ひとくちの幸せ、ひとしずくの苦さ

風見ノリ

全編

 夏の名残が薄れゆく九月の昼下がり。窓の向こうに広がる青空は、風に流れる雲の切れ間から光をこぼし、校庭にまだらな影を落としていた。教室はのどかに昼食を広げる生徒たちの笑い声が穏やかに響く。


 その輪の中心で、ひときわ幸せそうに弁当を頬張る少女がいた。


 名は篠宮千夏。頬を緩ませ、目を細め、まるで食べるという行為そのものを心から楽しんでいるかのようだった。大きめの弁当箱には色とりどりのおかずが溢れんばかりに詰められている。


「ん〜っ!」


「ほんといい顔するよね〜」


「ね〜。はい千夏!口開けて!」


「え、いいの?」


「もちろん! ほら、あーん!」


 千夏は遠慮するそぶりを見せつつも、素直に口を開けた。小さく噛み締めた瞬間、またもや至福の表情が浮かぶ。


「んっ! 甘い味付けでふわふわ……最高!」


「でしょ?」


 満足そうに笑い合い、食べることそのものが生きる歓びだと言わんばかりに、幸せそうに箸を進める。


「またそんな食ってんのかよ。ほんと、どんどん丸くなってくな」


「痩せたら絶対可愛いのにもったいねー」


「そりゃあ食べるの大好きだからね〜体型なんて二の次だよ!」


 男子からの揶揄いも千夏は箸を止めることなく、冗談めかして明るい口調で朗らかに受け流す。その場の空気を沈ませないよう、軽く笑みを添えて。その裏にほんのわずかな陰が差していることを悟らせないために。


 誰もが千夏のデブ弄りを容認していたが、1人の少年──桐生湊だけは異を唱える。


「そういうの、あんま言わないほうがいいんじゃね?」


「いや、別に悪口ってわけじゃなくてさ……」


「分かってる。でも、お前らが冗談のつもりでも、言われる側がどう感じるかは別の話だろ?」


 真っ直ぐな瞳で真摯に言葉を投げかけると、男子たちは素直に謝り去っていった。


「……庇ってくれてありがとね」


 小さな声で囁き、優しく笑いかける千夏。その笑顔に彼はふと、出会った頃の出来事を思い返していた。


 入学して間もない日、湊はすでに校内でも目立つ存在だった。整った顔立ちのせいで、昔から女子に言い寄られることが多く、正直うんざりしていた。ただ顔がいいというだけで近寄ってくる人間ばかりで、彼自身を見ようとする人間などほとんどいなかった。


