の視線が一瞬、沙羅を掠めた気がして、沙羅は思わず目を逸らした。

それから数分後、沙羅が教室の後ろで自分のロッカーを開けていたとき、背後から声が聞こえた。


「白鷺、これお前の?」


振り返ると、霧がプリントを手に立っていた。確かに自分の名前が書かれているその紙を見て、沙羅は「あ、うん……ありがとう」と受け取る。

「なんで桐崎君が持ってるの?」

「床に落ちてた。気づかないのかと思って」

「あ……そうだったんだ。ごめんね」

「別に謝ることじゃないけど」

霧は軽く笑い、そのまま教室を出て行った。その笑顔が妙に眩しく見えた沙羅は、受け取ったプリントを握りしめながら、胸が妙にざわつくのを抑えられなかった。


しかし、翌日になると、霧はまた何事もなかったかのように距離を取っていた。話しかけると応じてはくれるけれど、それ以上の会話は続かない。他の女子と話すときの彼の軽やかさとはまるで別人のようだ。


沙羅は自分の胸の中に渦巻く感情に戸惑いを覚える。彼の優しさに触れるたびに、その後に続く冷たさが、まるで甘い夢から醒めるように心を揺さぶってくるのだ。



夕焼けに染まる帰り道、沙羅と瑠璃は並んで歩いていた。賑やかさが少しずつ薄れ、道端に立つ電柱の影が伸びる中、沙羅は俯いたまま歩を進めていた。


「ねえ、瑠璃ちゃん」と沙羅がそっと声をかける。その声はどこか迷いを含んでいて、瑠璃はすぐに気づいた。

瑠璃は沙羅をちらりと見ながら、わずかに歩調を緩めた。

「どうしたの?元気ないみたいだけど」

沙羅は一度息をついてから、重そうに言葉を紡ぎ出した。

「桐崎君のことなんだけど……」

「桐崎?」

瑠璃の声が冷たくなった。

「あのお調子者が何かしたの?」

「何かされたわけじゃないの。でも、最近ちょっと冷たいっていうか…普通に優しいときもあるんだけど…」

沙羅はうつむきながら、地面をじっと見つめた。

瑠璃はふっと立ち止まり、沙羅の顔を正面から覗き込んだ。その視線は優しさと苛立ちが入り混じった複雑なものだった。

「沙羅、それ本気で悩んでるの?」

沙羅は困ったように目を泳がせたが、すぐにうなずいた。

「うん……桐崎君、前は普通に話してくれたのに。最近、急に距離を置かれてる気がして……私、何かしちゃったのかな?」

瑠璃は少し黙った後、また歩き出した。沙羅も慌ててその後を追う。

「桐崎君みたいな人は、わざとやってるに決まっているのよ」

瑠璃は片手を腰に当てながら、少し首を振った。

「冷たくして、沙羅が気にしてるのを見て、優しさで帳消しにする。で、また冷たくなる。そうやって、沙羅を振り回して楽しんでいるの」

「そんな人じゃないと思うけど……」沙羅は弱々しく反論したが、言葉には確信がなかった。

瑠璃は沙羅の反論を聞いて、少しだけ目を細めた。歩調を緩めながら、鼻で笑うような声を漏らす。

「沙羅、あなた、本当に純粋っていうか……お人好しなのよ」

「え?」

沙羅が困惑した顔で瑠璃を見る。

瑠璃は肩をすくめ、振り返りざまに沙羅をじっと見つめた。その表情は呆れと優しさがない交ぜになっている。

「いい?桐崎君みたいな男が自分から距離を置いてくれるなら、むしろ喜ぶべきなのよ。あんな人が近くにいたら、滅茶苦茶にされるだけなんだから」

「でも……」

沙羅は視線を落とし、靴の先で地面を軽くこすった。

「桐崎君て瑠璃ちゃんが思っているより、優しい人だと思うよ」

「そう?優しさっていうのはね、見返りを求めないもののことを言うのよ。桐原君のそれは優しさっていうより、ただのパフォーマンスなの」

瑠璃の口調は冷静だったが、どこか刺すようなものが含まれている。それでも、沙羅の肩にそっと手を置く仕草は優しい。


「それにね、沙羅がどう思っていようと、男の方が先に距離を置くっていうのは、だいたい計算か興味がなくなった証拠よ。で、どっちにしろ、そんなことに振り回されてるのは時間の無駄じゃない?」

沙羅は瑠璃の言葉に反論しようとしたが、声が出なかった。ただ、胸の奥にチクチク棘が刺さるような感覚を覚える。それは瑠璃の言葉が的を射ていると思ったからなのか、それとも自分がそれを認めたくないからなのか、沙羅自身にも分からなかった。


「……どうして、瑠璃ちゃんはそんなに桐崎君に厳しいの?」

「別に、厳しいつもりはないのよ。ただ……見ていてイライラするのよね。ああいう人」

「でも、それだけでそんなに嫌うかな……?」

沙羅が恐る恐る問いかけると、瑠璃はふっと笑みを浮かべた。その笑みにはどこか冷たい影があった。

「沙羅には分からないかもしれないけどね、私、桐崎君みたいな人を見ると、つい勘ぐってしまうの。心の中では別のことを考えながら、表では優しい顔をしているんじゃないかって」

その言葉に、沙羅は黙り込んだ。瑠璃の語り口には、ただの偏見以上の何かが滲み出ていた。


瑠璃は立ち止まり、軽く息を吐いた。そして、空を見上げながら、どこか遠い記憶を追いかけるような声で言った。

「……昔ね、似たような人がいたの。表向きは優しいけど、結局は自分勝手で、周りを巻き込むだけの人。それがどれだけ面倒を引き起こすか、私は知ってるのよ」

沙羅は瑠璃の横顔をそっと見つめた。その目はどこか遠い場所を見ているようで、普段の冷静で強気な瑠璃とは違う印象を受けた。沙羅は迷いながらも、どうしても気になって口を開いた。


「瑠璃ちゃん、その人って……」

最後まで言葉を紡ぐことができず、沙羅は唇を噛んだ。瑠璃が何を思い出しているのか、沙羅にはうっすらと察しがついていた。

けれど、それをはっきりと聞くことで瑠璃に余計な痛みを与えるのではないかと思うと、言葉にできなかった。


「別に、もうどうでもいい話よ」

瑠璃は沙羅の気遣いを察したのか、強引に話を切り上げるような口調で言った。視線を空から沙羅に戻し、少しだけ笑ってみせる。その笑みは、どこか寂しげだった。

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