黒夜街の赤い靴

@sagai_san

 月も見えない夜だった。

 二人きりの兄妹が手をつなぎ家路を急ぐ。街道の脇に立つ枯れ木は風に揺れて不気味な音を鳴らし、遠くの森で怪鳥がいななく。

 町の明かりが目の前に浮かび、小さな旅人たちは灯台めがけて懸命に歩を進める。あたたかな町の一番端っこに、母の待つ家があるはずだった。

 兄は妹を急がせようと手を引いたが、反応が鈍い。もう一度手を引くと、妹は足を止めた。そうして初めて、兄は隣の小さな体が強張り震えていることに気が付いた。二人で立ち尽くすうちに夜霧がますます深くなり、体温が奪われていく。兄が背負ってやろうか、と言うと、妹は首を振って歩き出した。

 白く濁った霧の中で歩き続けているうち、兄は疲労で項垂れていた妹より先に、異音を聞き取った。

 楽し気なファンファーレ。楽団の陽気な演奏。賑やかな沢山の足音。

 音は次第に大きく、近くなっていた。咄嗟に妹を抱き寄せたが、妹の耳にはこの騒音が全く聞こえていないらしく、淀んだ目で兄を見上げるばかりだった。

 いよいよ音楽は最高潮に達し、すぐ後ろにパレードの指揮者が指揮棒を構えているのではないかと思われるほどになった。兄は手をしっかりと握りなおしてから、静かに振り返る。

 背後に広がっていたのは前の景色と代り映えしない闇だった。そのことに一瞬安堵した途端、手が信じられない強さで引かれる。

 妹の手をひったくられた衝撃に呆ける暇もなく走り出す。妹の顔は青白く、風に揉まれた枯葉のように飛び去っていく。兄の代わりに手を引いているのはうすぼんやりとした影法師で、顔があるべき場所に装着された白い仮面だけが闇夜にあって存在を主張していた。

 音楽は今や遠ざかっていた。パレードは妹の方だけをさらい、兄を置き去りにしようとしていた。

 兄の息遣いばかりが静かな林に響く。道を外れて走り続け、兄は自分がどこにいるのかもわからなくなっていたが、妹が消えていった方向に向かううち、目の前が開けた。

 林の中の小さな広場には、扉が落ちていた。

 空き地に無造作に積み重なる板の中には、赤い扉がある。青い扉がある。丸い扉があれば四角い扉も落ちている。虫がたかる扉、ひっきりなしに揺れる扉、水が漏れだす扉があった。

 そして兄が見つけた黒い扉は、ラズベリーがトッピングされたチョコレートケーキのように、子供用の真っ赤な靴を一つ乗せていた。

 赤い靴は妹がこのあいだの誕生日に貰ったよそ行きの靴だ。綺麗な箱にリボンをかけて寝台の下にしまいこまれていることを兄はよく知っていたが、扉を引っ張り出す手つきに迷いは見えない。兄は靴を上着の中にしまいこむと、巨人の本をめくるように全身を使って、扉を開いた。

 次の瞬間、兄は黒い天井に見下ろされながら立っていた。

 空を見上げているのか、底のない穴の淵に立っているのかすら判断がつかない。少なくとも今立っている向きは、あれが空だという証拠になった。

 周囲は摩天楼の立ち並ぶ大都市といった趣だった。しかし遠い建物の輪郭はぼやけ、すれちがうのは決まって白い仮面をつけた影法師。それでも遠くから届く音楽にどこか浮き立った雰囲気を肌で感じていると、橋の向こうを見慣れた小さな体躯が通り過ぎる。

 材質もわからない黒橋は黄緑色の街灯に照らし出され不気味に光る。兄は下で唸る運河に脇目もふらずに駆け抜けた。

 街角を曲がると、妹は風船売りの前で足を止めていた。恰幅のいい影法師が配るのは灰色の風船ばかりで、そのうちの一つを妹に差し出す。妹を連れ去った影法師は風船を受け取って妹の体に結び付ける。近づく兄の足音を意にも介さず、丁寧な手つきで蝶々結びがつくられる。妹は腰に細い紐が巻かれていく間、抵抗するでもなく虚空を見つめていた。次第に妹の体が宙へ浮く。だらりと投げ出された足をめがけて、兄が目一杯跳ぶ。

