第2話(3)




 その日見た夢は、夢であり、夢ではなかった。




 俺たち――俺、岬、隼人の三人――が乗った車が、のとある山道を走っている。


 時刻は真夜中、しかも土砂降りの雨で、視界は不明瞭めいりょうだった。


 右へ左へと不規則に曲がる道路には、車のライトが垂直に反射されており、その先はひたすら闇だった。法定速度を犯すほどのスピードではない。だが下り坂を走っていたため、普段よりは多少スピードが出ていたことは認めざるをえないだろう。


 とにかく車は走っていた。雨の夜、人気のない道を、それなりのスピードで。


 俺たちは夕食を終え、ホテルへ帰る途中だった。学生三人のきままな卒業旅行。費用を考えた結果、車はレンタカーではなく、岬が所持していた中古車だった。


 運転手は岬、俺は助手席に座っており、後ろの席では隼人が赤ら顔でいびきをかいていた。俺と岬は、次の日の予定をあれこれ話していた。といっても、明日には帰途きとに着くつもりだった。


 酔いが回ってきたのか、そのうち俺も眠気に襲われた。


 ラジオからは小さな音で、母親がよく歌っていた古い歌謡曲が流れており、それが雨音と重なって心地よいノイズを奏で、やがて俺は舟をぎ始めた。


「わりい、ちょっと寝るわ」


 そう岬に声をかけたことを覚えている。


「ああ、わかった」


 と、彼が返したことも。


 ちょうどその時、うねる道に沿って、車が右へ大きくカーブした。俺は寝ぼけながらも車のグリップを掴み、遠心力に負けないよう身体を傾けた。


 カーブを曲がり切る直前、激しい雨にまぎれて、黒い何かが見えたような気がした。ちょうどクマ出没注意、の看板を通り過ぎたばかりだった。いや違う。動物は服を着ない。





 ライトに照らされて映ったのは、な長袖のワンピースだった。




「お、おい!」


 岬が切羽せっぱ詰まった声を上げ、急ブレーキを踏んだ。





 身構えるやいなや、聞いたことのない鈍い音と、衝撃が俺たちを襲った。





 すべては一瞬の出来事だった。


 誰が悪いかと言えば三人とも悪かった。誰が運転しようが飲酒運転だった。たまたま岬が運転しただけで、それは俺であったかもしれないし、隼人であったかもしれない。俺たちは言い合った。


「まあ、バレないでしょ」


 俺たちは模範的な学生ではなかったかもしれないが、単位を落としたことはなかったし、誰もいなくても赤信号はきちんと止まったし、タバコやペットボトルを道に捨てたことはないし、お年寄りに席をゆずったことだってある。


 それなのになぜ?

 なぜ俺たちが?


 今考えても分からない。やっぱり分からない。信号も横断歩道もバス停もない、そもそも民家のひとつも見えない。山間を走る道路のど真ん中に、女はなぜか立っていた。


 女はなぜか立っていた。


 車がねたのは、鹿でも熊でもイノシシでもなく、人間の女だった。


 努力はした、しようとした。いまさら言い訳に聞こえるかもしれない。だが慌てて俺たちが車を降りた時、道路には動かぬ物体が転がっているだけだった。


 ひとしきりパニックが俺たちを襲った。という気がするのだが、よく覚えていない。動揺しすぎていたのだろう。


 頭上では土砂降りの雨に加え、雷も鳴っていた。ごう音と雨の音が思考を鈍らせ、冷たい雨が俺たちの体温すらも奪っていった。


 山道の左側は急斜面の崖だった。ガードレールの先は鬱蒼うっそうとした木々で覆われており、かなり深そうに見えた。俺と隼人が茫然と道路にひざまずいていると、ひとり闇をのぞいていた岬が、奇妙なほどに冷静な口調で言った。


「なあこれ、見つかると思うか?」


 ふと空を見上げると、深淵しんえんから降りそそいだ雨が激しく顔を叩いた。


「……こんな雨だしな」


 答えた自分の声は、どこか遠くから聞こえた。


 隼人は捨てられた仔猫のように、かわいそうなぐらい震えていた。


 俺たちは卒業と就職を控える大学四年生だった。就職難の中、特別優秀とはいえない俺たちが、それぞれ悪戦苦闘しながら、内定を勝ち取ったばかりだった。


 卒論もめどがつき、あとは残り少ない自由を謳歌おうかするだけだった。つかの間の自由、その先にはささやかながらも、普通の人生が待っているはずだった。


 もしこのことがバレたら、これから俺たちはどうなる。これから一生、普通の人生は二度と望めないというのか。


 そんな不安が、絶望が、俺たちを結託けったくさせた。


 死体を持ち上げるのは三人でおこなわれた。岬は肩を、隼人は足を、俺は腰を持った。全身ぐっしょりと濡れていた。四人とも。


 車のヘッドライトに照らされた女の腕は、奇妙な方向へとねじ曲がっていた。その腕の先、どす黒く変色した指からぽたぽたと、雨ではない赤い雫が滴り、俺が着ていた白のパーカーを汚すのが見えた。


 持ち上げた時、岬が軽く手を滑らせ、女の首が、勢いよくねじられた。うつろな瞳と目が合う。何かを言いたげに口がぱくりと開く。顔の下半分は血でぐちゃぐちゃに汚れていた。


 先頭を行く岬の号令に従い、一歩踏み出すと、今度は隼人が死体の脚を落っことした。


 揺れた瞬間、女の人差し指が、まるで派手な静電気をくらったかのように動いた気がした。身体までもがはねた気がした。そうであったならばよかったのに。そうであれば。


 だがそんなはずはない。血の通った人間の腕が、足が、首が、こんなふうに曲がるはずがない。


 ほんとうにいいのか? 


 ふいに良心の声がした。まだ間に合うぞ、まだ引き返せるぞ。善良で、まっとうで、常識的で、健全な道徳と倫理観を持った市民に、戻るなら今しかない。


 最後のためらいが俺の口をつこうとする前に、岬がささやいた。


「いくぞ。せーの」


 揺れる。


 縄跳びのように、吊り橋のように、時計の振り子のように、ビルを破壊する鉄球のように、それは大きく揺れてから、美しい放物線を描いて、ガードレールを飛び越え、俺たちの手を離れた。


 女は永遠に続く暗闇へ落ちていった。俺たちはしばらく冷たい雨に打たれながら深い闇をただ見つめた。


 闇は俺たちの将来でもあった。卒業、就職、初めての給料、これから出会うかもしれない運命の人、初めての子ども、マイホーム、家族だんらん、初めての孫、幸福と呼ばれるものすべて。


 あるいは過去。生まれてきてくれてありがとう、今しゃべった、この子天才かもしれない、入学おめでとう、卒業おめでとう、部活の試合に勝ったこと、大学に合格したこと、初めて父親と晩酌した夜、お前ももうもう立派な大人だな、と言われたこと。


 何もかもが黒く塗り潰され、雨によって流されていった。


 車は再び走り出し、ほどなくしてホテルへ着いた。


 旅行から帰ってきて、一週間経っても警察がやってこないと分かると、俺たちの中で、あの夜はなかったこととして処理された。


 一か月が経つ頃には、あの夜は現実に起きたことなのかと疑うほどになっていた。そもそもあれはほんとうに人間だったのだろうか。そうだ、きっと幽霊か何かにだまされたのだ。


 あっという間に卒業式がやってきて、忙しい毎日を過ごしている間に、十年が経った。もうすぐ岬は父親となるし、隼人は結婚したし、俺も平和に暮らしている。


 俺たちは自由だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る