「どこ住んでるの?」

「休日何してる?」

「彼女いるの?」


 廊下で取り囲まれ、適当にあしらうものの、早くこの場を抜け出したい気持ちで溢れていた。


 そんな時だった。


「ごめん、さっき先生が呼んでたからこっち来てもらって良い?」


 唐突に割り込んできたのは見覚えのない少女、千夏だった。どこかのんびりとした空気をまとっていて、他の女子のように媚びた様子はない。


「先生が?」


「うん、すぐ行ったほうがいいと思うよ」


 戸惑いながらも湊は後を追い、人気のない廊下まで辿り着くと彼女は足を止め、振り返った。


「もう大丈夫そうだね。じゃあ私はこれで」


「……先生は?」


「ああ、あれ嘘だから」


「は?」


「なんか困ってそうだったから、おせっかい焼いちゃった……迷惑だった?」


 首を傾げる彼女はどこまでも自然体で、変に気を遣う様子もなければ、見返りを求めるような素振りもない。ただ、純粋な善意で動いていた。


「いや、助かった。ありがとう」


「そっか、よかった!」


 優しく笑みを浮かべたかと思えば、そのままくるりと踵を返し去っていく。あっけらかんとしているのに、不思議と印象に残る笑顔が脳裏から離れない。


 その日を境に、湊は千夏を目で追うようになった。


 自分に言い寄ってこない珍しい女子。いつも楽しそうに笑っていて、食べることが大好きで、時々笑顔にうっすらと影が差すこともある。


 もっと知りたい。


 そう思うようになってからは、偶然を装い話しかけるようになり、気づけば一緒に過ごす時間が増え……


「……桐生くん?」


 我に返ると、千夏が不思議そうにこちらを見ていた。


「いや、なんでもない」


「そう?なら良いけど」


 少し首をかしげたがそれ以上は何も聞かず、再び弁当に箸を伸ばす。相変わらず幸せそうに頬を膨らませるその姿を見ながら、湊は胸の奥で言葉にならない感情を持て余していた。


 ***


 放課後、湊は無言で帰り支度をしていると、ふと視界の端に千夏の姿が映った。


 友人たちと笑い合うこともなく、そそくさと教室を出ようとしている。たまに一人でどこかへ行くのは知っていたが、いつも声をかけられず、普段通りなら深く考えずに見送っていた。だが、今日に限ってなぜかその背中を見過ごせず、思わず後を追ってしまう。


「篠宮!」


「あれ、桐生くん?」


「たまに急いで帰るからさ、いつも何やってるのかちょっと気になってな。ダメなら断ってくれても構わないんだが」


 千夏は一瞬驚いたようだったが、すぐにクスッと笑った。


「……桐生くんって、意外としつこいよね」


「気になることは放っておけなくてな」


 そんな何気ないやりとりを交わしながら、二人は並んで歩き出す。


「……で、どこに行くんだ?」


「んー……秘密!」


 千夏は少し考えた後、イタズラっぽく笑いながら軽い足取りで進んでいく。やがて、駅前の賑やかな通りを抜け、少し路地を入ったところで足を止めた。


 目の前には年季の入った赤い暖簾がかかった店。看板にはデカデカと『濃厚こってり豚将軍』と書かれている。


「ラーメン屋?」


「うん!ここのラーメン大好きなんだ!」


 千夏は嬉しそうに暖簾をくぐると、手慣れた様子でカウンター席の奥に座った。


 店の中は、湯気と豚骨醤油の濃厚な香りに包まれている。ラーメン好きならば思わず鼻を鳴らしてしまうような、胃袋を鷲掴みにする匂いだった。


「おう、千夏ちゃん!いつもの?」


「はい!特濃全部乗せ倍マシマシで!」


「はいよっ!」


 そのやり取りを聞いた湊は、思わず千夏の顔を見つめた。


「……篠宮、まさか通ってるのか?」


「もちろん!週三くらいで来てるよ!」


「週三!?」


 千夏は得意げに胸を張ると、湊に向かって人差し指を立てる。


「いい?ここのラーメンは──」


 意気揚々とおすすめポイントを語る千夏。だが、湊の耳には入らない。教室では見せない無邪気な笑顔で楽しそうに語る姿を見届けるので精一杯だった。


「——もう、言葉にならないの!!」


「……ほんと、食べ物のことになると上機嫌だな」


「好きなものはとことん語り尽くしたいからね!」


 湊は呆れたように笑いつつも、千夏の楽しそうな声につい口元が緩む。彼女の熱弁を聞いたものの、結局無難でオーソドックスなものを注文し、ほどなくして、湯気の立ったラーメンが運ばれてくる。


 箸を持ち、麺を一口啜る。とろりとしたスープが舌に絡み、濃厚なのに不思議と重くない。縮れた麺はしっかりと旨味を抱き込み、のどを滑り落ちていく。


「……うまい」


「でしょ?」


 千夏が得意げに笑うのを横目に、あまりの美味しさに湊はただ無心で箸を進めた。千夏も同様に会話すら忘れ、二人は夢中で麺を啜る。しかし、終盤に差し掛かったところで、湊の胃が限界を告げてしまう。あとひと口、いや、ふた口なら……そう思うものの、すでに張りつめた胃袋が警鐘を鳴らしていた。