 足首に手がかかる寸前、風船売りの体が急激に膨張を始める。反応する余裕も無いまま、風船売りはあっけなく破裂した。爆風が吹き荒び、妹はきりもみしながら空高く飛んで行く。

 兄は耳鳴りと頭痛に悩まされつつも妹の姿を目で追う。空を覆う無数の風船の中で、妹を吊るした風船は動きが鈍く、探すのは簡単だった。一方で風船は互いにぶつかり合い、建物に沿うように流されていく。身を奮い立たせ、急いで追いかける必要があった。

 影法師の群れを掻き分け進んでいけば、兄は時計塔に辿り着いていた。その巨躯は摩天楼の中にあって確かな存在感を持ってそびえたつ。仰ぎ見れば黒い文字盤には逆回りで数字が刻まれており、ちょうど十のあたりに幽鬼のような青白い脚が垂れ下がっている。風船は時計塔の屋根に引っかかったらしい。

 時刻は深夜三時、五分前。

 兄は乱暴に両開きの扉を開け放った。時計塔の内部はがらんどうだった。円形の床には階段もはしごも無く、煙突の底で戸惑いもあらわに上を見上げる。あてどなく足を床に置いた瞬間、突き上げるような揺れに襲われ、地に伏せた。

 塔の中の燭台に、一斉に緑の火が灯る。

 その光景は幻想的というよりも危機感を煽るものだった。この塔を目覚めさせたことがひどく不吉なことだと直感させるような。はじける炎が床にも飛び、床と壁の境界線が燃え上がる。

 緑色に照らし出された床が、ゆっくりと回転し始める。それに従い、下からの風が兄の赤い髪を持ち上げていった。今兄を乗せた円盤は回転を速めながら勢いよく上昇していた。呼吸も苦しいほど床に押さえつけられて、兄は天井と床に挟まれ腐ったトマトのように潰れる可能性に蒼ざめていたが、そうはならなかった。

 円盤が減速して停止した時、兄は再び黒い空に見下ろされていた。屋根のない塔か、炉のない煙突か、余計なことを考えるより先に兄は飛び起き、風船を探した。灰色の丸い物体はほどなくして見つかる。円盤から身を乗り出して慎重に手を伸ばしながら、下を覗いて妹に声をかけようとする。しかしその声はかき消された。

 三時の鐘の音がどこまでも響く。

 気味の悪いことに、今しがた兄が通り抜けたがらんどうの塔のどこかから、鐘が鳴っていた。それでも妹につながる紐を掴もうと伸ばされた腕に礫が衝突する。

 文字盤の数字は十二の窓となって、無限とも思える数の醜い鳥を解き放った。鳥は三枚の翼と三つの嘴を持ち、真っすぐ空に向かって飛翔した。鳥の群れは黒い空に小さく白いヒビを入れた。兄の腕には大小のひっかき傷がいくつもでき、灰色の風船は一つ残らず割れた。

 鳥の群れに弄ばれながら、妹の体は街へと落ちて行く。

 驚くべきことに、時計塔から見下ろせる建物は全て屋根を持たなかった。そのうちの一つに妹が吸い込まれたと見て取るや、兄は助走をつけて飛び降りた。

 建築物の黒い壁を越えると、細い円柱が八本直立していた。柱を握りしめて落下の勢いを殺そうと図るも、掌に焼けつくような痛みが走る。満足に減速することは叶わなかったが、兄が体に衝撃を感じたのは想定よりも随分早い段階だった。

