4 一柳 由美恵
区立男女共同参画推進センターのホールは、20名の女性で埋まっていた。今回の「女性のための離婚法律講座」の募集定員が20名なので、満員ということなのだろう。一柳由美恵はとりあえずホッとした。土曜日であるが、あいにくの雨模様のため、駅から10分ほど歩く立地のセンターに果たして受講者が来てくれるのか、少しだけ不安を抱いていたのである。定刻となると、上座の白い長テーブルについている進行役の中島という人権係長から、講座の録音録画の禁止や、飲食についての注意事項の説明があった後、「それでは一柳先生、宜しくお願いいたします」と紹介されたので、由美恵は黒いヒールを鳴らしながら、壇上にゆっくりと上がった。
由美恵は東京都の弁護士会に所属する弁護士だ。もう30年程度のベテランになる。現代は3組に1組が離婚する時代、由美恵の事務所にも離婚に関連する案件が、日々ひっきりなしにやってくる。だがそのうちの7割程度は「その理由では離婚できないでしょ・・・」というものばかり。相談者にそれを伝えると、大概「じゃあどうすれば離婚できるんですか?」と聞かれるので困ってしまう。離婚は、理由を後付けしてまで強引に進めるようなものではない気がするのだ。
由美恵が今回のような自治体講座の講師を務めるとき、気を付けていることがある。それは自分の事務所で話すよりも、与える情報の公益性が高くなってしまうことだ。「自治体主催の講座」という看板が一枚つくことで、由美恵の言った内容が、まるで自治体のお墨付きを得ているかのように誤解される傾向がある。「一柳弁護士が言っていた」から「区役所の講座で言っていた」という変換が、無意識に引き起こされてしまうのだろう。昨年、都内の別の区で実施された女性限定離婚講座の中で、「DVや虐待から命を守るための避難」ではなく、「子の親権を強奪するために、夫と合意なく子を連れて別居するべし」という指南が行われ、その音声がSNSに流出したことがあった。また同じ講座の中で、別居時の夫婦の財産残高を均等に分ける「財産分与」制度を歪曲し、事前に夫に分からないように預金残高を減らした後で別居するような手法も指南されていた。事前に財産を隠しておくことで、相手と分与する額を減らしておこう、というわけだ。こちらもSNSに音声流出し、大変な炎上が起きた。結果として、その弁護士は所属弁護士会や講座を主催した区に謝罪したのち、表舞台に出てこなくなってしまった。だが音声がSNSに流出しなければ、問題のある指南が現在も続いていただろうし、そもそも録音してはいけない講座を区役所で実施してよいのか、由美恵は疑問に感じる。後から講座内容の検証ができなくて困るのは、主催者である自治体側なのではないだろうか。
由美恵は、ある日突然子どもを連れ去られ父親からの相談を受けたことがある。その顔には生気がなく、疲れ果てた様子で由美恵の事務所にやってきた。聞くと、DVや虐待の類は一切していないにも関わらず、DV等支援措置をかけられていて、子どもと妻の現住所が不明のまま、音信不通状態になって3か月とのことだった。DV等支援措置は、住民基本台帳法に基づく事務の運用で、DV加害者や児童虐待者、ストーカー等からの住民票の写し等の交付請求があった場合には、「不当な請求であるとして行政が交付を拒むことができる」という内容のものだ。その仕組み自体は正しい、と由美恵は思う。だが問題は、何の証拠がなくても被害者からの申出さえあれば、誰でもDV加害者にされてしまう点にある。このDV等支援措置の不正利用が先の「親権奪取のための子の連れ去り」と組み合わされることで、何ら落ち度のない親から子を奪い取り、親子断絶させるスキームが出来上がっているのだ。結局その父親には、親子交流の調停を申立てすることなどを一通り説明した後、
「絶対に死なないこと」を約束させた。親の死が幼い子どもに与えるダメージは計り知れないし、何より婚姻中に死んでしまっては、連れ去り親の思う壺になってしまう。
ふう・・・と由美恵は少し深呼吸をした。DVや虐待から女性や子どもを守ることはとても重要だし、大切な仕事だ、とも思う。だがその一方、女性保護が過熱しすぎた結果として「子の連れ去り」をきっかけに始まる離婚の係争が増加しているのも間違いないし、手も足も出ず、泣き寝入りを強要されている親がいるのも事実だ。そちらを軽視して良い、という理屈にはならない。何より、それまで暮らしていた世界から突如断絶され、喪失を強要される、連れ去られた子どもはどのような人生を送ることになるのか。由美恵は想像するのも恐ろしい、と感じる。
「皆さんこんにちは、弁護士の一柳です。本日はお足元の悪い中お越しいただき、ありがとうございます。それでは早速ですが、レジュメの一枚目からいきますね」由美恵は右手にワイヤレスマイクを握り、「少しゆっくり」を意識しながら話し始めた。
夕暮れのヤジロベエ @penguin_chan
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