「……ごめん、もう無理だ」


「えっ?」


「俺のキャパじゃちょっと……」


「……分かった。後は任せて!」


 そのまま迷いなく丼を引き寄せると、残った麺とスープを勢いよく平らげた。喉を鳴らしながら飲み干すその姿は、妙に小気味よくて、目を奪われる。そして、最後の一滴まで飲み干し、満足げに息をついた。


「ふぅ…ご馳走様!」


「助かった……けど、そんなに食べて大丈夫か?」


「これくらい、私くらいのデブにかかれば余裕余裕!」


 ぽん、と腹を叩きニッと笑う千夏。しかし、ふざけた態度が、その言葉が、なぜだか胸に棘のように刺さる。


 食べることが好きな千夏も、満足げに笑う顔も、全部含めて好きなのに。なのに、どうしてそんなふうに自分を下げる。


 想いが溢れ、無意識に言葉を発していた。


「好きな人の自虐なんて、聞きたくない」


「え……?」


 湊自身も何を言ったのか理解が追いつかなかった。だが、千夏の大きく見開かれた目を見て、漸く自分の言葉の意味を自覚する。


「……あ、いや……」


 一度目を伏せて息を整えると、覚悟が決まったようでゆっくりと告げた。


「……本気だよ」


「え、えええ……?」


 真剣な眼差しに戸惑いながら、手のひらで頬を押さえる。


「……私も、いいなって思ってたけど……でも……」


 千夏は続けた。言葉を選ぶように、ゆっくりと。


「……でも私、食べるの好きだし、痩せる気ないよ?」


「篠宮自身に惚れたんだから、関係ない」


「……ほんと、変な人……じゃあ、今日から、よろしくね」


 頬を赤らめながらゆっくりと湊の目を見つめる千夏の笑顔は、いつもよりずっと柔らかく、ずっと愛おしかった。


 交際は順調そのもので、朝は駅で待ち合わせ一緒に登校。授業の合間は欠かさず談笑、昼休みには並んで弁当を広げる。帰り道は手を繋いだり腕に抱きついたり。もう、周囲の目なんて気にせず、二人でいる時間をめいっぱい楽しんでいた。