 兄は自分が馬の背に乗っていることに気が付いた。黒い胴体に眩い緑色のたてがみを生やし、過剰なまでに装身具で飾り立てられた馬だ。柱を握っていた手を下に滑らせると、柱がこの馬を貫き更に下までつながっているとわかった。柱と馬の境目を探っていた手に冷たさを感じて引き戻すと、右手が銀色の液体で濡れていた。

 その途端馬がいななき、激しく身動ぎした。兄は傾いた体を柱にしがみついて支え、周囲を見渡す。八本の柱それぞれには同じように馬が刺さり、その下にも数頭が連なっている。愉快な光景ではなかったが、構わず視線を巡らして妹の姿を探す。

 目当てのものは、真下で見つかった。柱の根本、その中央で、影法師が気取った歩き方で妹を抱えていた。兄がいる柱と反対側の柱の根本にある、こぶのような球体へ妹をしまう。その膨らみは間隔を空けて四本の柱の根本に存在していた。それから胸を反らして戻ってくると、仰々しく礼をして巨大プティングのような装置の前に腰を下ろした。

 影法師が高く両手を掲げ、装置に叩きつけると甲高いピアノの音が流れ出した。音楽に合わせて、八本の柱が上下しながら回りだす。

 横の柱に跳び移ろうとしていた兄は、揺れにあおられて体勢を崩し馬から滑り落ちた。馬二頭分ほど落下したのち、間一髪馬の尾に手が届き体を馬上に引き上げる。突然尾を力いっぱい引っ張られた馬は暴れたが、それも音楽に導かれるようにして静まっていった。

 しばし兄は呼吸を整えることに集中し、影法師の様子を窺った。不格好なピアノはぶくぶくと肥え太っていて、兄妹の身の丈の五倍以上はありそうだ。鍵盤をかき鳴らす手は半ばピアノに埋まっている。演奏に合わせてピアノの柔らかい体が揺れる。

 兄は馬から垂れ下がる無数の宝石や銀の額当てを奪い、眼下の肥満体へと投げつけた。

 宝飾品が流星のように落下し、ピアノの艶のある黒い巨体に吸い込まれていく。

 ピアノが異物を飲み込んだ瞬間、演奏は狂いだす。重低音が無秩序に吐き出され、聞くに堪えない騒音に様変わりした音は、何より串焼きのような状態で空中を回される馬たちをひどい狂乱に陥らせた。背を弓なりにしならせ、蹄が空中を何度も蹴るうち、宝石で誂えられた蹄鉄が柱に損傷を与えていく。

 兄は馬の背を離れ柱に掴まることで難を逃れようとしたが、それだけに身を預ける柱が軋む音はありありと感じ取れた。崩壊の数秒前まで、影法師はピアノを弾くことを止めなかった。

 柱が傾ぐ。たわみ、砕けて黒い瓦礫が建物に降り注ぐ。

 次々と地上に降りた馬たちは、扉に殺到しあらゆるものを踏み倒した。影法師も蹄に打ち砕かれ静かにしぼんだが、それは兄の感知するところではなかった。兄は空中に投げ出された瞬間、銀の手綱を握って自分を馬の身に寄せたが、猛り狂う馬の背に乗ることは容易でなく、青毛の痩躯に手を伸ばしながら宙を牽引された。

 馬の集団は街中を疾走していた。ただし彼らの腹からは銀の液体が零れ、ゆっくりと痩せ衰えていた。横を駆けていた馬が転倒する。それによってできた隙間から二頭立ての馬車が姿を現す。林檎のような丸みを帯びた銀色の馬車は乱暴に引きずられ、上下に跳ね踊りながら兄を突き放して進む。

 前方には豪奢な門が迫っていた。馬車は迷いなく門を跳び越えた。遅れて兄が引っかかっている馬たちも跳躍する。門を乗り越える瞬間、兄の顔の間近を門に彫られた悪魔の装飾が掠めた。天秤を抱えた悪魔は門と同じ黒光りする肌で不機嫌そうに兄を見返した。

