第7話 花まち

 部屋に籠もり切りの兵次郎には三月の日差しさえ鬱陶しい。幸い家を出てから今戸町に着くころには日は陰った。そればかりでなく、対岸の向島を背景に、今戸焼の竈から立ち昇る煙を見上げると、重厚な雲が空を覆っていた。花まちの住む裏店に着いてからは雨が降り出した。

 花まちは留守だった。座敷に呼ばれる時間ではないから、近所に出ているのかもしれない。兵次郎が戸口の前に佇んでいると、雨が強まった。着物を濡らしたくないが、だいぶ風が強く吹いており、横殴りに雨が吹き込んで、これでは軒端で雨宿りというわけにいかないから、兵次郎は観念した。そぼ降る雨の中、悲壮な顔つきで、女を待つ色男の姿は、女の同情を誘うかもしれないと、ことさら苦しそうな表情を作って、花まちを待っていた。隣の裏店に住むおかみさんに、胡散臭そうな眼で見られたので、まるで弁解をするようにして、一層苦しそうな表情を作った。彼女のとても大きな尻は、起き上がり小法師を連想させたから、廓で配った起き上がり小法師を思い出した。あのときの新造や禿の喜んだ顔を思い浮かべ、昨晩の忌まわしい悪夢を頭から追い出そうとした。しかし今戸橋の袂で殺された手代は、この近くの寮に住んでいたので、どうしても頭から離れなかった。兵次郎の顔はみるみるうちに青ざめ、体が震えた。

「柏屋の若旦那じゃないか。こんなところでどうしたのさ」

 忌まわしい悪夢はこの場に佇む理由さえ、彼の頭から消し去って、声をかけても振り向かないから、花まちはその顔を覗き込んだ。

「ひどい顔だね。疝気でも患っているのかい」

「熱い茶を一杯飲みてえんだが、上がってもいいかね」

 体が冷えたのもあって、今や兵次郎は顎を震わせ、歯をがたがたと鳴らしていた。

 家の中に入ると、着物が濡れているのを憚って、兵次郎はしばらく土間で佇んでいた。雨はさらに勢いを増し、風も一層強まって、遠くから桶の転がる音が聞こえた。

濡れた羽織と小袖を、花まちは衣文掛けに掛け、丸火鉢に火をつけた。五徳の上に湯缶が載せられている。行李からかまわぬ柄の浴衣と、本田織の帯を取り出すと、浅葱襦袢しか着ていない兵次郎にそれを渡した。

「おまえさん、旦那がいるのかい」

「いやしないよ。他に女を作って出ていっちまった」

 湯が沸いて、茶を載せた盆を兵次郎の前に置いた花まちは、斜向かいに座った。

「それで、若旦那はどうしたんだい。こんな雨の中、家の前で突っ立っているなんてさ」

「今月の末に江戸を離れることなった。だから最後におまえの顔を見たいと思ってよ」

 兵次郎は江戸を離れる理由について花まちに話した。廓での居続けが災いし、紀州の伯母の家に追いやられること、その居続けのときに起きた奇怪な出来事や、ついでにその後に起きた事件についてまで話した。綾衣という得体の知れない幻の女郎や、身に覚えのない居続けの話に対し、花まちは真面目に相手にしない様子であったが、殺された旗本に話が及ぶと、眼を丸くした。

「その旗本っていうのは、伊澤様じゃないのかい」

 庄蔵はたしかにそう言ったが、兵次郎はいちいち憶えていなかった。

「名前までは知らねえよ。歳のころは三十ばかりの、ちょっと小太りの男だった」

「浄閑寺の近くの雑木林で殺された侍のことだろ」

「そう、その侍だ。なんだ、知っているじゃねえか」

「そりゃあ知っているさ。吉原から目と鼻の先で殺されたんだから。伊澤様の座敷には何度か呼ばれたことがあってね。俄には信じられなかったよ。それにこれで二度目じゃないか。今戸橋の袂でも、つい先日商家の手代が殺されたばかりだろ。一体どうなっているのかねえ」

