第6話 綾衣 2
座敷を後にした兵次郎は、自分をこれから島流しにされる罪人に重ね、呆然として、夢遊病者のように家を出た。さしたる考えもなく、家の近所をほっつき歩いた。じっとしていると嫌なことを考えて、胸が苦しくなるから、足の裏が痛くなっても歩いた。
そのうちに彼は吉原へ向かっていた。さすがに遊ぶつもりはないが、自然と足がそちらへ向かっていた。佐久間町から浅草寺の脇を通り、徒歩で向かうのが早道である。いつもは見栄を張って、わざわざ猪牙舟で山谷堀へ向かい、そこから籠で吉原へ赴いた。このときの兵次郎は当てもなく彷徨っていたので、吉原の裏手の千束村へ到着すると、今度は箕輪へ足を向けた。
歩いている最中に、兵次郎は綾衣との情事を思い出していた。狐に化かされたとはいえ、肉体に残っている生々しい快感は、本物としか思えなかった。あんな狐なら、もう一度化かされてみたいものだと思った。
吉原を過ぎてからは往来に人がほとんどいなくなった。右手には田が広がり、その先に茅葺屋根の家屋が点在する、目前に控えた金杉村を眺め、兵次郎がそろそろ引き返そうと思ったとき、左手の鬱蒼とした雑木林の奥に、奇妙なものを見た。
林の暗がりに、赤い着物を着た女の後ろ姿が見えた。ちょうど兵次郎からその女のところまで、下草を踏みしめた、けもの道のような細道が林の中を走っており、目を凝らして見ると、緋縮緬の鹿の子絞りの振袖を着た、島田に結った女の足元に、人が横たわっていた。下草に半ば隠れているから、黒羽織を着ていることしか分からないが、兵次郎は死体ではないかと思った。
遠く微かに浅草寺の鐘の音が聞こえた。
赤地の振袖が揺れ動いて、ゆったりとした足取りで、コナラの木の背後に身を隠した。いつまでも木の陰から出てくることはなかった。鐘の音が途絶えても、果たして女が姿を現すことはなく、彼はその場に立ち尽くしていた。
コナラの木に眼を留めながら、兵次郎は細道を辿り、倒れている者に近づいた。それを間近で見た途端、心臓が跳ね上がった。五日前に和泉屋の店先で騒いでいた、あの旗本だった。彼は仰向けに倒れ、眼を大きく見開いているが、口の端が吊り上がり、笑っているように見えた。それよりも注意を引くのは、左胸が大きく抉られていることだった。まるで熊に襲われたように、折れたあばら骨が胸から突き出していた。
兵次郎は疾走し、来た道を戻った。途中廓通いの者たちに異様な目で見られたが、構わず走り続けた。吉原を過ぎてしばらくすると、疲れて足を引きずるように歩いた。それでも日没前には家に到着し、自室に籠もり、布団を被って震えていた。走っている最中に、恐ろしい考えが閃いた。
あの赤い振袖の女は綾衣ではないか。
兵次郎は綾衣の顔を思い出せなかった。行灯の明かりの下で見たとはいえ、一つくらい特徴を思い出せそうなものだが、脳裏に浮かべようとしても、顔が闇に覆われてしまう。それとは対照に、肉体の快楽は生々しく記憶に残っている。身も心も快楽に奪われたから、綾衣の顔を忘れていたことを、このときまで気づかなかった。
その夜兵次郎は悪夢を見た。人気のない道でふいに綾衣に襲われ、引き抜かれた心臓を目の前で食われる。この夢のおかげで、夜中に目覚めてしまった。翌日から部屋に籠もった。両親には病気であると伝えたが、床に就いているうちに、本当に自分が病気であるような気がした。本当に病気になれば、息子の身を案じた父親が、紀州送りを考え直すかもしれないと思ったからである。心配した両親は早速医者を呼んだ。この医者は兵次郎の遊郭での話を聞いたから、恋煩いとでも思ったのか「なるべく早く嫁を娶らせることだね。そうしないと労咳になるかもしれない」と告げた。しかし兵次郎の許嫁である綿問屋の娘はまだ十二歳だった。
床に臥せてから三日目、部屋の外からどんどんと、誰かが走ってくる。勢いよく襖を開いて、飛び込んできたのは平吉だった。