 門を越えた先では、馬たちが泡を吹いて倒れ伏していた。銀の液体が辺り一面を濡らし、馬は一頭残らず骨と皮だけになった。兄は地面に転がされ打ち身を負ったが、自身を叱咤して横転した馬車を覗いた。

 果たして銀の林檎は空だった。

 兄は力任せに馬車を閉め、別方向へ去っていった馬車を追うため再び門を越える方策を探していると、悪魔の門が守っていた建物が目に入る。ごてごてとした彫り物が施されていた門とは反対に、遊びのない単調な造りは格調高さを主張しているようでもあった。その黒一色の扉が、中途半端に開け放たれている。意味ありげな誘いは挑発的ですらあったが、兄は誘い込まれるままに建物の口の中に入った。

 中は静寂に包まれていた。暗闇に怖気づかずに歩を進めると、兄が通り過ぎた背後から順に明かりが灯っていった。デコレーションケーキのようなシャンデリアが緑色に輝き、左右に揺れながら兄の背に奇妙な影を落とす。

 兄が不意に足を止めた。真上のシャンデリアが光を落とす。兄の目と鼻の先には、牙が剥き出しになった顎の骨があった。

 骨が擦り合う乾いた音が何処から響く。兄が脇に跳び退った途端、顎が噛み合わされる。その勢いのまま頭部が砕け塵と化す。

 波紋が広がるように天井が明るくなっていった。暗がりから浮かび上がったのは、空間中に居並ぶ怪物の骨格だった。身近な猛獣の骨から海獣、恐竜の骨まで多種多様な脅威が揃っていたが、それらは兄にとって死体に過ぎなかった。四方から兄のいる地点へ死体が集う。

 始めこそ触れずに避けようとしたものの、洪水のように押し寄せる大群を躱しきれる筈もなく、また骨格標本がちょっとした衝撃で崩れていくことがわかったので、兄は死体を存在しないものとして扱った。事実探索を邪魔できる力は無いように思えたし、正面衝突した後に残るのは、黒ずんだ灰と衣服の煤けぐらいのものだった。

 硬い床を走る音と乾いた骨がぶつかる音に彩られ、骨と灰の雨をくぐりながら兄は順調に奥へと進んだ。妹がこの先にいる確証は無く、速やかに痕跡の有無を判断する必要があった。

 天井付近では小鳥の骨たちが下で繰り広げられる惨状に怯えて逃げ惑い、シャンデリアに身を寄せあっていた。重みで傾ぐシャンデリアのすぐ横を、首長竜の頭蓋骨が通り過ぎる。その巨体に驚いた小鳥たちががむしゃらに羽ばたく。

 兄が一際大きな音をたてて騒ぐ小鳥たちの方を見たときには、小鳥の体に緑の炎が燃え移っていた。炎は首長竜にも引火し、巨大な骨が崩れ落ちる衝撃で周囲のシャンデリアが軒並み地に落ちる。

 炎は溢れかえる骨を伝って燃え広がった。炎の波が押し寄せる。時折シャンデリアの澄んだ破裂音が奏でられ、その度に兄は破片を避けて道を変えた。そのうちに、広い廊下へ出る。廊下にはきらびやかな翡翠色の絨毯がひかれていたが、本当に石でできているとでもいうのか、炎上するのは後を追ってきた死体ばかりで床にも壁にも燃え広がる様子はない。

 炎の海に追われる兄の前に、無数の扉が現れた。廊下は途切れ、夥しい数の扉が壁を埋め尽くしている。どれもが黒く、歯車のように回っている。

 兄は走りながら落ちたシャンデリアの支柱を拾い、火口を向けて扉の上を滑らせていった。扉は背後に迫る骨のようによく燃えた。炎が一番上の扉まで到達すると、大量の塵が降り注ぐ。兄は塵を吸い込んでしまい、咳き込んだ。

 扉が燃え尽きると、壁の奥にはしごがかかっているのが見えた。建物と同一の漆黒のはしごは視認しにくく、安全とは言い難かったが、その一段目に引っかかっていたものが兄を勇気づけた。