「あーん」


「いや、それはさすがに……」


「えー? 恋人同士なら普通じゃない?」


「……楽しんでるだろ」


「ふふっ、バレた?」


 そんな甘い時間に苦い影が差し始めたのは、交際から数日。周囲に関係を知られてからだった。


「え、マジ? 湊デブと付き合ってんの?」


「性格良くてもさすがに無いわ~」


 男子の心無い嘲笑。


「千夏って、別に悪い子じゃないけど……なんか湊くん、センスないよね」


「もっと可愛い子狙えたでしょ」


 女子の僻み。


 だが、湊に迷いはなかった。


「千夏は今日も可愛いな」


「は!? い、いきなり何言ってんの!?」


「伝えられる時に伝えておかないとな」


「……もうっ!」


 彼は堂々と振る舞った。バカにするなら勝手にしろ。俺が千夏を好きなことに、何の問題もない。そう周囲に見せつけるように。


「……ごめんね」


「何が?」


「私のせいで……湊が、いろいろ言われちゃってるから」


「気にしてないよ」


「でも——」


「俺が好きなのは千夏なんだから、それで良くないか?」


「……うん、ありがとね」


 彼は盲目的に愛していた。だからこそ笑顔の裏にある翳りに、気づけなかった。


「湊って、やっぱデブ専なんじゃね?」


「これまで何度告白されても頑なに彼女作らなかったしなーあり得るわー」


「昔から篠宮に突っかかると止めに来たのも痩せさせないためだったのかもな」


「あーあ、結局身体目当てかよ。イケメンはずりぃよな。篠宮顔はそこそこ可愛いし、好みの体型だったらほっとかないか」


 そんな噂が流れていることを、千夏は知ってしまった。


 私は湊にとって特別な存在じゃなくて、ただの嗜好の対象なんじゃないか。そんな事ないと信じたい気持ちもあったが、不安が勝ってしまい……


「でも……やっぱりダイエットする」


「え?」


「もう湊が悪口言われてるの耐えられなくて……一応確認なんだけど、湊が好きになってくれたのって、私の性格だよね?」


「そりゃそうだろ」


「だったら……頑張ってみようかな」


 彼はしばらく千夏の瞳を見つめ、それから小さく息をついた。


「分かった、俺も協力するよ。千夏が本気なら、俺も一緒に頑張る。食事管理とか、運動とか、できる範囲で手伝うから」


「……ありがとう、湊」


 それから千夏の生活は一変した。


 間食をやめ、食事量を調整し、毎日運動を欠かさない。その努力は確実に身を結び、交際もダイエットも、問題無く進んでいた──はずだった。


「ねえ、知ってる? 篠宮さんって、昔は超美人だったらしいよ」


「え、マジ?」


「うん、中学まではモデルみたいなスタイルだったんだって」


「そうなんだ。あ!じゃあもしかして最近ダイエット頑張ってるの他に好きな男出来たとか!?」


「篠宮さんだし無い……いや、あんなに食い意地張ってたのに急にやる気になったって事は……」


「えーそれマジなら桐生くんかわいそー。でも、協力すればうちらにもチャンスある……ってこと!?」


「お!それだ!じゃあ、篠宮さんには頑張ってもらわないとね!」


 不意に耳に入った噂話に、湊の心は揺らいでしまう。


 日に日に千夏が痩せ、どんどんスタイルが良くなり、周囲の目が変わっていく。


 ……それが恐ろしかった。


 本当に俺のためにダイエットしてるのか?


 もっといい男に乗り換えるつもりなのか?


 もう、すでに他の男のために変わろうとしてるのか?


 そんな考えが、頭の中を支配し始める。


「千夏、これあげるよ」


「え、でも……」


「たまにはご褒美に、ね?」


「……うん」


 千夏が痩せていくことが怖くなり、歪んだ独占欲が彼を突き動かし──


 彼女の変化を止めようとした。


 でも、邪魔すればするほどより一層ダイエットに励んだ。一緒にいると甘えてしまうから、意志が揺らぐからとデートの回数は減り、授業が終わったあとも、昼休みも、ひたすらダイエットに励んでいた。