「兵次郎、大変だ」
息を切らしながらそう言った。倒れ込むように兵次郎の枕元に座った。
「うるせえぞ。こちとら病を患ってんだ。静かにしやがれ」
怒鳴りつけ、起き上がった兵次郎の面は、薄くなった血の気がにわかに戻ったかに見えた。
「助八が捕まった」
これを聞くと、兵次郎の顔が強張った。
「バレたのか」
「いや、そうではない」
「ならどうして捕まった」
「殺しだよ。あの極悪な太鼓持ち、人を殺しやがった」
助八の人懐こい笑顔が、兵次郎の頭に浮かんだ。
「信じられねえな。あいつにそんなことができるのか」
「思い出してみろ。あいつがお城での仕事をやり遂げたとき、今と同じことを思ったろ」
「しかし誰を殺したんだ」
「旗本屋敷の渡り中間で、伊蔵という男だ。たぶんお城の石垣にまらを描いたのは、助八と伊蔵、この二人だろう。金を山分けするつもりが、一悶着あって、こんな結末になったわけだ。一昨日の暮六つ、雑司ヶ谷の鬼子母神で、助八が匕首で伊蔵を刺し殺した姿を、境内にいた蒲焼の辻売りが見たらしい。すぐ江戸を出ればいいのに、翌日湯屋の帰りに捕まったそうだ。まあ、こういうのんきで図ぶてえところは、俺たちがよく知る助八だな」
こうした話を平吉は、近所に住む下っ引きの孝六という男から聞いたらしい。助八と伊蔵、二人とも越後の出身で、以前は上総の博徒であった。賭場での争いから、助八はそこでも殺しを行い、八州廻りに手配され、江戸へ逃げてきたそうだ。
「とんでもねえ野郎だ。すっかり騙された。まったく、恐れ入るぜ」
よくぞ猫を被ったものだと、話を聞きながら兵次郎は感心した。
「あいつが奉行所で、すべてを話さなければいいんだが…」
「話してどうなる。あいつに何の得がある」
「損得は関係ねえよ。あいつは人を殺した。だから死罪になることは間違いねえ。人間というやつは、死ぬってことが分かると、何をするか分からねえからな」
これを聞くと、兵次郎もだんだん不安になってきた。
「それに、あいつはおまえを憎んでいた」
唐突にそう言われ、そんなことを夢にも思わない兵次郎は、耳を疑った。兵次郎自身が兵次郎を愛しているように、周りのみんなも彼を愛していると思っていた。この点については、一切の疑いを持っていなかったのである。
「なぜそう思う」
「たまに助八が吽形みたいな面になって、おまえを見ていたからさ。太鼓持ちは馬鹿にされるのも仕事だから、あのときは辛抱のないやつだと思ったが、今度のことを聞いて得心したよ。あいつの性根はごろつきと同じだ」
「それは見違えたんじゃないのか。俺には一度もそんな素振りを見せなかったぞ」
「当たりめえだろ。おまえが見ていないときに、そうしていたのだから」
自惚れの強い兵次郎とって、助八が人を殺したことより、この事実がなによりも衝撃だった。慕われていると思っていたのである。
「しかしなぜおまえは、俺にそのことを今まで話さなかった」
「おまえが死ぬまで知らない方が、一番良いと思ったからさ」
本当は怒る兵次郎を宥めるのが面倒臭いからだった。
もし助八が奉行所であのことを話したら、俺は終わりだ。
親からは勘当され、二度と江戸へ戻れぬばかりか、死ぬかもしれない。兵次郎は生きた心地もなく、紀州へ行くまでの日々を過ごす羽目になった。自分が罪人であると思うと、どこにいても孤独で心細かった。そんな心細さを紛らわせたいが、もはや廓にも行けない。そこで兵次郎は以前向島の茶屋で懇意になった、今戸町に住む芸者の花まちを思い出した。美しいからでも、惚れているからでもなく、この女が兵次郎に気があるからだった。はっきり口にしたわけではないが、声音や態度でそれが分かった。花魁と比べれば月と鼈であるが、少なくとも女だった。
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