 兄妹の髪と同じ色の小さな靴が頼りなさげに揺れている。兄は炎が来る前にと急いで靴を拾い上げて懐に入れると、支柱を持ったままはしごを登り、火の手を逃れた。

 はしごを登った先の空間は、相も変わらず黒一色だったが、兄は床の感触に驚き、躓いて転んだ。手から松明代わりの支柱が転がり出る。手をついた床はやはり異常を伝えていた。舌の上で転がされているかのような、肉の柔らかさが急ごうとする足を絡めとる。

 兄が身を起こすと、かすかな囁きやくすくすという嘲笑が届く。兄が訝し気に正面の部屋へ入ると、室内は昼のように明るかった。

 その部屋は額縁で埋め尽くされていた。床との接地面から天井全てを覆いつくす量の絵があった。とにかくここでは壁の隙間を無くすという主義のもとで展示がなされているらしい。絵はたいていが昼の情景で、そういう絵は決まってこの街に相応しくない光量を放っていた。

 なおも止まらない嘲りを辿って兄は絵を覗いた。

 或る絵は、王の絵だった。みすぼらしい男を這いつくばらせる王の背後で、影法師が砂時計を片手に笑う。

 また或る絵は医者の絵だった。フラスコを片手に患者を迎えた医者と、影法師と共に入室する患者。床に砂時計が置かれている。

 同じような絵が続く。主役は徴税人であったり、教皇であったり、女修道院長であったり、農奴であったりした。それらの主役たちは決まって兄の方を指さして嘲笑った。

 絵を見物しながら部屋を進んでいくと、丸みを帯びた膨らみがこちらに張り出している絵があった。それは王妃の絵だった。しかし兄にとってそんなことは問題ではなかった。王妃の隣に裸足の妹が猫のように丸くなって眠っていた。妹は淡い黄緑色の泡に包まれており、その泡が絵から張り出しているのだった。

 兄は絵に向かって腕を伸ばしたが、すぐ反射的に引っ込めることになった。王妃の高笑いと同時に、絵を取り囲む豪華な額縁が黒い牙を剥いて噛みついてきたのだ。額縁は今や肉食獣の口となって、金属光沢を帯びた鋭い牙で迂闊に近寄るものを須らく肉片と変えてやる心づもりのようだった。

 妹は目覚める兆候も無く眠り続ける。兄は何度か額縁の隙をついて手を差し込めないかと試していたが、数回の挑戦で手を止めた。踵を返して退室する。兄が背を向けた途端に囁き声は一層大きくなった。中には無意味に牙を噛み合わせてはやし立てる絵もあった。

 兄がほどなくして戻ってきた時、一転して絵の主役たちは静まり返った。その手には揺らめく炎を灯した支柱があった。兄は冷静な面持ちで王妃の絵の前に進み出た。緑の火を掲げれば、王妃は面白いほどに悲鳴を上げ、妹の泡を自分の絵の外へ押し出すと額縁の口を貝のように堅く閉じた。兄は牙と牙の合間をいたぶるように火でなぞった後、妹の泡を押し付けられた隣の絵にも火を近づけた。

 それをきっかけに、部屋中が騒然となった。絵は泡を押し付け合い、幸運なことに泡を持つ絵から離れた場所に掛けられていた絵は、我先にと閉じこもった。逃げ遅れたのは入り口側の絵だった。兄がそちらへ走り寄る。貴族の男は顔を青くして躍り上がった。しかしその背後の影法師は微塵も動揺した様子を見せず、それどころか安心させるように貴族の男の肩を叩いて、何処かを指し示した。すると、貴族の男も腰を落ち着けてしまった。

 構わず兄は妹へ手を伸ばした。

 手が泡に触れる寸前に、部屋中の絵が一斉に脈を打つ。拍動に手を押し返された兄が振り向くと、洒落た帽子とステッキを持った影法師がステッキで絵を小突いていた。いつしか絵に留まらず部屋全体が脈を打ち始め、再び兄は足をとられて柔らかい床に転んだ。