「その二人がどの様に殺されたのか、知っているのか」

「野犬に食い殺されたって聞いたけど」

「食われたのは胸だけだ。心の臓だけを食らう野犬なんざ、いるわけがねえ。昔野犬に食われた死体の話を聞いたことがある。胸や腹は引き裂かれて、片腕も食いちぎられていたそうだ」

「なら人の仕業だっていうのかい」

 兵次郎は丸火鉢の上の湯缶を見つめながら、体を震わせた。

「綾衣だ」

「そんな女郎は吉原にいないんだろ。若旦那がさっきそう言ったじゃないか。きっと夢でも見たんだよ」

「あの侍も同じ夢を見ていた。和泉屋の桂木という女郎に会おうとしていたのだ。そんな女郎などいないのに」

「伊澤様の馴染みは太田屋にいたと思うけど」

「浮気をしたのさ。二度とも浮気をした男が殺されている。それで罰が当たったのかどうか分からねえが、俺も名代に手を出したんだ。きっと同じ目に遭うに違いねえ」

「それじゃあ桂木は綾衣なのかい。若旦那の話を聞いていると、どちらも同じ女郎みたいに聞こえるけど」

「あの手代を殺したのも同じだ。きっと綾衣だ」

 兵次郎は相変わらず丸火鉢を放心したように見つめていた。

「でも伊澤様の死体の近くに立っていたのがその女郎だって、どうして分かるのさ。若旦那は後ろ姿しか見ていないんだろ」

「俺には分かるんだよ。あれは綾衣だ」

 兵次郎は沈痛な面持ちで、自らに言い聞かせるようにそう言ったが、その自分の言葉に怯え、またもや体が震えた。

 雨が止む様子はなく、室内は薄暗かった。兵次郎を陰気にさせまいと、花まちは角行灯に火を灯した。

「若旦那が来るって分かっていたら、菜種油を備えておいたんだけどね」

 そう言いながら、兵次郎から少し離して行灯を置いた。魚油の臭いが漂ってくると、彼はちょっと咳込んだ。それから突然、花まちに抱きついた。

「ちょっと、どうしたのさ」

 花まちは肩に額を埋める兵次郎を引き剥がそうと、体を押したが、びくともしなかった。

「俺はもうすぐ死ぬんだ。化け物に食い殺される」

 しがみ付く男を振りほどくのは無理だと諦め、彼女は兵次郎の背中を擦った。

「その心配は無用だよ。若旦那」

「どうしてそう思う」

「化け物も紀州までは追ってこないだろ。若旦那は嫌がっているけど、命を拾えると思えば、柏屋の旦那のお叱りもありがたいと思わなきゃいけないよ」

 亡霊に憑依されたように、地の果てまで綾衣に追われると思っていたはずが、花まちにそう言われると、希望を持てそうな気がした。兵次郎は彼女の温もりに安らぎを覚えた。

 花まちは彼の両肩を掴み、引き剥がすと

「だから心配は無用だよ。命が助かると思えば、田舎でしばらく辛抱するくらい、造作もないことだろ」

取り乱す兵次郎を、花まちは優しく宥めた。

 菊花模様の平打簪を挿した、つぶし島田の髷の背後から差す光は、後光ではなく、行灯の薄明りであるが、兵次郎の目には、後光のように見えた。菩薩に救いを求めるように、再び彼は花まちに抱きついた。嗚咽を漏らす兵次郎を抱擁し、彼女はその背を擦った。

 すっかり弱って、みっともないくらい女に泣きついて、終には、とうとう話してはいけないことまで話してしまった。弱っていながらも、兵次郎の頭の中で、この女は自分を見捨てないという打算が働いたからである。

「公方様のお城にまらを描くなんて…」

 続けてその後に「とんでもないやつだ」とでも言いたかったのか、口を開いたが、あまりにも呆れ果てたので、言葉を呑んでしまったようだ。

 彼女が仕事に出る前に、家を出た兵次郎は、はやくも秘密を洩らしたことを後悔したが、洗いざらい吐き出して、心が軽くなって、清々しい気持ちにもなったので、悲観してばかりいないで、紀州に送られるまでの短い期間を、存分に楽しむことにした。すると無性に吉原へ行きたくなったが、勘当されるのを恐れたから、代わりに翌日の朝に芝居を観に行こうと思った。

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