「ごめん、ジムに行くから」

「ごめん、ランニングするから」


 寂しさを覚えながらも、それを口にすれば彼女を困らせるだけだと、彼は黙って笑うことしかできなかった。話し合いもできず、次第に不安は疑心へと変わっていく。


「千夏、ほらこれ……」

「……ありがとう。でも、いらない」

「たまには……」

「……ダメなの」


 拒まれるたびにボロボロと少しずつ、しかし確実に削られていく。自分だけが彼女を追いかけていて、彼女はもう違う方向を見ているに違いないと。


 真実を知ることが怖くなり、会うのも辛くなっていった。教室でも、帰り道でも、視線を合わせるのを無意識に避ける。


 話しかけたいのに、話しかけられない。


 何を考えているのか確かめることすらできなくなり、言葉数も減り、そして……


「そんなに痩せてほしくないの?」


「……うん」


 痺れをきらした千夏の声が静かに俺の部屋に響き、細くなった指先がチラつく。誤魔化すこともできず、ただそれだけを絞り出す。


 窓の外から聞こえる風の音だけが、重苦しい空気をかき乱していく。


「……そっか」


 千夏の唇が少し噛みしめられ、ぽつりと呟いた。たったそれだけの言葉なのに、心臓を鷲掴みにされる。


「結局……私の体目当てだったんだね」


「違う!違う、俺は……っ」


 言葉が詰まる。


 責めているわけじゃない。

 怒っているわけでもない。


 でも、それがかえって怖かった。


「……なら、なんでそんなに嫌がるの?」


 問い詰めるような声ではなかった。ただ、俺の本音を知りたがっているだけの、静かな問いかけだった。


 だけど、俺は答えられなかった。不安が現実の形を帯びた時、この関係すら終わってしまうと、そう思ったから。


「……もう、いいよ」


 千夏は小さく息を吐き、告げた。


「別れようか」


「……は?」


「だいぶ痩せちゃったもん。もう一緒にいる意味、ないよね」


 耳鳴りがする。


 手放したくないのに、言葉が出てこない。


「今までありがとう」


 嫌だ。


 嫌だ。


 嫌だ。


 行かないでくれ。


 何かを言わなくてはこのまま終わると分かっていた。だから、反射的に出てしまった。思ってもないような言葉が、誰かが言っていた言葉が、不安が、そのまま。


「……他に好きな男でもできたんだろ?」


 最低だ。


 でも、止められなかった。


「何、それ……?」


「俺の気持ち弄んで楽しかった? 先に痩せないって言ったのはお前なのに!」


 言葉が口をついて出る。


「俺は!ずっとお前だけを見てたのに……お前は、もう違う男のことを……」


 パシンッ!


 頬に鋭い衝撃が走る。


「……っ!」


「……最低」


 思わず目線がしっかり合う。久しぶりに見た千夏の瞳は、今にも泣きだしそうなほど揺れていた。その涙が何より物語っている。


 見えていなかったのは、向き合わなかったのは……俺の方だ。


 傷ついていたのは俺だけじゃなかった。


 今更後悔してももう遅い。でも……


「俺は……」


 喉の奥が熱くなる。


「千夏が痩せたら、俺の元から離れてしまうんじゃないかと思うと、怖かったんだ……誰よりも食べる事が好きだったのにそれを捨て、会う時間も削って痩せるなんて……でも、千夏がそんなことする人間じゃないって……分かってたはずなのにな」


 自分の醜い感情を、本心を、最後に伝えた。関係が終わった途端素直になれるとは何とも皮肉な話だ。


 千夏は何も言わず、じっと佇んでいた。終焉を告げるように。


「……帰れよ」


 俺はドアを開け、背を向ける。


 ……カチャ。


 しばらく待っているとドアが閉まる音が聞こえた。同時に心が崩れ落ち、耐えきれずに膝をつく。


「……っくそ……」


 嗚咽が漏れる。


 喉が詰まる。


 涙が止まらない。


 胸の奥がひりひりと痛む。


 彼女を失った。


 もう、取り返しがつかない。


 絶望に苛まれていた。


 ──はずだったのに、擦り切れる心をふわりと包むように背中を温もりが埋め尽くす。


「……ごめんね」


 驚いて振り返ると、千夏がそこにいた。


「千……夏……?」


「私も、勝手に決めつけて、ごめん……」


 震える声。涙で濡れた頬。


 千夏はそっと、俺の背中に顔を埋めた。


「……私も怖かったんだ」


「……?」


「私が変わったら、あなたが離れていくんじゃないかって……」


 俺だけじゃない。千夏もまた、同じ不安を抱えていたんだ。


「……昔はね、痩せてたんだ。みんなから『かわいい』って言われてて、よく告白もされるくらい。でもそれが嫌で嫌で仕方なかった。みんな、私の見た目だけで本当の私なんて、誰も見てくれないから。興味があるのは顔とかスタイルとか、そんなんばっか……」


 言葉を切り、ふっと息をついた。遠い記憶を振り払うかのように。


「だから、恋愛になんて興味持てるはずもなく、適当にあしらう日々。おしゃれはしたかったからそのままでいたけど、それが良くなかった」


 千夏の指先がわずかに震える。


「三年の夏休み前にね、凛音の彼氏に告白されたんだ」


 白川凛音──真面目で優しく、いつも千夏の隣にいる少女の顔が、湊の脳裏に浮かぶ。


「好きになった理由なんて、聞かなくても分かったよ。だって、面識なんてほぼなかったから」


 千夏はかすかに笑った。けれど、その笑みは儚く、今にも消えてしまいそうで、湊の胸を締めつけた。


「凛音は今でも『変な男に引っ掛からなくて助かった、ありがとう』って言ってくれる。でも……私はただ、ひたすら謝った。どれだけ凛音が『悪くない』って言ってくれても、大切な人を傷つけてしまったことに変わりないから……」


