夕暮れのヤジロベエ
@penguin_chan
1 三田村 茜
「いらっしゃいませ。空いているお席へどうぞー」入り口の自動ドアが開く音に反応して、三田村茜は言った。平日の朝8時。駅から少し距離のある喫茶店「メロウ」に、この時間に訪れる客は少なく、大半が近所の常連さんである。少なくとも今いるお客さんについて、茜は全員の名前を言える。メロウはマスター夫妻が趣味の延長でやっているような個人の喫茶店だ。売りは、桜並木通りに面した窓以外、特にない。こぢんまりした喫茶店で、バイトしている側から言わせてもらえば「ちょうどいい」お店だ。毎日、朝昼夜にそれぞれ学生バイトが一人ずつ入いるが、茜がいる朝シフトが一番楽なのだそうだ。そう言われてみると、茜はバイト中のほとんどの時間をマスターの宮國泰男とおしゃべりして過ごしている。こんな経営状態で、利益が出ているのだろうか。茜は、ひとりの親戚として気になるのだった。
マスターの泰男は、茜の母親の弟である。つまり叔父にあたる人物だ。若い頃は仕事が長続きしなかったようで、今も喫茶店をさほど真面目にやっているようではない。子どもはおらず、ひたすら妻の美穂には苦労をかけっぱなしのようだが、夫妻揃って明るい性格なので茜は好きだ。
「茜、クライさん来てるわよ」美穂がバックヤードでこっそり教えてくれた。美穂は別にメロウで働いている訳ではないのだが、毎朝必ず顔を出し、BLTサンド用のトマトや、生クリームなど、何かしら足りないものを買ってきてくれるし、混雑時にはレジも担当する。要するにお店が好きで、結局マスターの事を心配してしまうタチなのだと思う。
「マスター、買い出し自分でやってよね。もう、私がいないとどうなるんですか?」と美穂が少し怒ったふりをしてマスターに詰め寄っても、マスターは
「へい。助かりやす。そこ置いといて。えーと、ピクルスはどこだったかなぁ」と、どこ吹く風だ。それでも二人は結婚して30年近いと聞いている。継続には、適度な距離感が必要なのかな、と二人を見て茜は思うのだった。
「分かりました。私行きますね」そう言うと、茜は水の入ったグラスとおしぼり、メニュー表をトレンチに乗せて件の男性客のテーブルの方へ歩き出した。茜は平日の週4日、この店の朝シフトで勤務している。朝シフトは、7時30分から13時までだ。そこで昼シフトと交代する。本来はそうなのだが、3年勤めているうちに、ランチの忙しいピークが落ち着くまでは、残ってあげることがいつの間にか慣例になってしまっていた。残業代は出ないが、マスターから頼られるのは何となく気分がいいし、時々ハーゲンダッツアイスやドーナツなんかを奢ってもらえるから、茜は良しとしていた。
窓側の席に腰かけたクライは、30代の男性だ。「クライ」というのは美穂が勝手に付けたあだ名で、本名は分からない。クライが「メロウ」に現れ始めたのは半年くらい前からだろう。平日は毎朝8時少し前に来店し、決まって大きな窓側の席を選ぶ。注文はホットコーヒーのみ。そして、毎回10分程度滞在して帰っていく。他の客のようにPCを開いたり、新聞を読んだりということもない。茜は平日の週4日勤務なので毎日顔を合わせるようになったが、最初は普通の常連さんなのだと思っていた。しかしある日、クライの横を通った時、外を見ながら泣いているのが見えた。茜も思わず窓の外を見たが、等間隔に桜の木が植えてある道路とその向こうに住宅が広がっているだけだった。以降、毎朝やって来るクライを観察していると、時折外を見ながらブツブツ呟いたり、やはり泣いたりしていることが分かった。結果として男には「泣く」=CRY=クライと、不名誉なあだ名を美穂によってつけられたのだった。
「もしクライさんと呼んでいるのが聞こえちゃったとしても、勝手に『倉井さん』って脳内で変換されるからセーフっしょ」というのは、美穂の勝手な言い分である。
ある日、いつも通り茜がスプーンやフォーク等のシルバー類の仕分けをしていると、美穂がこちらにやってきた。クライはいつも通りにやってきて、既に退店した後だった。今日は、マスターが家の鍵を忘れて出勤してしまったため、外出できなくなることを嫌がった美穂が店まで鍵を届けに来た、というところらしい。
「私、今日の午後友達と会う約束があるから出かけるってずっと言ってたのに。茜ちゃんは、しっかりした男性を見つけるのよ」美穂がマスターを見ながら、聞こえるような声で言った。
茜がマスターを見ると、聞こえていなかったようでせわしなくコーヒーカップを洗っている。・・いや、聞こえていたみたいだ。よく見るとその表情が若干悲しげに変わっていった。
「それはそうと茜、すごいことが発覚しました!」そんなマスターを尻目に美穂が言った。
「何ですか?」手を止めずに、茜は聞いた。カチャカチャ、という金属同士が触れる小気味良い音が店内に鳴り響いている。
「私、昨日夕方にたまたまお店に寄ったんだけど、クライさんは4時頃かな、夕方にも来てたのよ」
「えー?1日2回来たってことですか?そんなことがあるんですね」
「それがさ、昼シフトのカナちゃんに聞いたら、何か月か前から平日決まった時間に来てるって言うのよ。で、外見てブツブツ言って泣いているんだってー。もう私怖くなっちゃってさー」美穂は話を盛り上げようと、茜に顔を近づけて言った。
「ただ単にうちのコーヒーがすごい好きなお客さんなんじゃ?」シルバーの仕分けが済んだので、茜はレジ下のショーケースの掃除をするため、スプレーとダスターを持って移動した。美穂は、その後をついてきた。
「私も最初そう思ったのよ。でも、窓側の席が埋まっている時は、他に空席があっても帰っちゃうんだって!夕方にそれが何度かあったみたい。あと、泰男さんには悪いけど、うちのコーヒーは普通だよ。これと言って特徴もないし」美穂は、コーヒーカップに汚れが残っていないかチェックしているマスターの方を見ながら、小声で言った。
「窓の外の桜がどうしても見たいとか?」
「それって今の時期だけだし、泣いている理由が説明つかないじゃん」
「そうですね・・・」茜は言った。とはいえ、
『すみません、何で泣いているんですか?』と聞けるわけがない。もし言えるとしたら
『大丈夫ですか?どこか具合でも悪いですか?』くらいだろう。それも、散々目撃している後ゆえに、白々しい感じが出てしまう気がする。しばらく考えた末、茜は
「よし、じゃあ明日私がクライさんに何となく理由を聞いてみます」と宣言した。
「さすが、メロウのバイトの星!」美穂はどことなく楽しんでいるようで、そう言うと去って言った。美穂がいなくなったのを見て、今度はマスターの泰男が茜の近くまで来た。
「茜ちゃん。相手は1日2回も来店して下さるありがたーいお客様だ。世間話をする分には構わないが、くれぐれも失礼をして、来なくなるなんて事態が起こらないよう、細心の注意を払ってくれたまえ。いいね?」泰男は、トレードマークである口髭を触りながらそれだけ言うと、再び食材の棚卸し作業に戻っていった。
クライの対応をするのは、朝に関しては茜しかいない。
「このままじゃ、何だか私も気分がスッキリしないし・・」茜は自らに言い訳をするかのように、呟いた。
翌日の朝8時。クライは店に現れず、以降一度もメロウを訪れることはなかった。
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