「……」


「しかも悪いことって重なるんだよね。母の再婚が決まって、夏休み中に新しい家族と同居することになった。最初は、悪くないかもしれないって思った。義父も義兄も優しくしてくれたし、私はちょっとだけ……信じかけてた。でも……」


 湊は息を飲んだ。次に来る言葉が、決定的な何かを含んでいると直感した。


「……裏切られた。信用しかけたその時、あの人たちは……私を……」


「……っ!」


 言葉が出なかった。何を言えばいいのかも分からなかった。そっと向き直り千夏を抱きしめる。彼女の体温が伝わるほどの距離で、その震えを受け止めた。


「幸い母が帰ってきて、間一髪だった。結局再婚は破談になって母は『ゴミクズ最低野郎と結婚しなくて済んでよかった』って言ってくれた。でもね……」


 千夏の唇が、かすかに震える。


「また、私は謝ることしかできなかった。母がどれだけ『気にしなくていい』って言ってくれても、凛音がどれだけ『大丈夫』って言ってくれても……私は自分を許せなかった」


 静寂が落ち、風が静かに葉を揺らす。


「だから思ったの。私が可愛くなくなれば、全部解決するんじゃないかって」


「……」


「そうすれば、もう誰も私を見た目で選ばない。誰も私を傷つけない。私は……誰も傷つけずに済む。だから、私は母と凛音にこう言った。『太りたいから協力して』って」


「………」


「最初は止められたよ。でも、最終的には協力してくれた。それから毎日必死に食べて、最初は思うように食べられなくて苦戦したけど、夏休みの間に一気に太って……新学期、みんなを驚かせた。それでもしばらくは言い寄られたけど徐々に減って、体重が増えるにつれて、そういう人もいなくなって……私は、これで正しかったんだって思った」


 知らなかった。千夏が、こんなにも深く傷ついていたことを。


「高校からは明るくて、食べるのが好きな食いしん坊キャラで押し通そうって。誰も悲しませないって……でもね、そんな私を、母も凛音も、見捨てなかった。湊も……私をちゃんと、私自身を見てくれた」


 千夏が真っ直ぐ見つめ、微笑む。


「そんなの、好きになっちゃうよね」


 千夏の涙が頬を伝い、落ちる。


「でも……もし湊も、私の見た目だけを見てたらって思うと、怖かった。でも、違った」


「うん」


「酷いこと言ってごめん……大好きだよ!」


 あまりにも真っ直ぐで、あまりにも優しくて、どうしようもなく愛おしい言葉だった。


「俺もごめん、千夏が好きだ!大好きだ!」


「……本当に?」


「本当に。もう二度と離れない」


 千夏は唇を噛み、震える指先でそっと湊の頬を包んだ。


「……約束だよ?」


「ああ、約束する」


 そして、二人は誓いを込めるように、そっと唇を重ねた。


 最初は恐る恐る触れるだけのキス。しかし、それがどれほど愛おしいものなのかを知った瞬間、湊は千夏をしっかりと抱きしめた。千夏も同じように湊にしがみつく。


 どれほどの時間が経ったのか分からない。心の奥に染み込んでいた孤独と傷が、ゆっくりと癒えていくような感覚だった。


 やがて、千夏がぽつりと呟く。


「ねえ……これから、どうしよう?」


「ん?」


「私も一応乙女だから……その……痩せたいって思ってるんだけど……」


 ぐぅぅぅ~~~……


 二人の間に、千夏の腹の音が響く。


「も、もう! こんな時にぃ……」


「ぷっ……っはははは!!体は正直だな!」


「ちょ、笑いすぎ! ……でも実際、我慢するの超辛かったんだよね……」


「無理しなくていいよ。千夏の辛そうな顔は見たくない。でも……」


 湊が優しく千夏の髪を撫でる。


「千夏が本当に痩せたいなら、協力する。一緒に頑張ろうな!」


「……うん!」


 もう一度、二人はそっと唇を重ねた。


 ***


 数ヶ月後


「千夏、また可愛くなったよなー」


「……っ!」


 千夏の箸が止まる。頬がじわりと赤くなり、視線を泳がせる。


「べ、別に……。そんなの、言われなくても……わかってるし……」


「そっか。ならいいけど」


 平然と返しながら、湊は密かに笑った。


 最近、千夏は周囲からの注目を集めるようになっていた。中学時代のようにおしゃれを再開し、男女問わず視線を浴び告白されることも増えた。


「千夏なんか雰囲気変わったよね」


「なんか、妙に色っぽいし……」


 そんな言葉が、すぐそばで囁かれているのを湊は聞いていた。


 けれど、動揺は無い。


 千夏がどんなにモテようと、彼女の素顔を知っているのは自分だけだ。傷つき、孤独を抱え、それでも必死に前を向こうとした彼女のことを。


「……ねえ、次のデート、服買いに行かない?」


「いいけど……なんで?」


「最近またちょっとキツくなっちゃって……」


「知ってる」


「えっ?」


「だから今日の弁当は少なめにしておいた」


「なんか物足りないと思ったら……湊の意地悪!」


「じゃあ、ダイエットやめる?」


「だ……ダメ! 湊が止めてくれないと、私もう一生戻れない気がする……だから……」


 千夏は真剣な顔で手を握る。


「お願いします!コーチ!」


 決意は固く、ダイエットは続行することになった。しかし……


「ポテチ食べる?」


「ドーナツもあるよ!」


「ほらほら、シュークリームはどう?」


 次々と差し出されるクラスメイトからの誘惑に千夏の意思は揺らいでしまう。


「ちょっ、みんなしてリバウンドさせる気!? でも勿体無いし………し、しょうがないなぁ、一口くらいなら……」


 恍惚とした表情で口を開け、差し出された菓子が今まさに口に入ろうとせんその瞬間。


 ぱしっ!


 湊はスッとそれらを突き返した。


「悪いけど、今ダイエット中だからさ」


「ざんねーん!」


「ううっ……」


 そんな微笑ましいやりとりの中、ちょうどチャイムが鳴り、昼食の時間が終わる。


「じゃ、着替え行こー」


 千夏は女子の群れに混ざり体育の準備へと向かい、湊は名残惜しそうに弁当を片付け保健体育の教科書を机の上に出そうとしていた。その時──


 ピロン♪


 湊のスマホに通知が届く。


 千夏:「今日家誰もいないから、放課後は2人きりでダイエットしよ♡」


「……っ!?」


「楽しみだね♡」


「っ!?!?」


 突然耳元で甘い囁き声がする。驚いて振り返ると、頬を赤らめた千夏の笑顔が眼前に迫っていた。


「千夏どした〜行くよ〜?」


「今行くー!……じゃあ、またあとでね♡」


「ちょっ!?」


 湊が何かを言う前に友人たちに呼ばれ、舌をペロっと出したかと思えばくるりと背を向け去っていく。


 じわじわと実感が湧き、顔がさらに熱くなる。こんなにも放課後が待ち遠しいと思ったことは今まで一度もなかった。彼も覚悟を決め、スマホに向き直り返信する。


 ピロン♪


 湊:「激しくいくから、覚悟しとけよ」


「……ふふっ♪」


「千夏〜なんか良いことでもあった?」


「んー……秘密!」

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ひとくちの幸せ、ひとしずくの苦さ 風見ノリ @kazaminori09

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