 兄が見上げる中、影法師はもう一度ステッキで絵を叩く。それに応じてより強く脈打った部屋は、決壊を迎えた。額縁が次々に開く。絵からは色水が怒涛の勢いで流れ出した。

 影法師が三回目に今度は床を叩いた時、既に兄は影法師を見る余裕が無かったが、部屋の床が抜けたのが影法師による操作だと理解するのに、わざわざ目視する必要もなかった。

 色水の渦に呑まれもがくうち、妹が包まれた泡は兄の手をすり抜けていき、またしても妹を見失う羽目になった。悔しさに歯噛みしつつも押し流される。

 なすがままに暫く流されたのちに兄が吐き出されたのは、大階段の踊り場だった。灰と煤が洗い流された服を絞り、辺りを見渡す。大階段は今までのどこよりも影法師が大勢集っていた。彼らは足取り軽く階段を上る。白い仮面にも心なしか喜色が浮かんでいるようにすら見えた。

 黒一色の集団の中で、兄の彩度の高い赤髪は目立った。同じように、人混みの向こうを通り過ぎた妹の髪は一際目を引いた。

 兄は階段を駆け上がる。

 大階段の先に見えるのは、大きな城だ。一切光を反射しない黒い物質で建てられ闇に溶け込むために、その威容に見合わず存在感が薄い。その上屋根が無い造りが、子供の作る砂の城のような印象を与えることに一役買っていた。その城の背後には、白いヒビの入った黒い空が、鳥につつかれて今もヒビを大きくしていた。

 大階段を上りきり城を真下から仰ぎ見ると、その大きさは天を衝くほどだった。

 城の入り口は開け放たれていた。左右に黒い甲冑人形が槍を持って並んでいる。影法師に無理やり甲冑を着せたような風体で、鎧の隙間から靄が漏れ出ている。

 影法師たちは城の入り口をくぐると見違えるように姿を変えた。目が眩む色とりどりの衣装が順番に花開く。兄は妹を虜にしていた童話の世界の舞踏会を思い出しながら後をつけ、影法師の列に紛れ込んだ。

 影法師の背後に密着し、前の影法師が群青色のドレスを広げた隙をついて城内へ駆け込む。中に紛れてしまえば深紅の髪も埋没すると期待するも、甲冑人形はすぐさま兄の存在に気づき槍と共に追いかけ始めた。

 兄はドレスの林にもみくちゃにされながら銀のテーブルクロスの下に滑りこむ。テーブルは特別高いわけではなかったが、十になったばかりの少年にとっては充分な避難場所だった。身を潜めていると、すぐそばを甲冑人形の黒い足が通り過ぎて行った。

 慎重にテーブルクロスの下から下へ移り城内を奥へと進む。楽団の演奏が高らかに響くホールでは、ひっきりなしに影法師たちが踊り狂い、ぶつからずに移動をするのは至難の業だった。

 探索していると、兄は幕が下げられた一角を見つけた。壁と同化する暗幕は何らかの意図を匂わせる。兄はこれまで通り直感的にその一角に向かって駆けて行った。

 廊下は無人だった。壁を隔てて届く楽曲はひどく陳腐に聞こえた。兄は懐にしまった赤い靴を服の上から押さえた。それが済むと廊下を足音も気にせず走る。突きあたりには、天井まである大きな扉が見えている。あの扉以外の横の扉を開ける必要は無いのだと、兄は経験から知っていた。

 兄は扉に手をかけた。鋼のように輝く扉はそれでいて妹でも楽に開けられるほどの重さしかない。

中では、上等な晩餐会が営まれていた。気が遠くなるほど縦長の食卓の両脇には礼服を着た影法師が腰を下ろしている。華やかな場を見たばかりの兄には彼らが纏うのが喪服にも感じられた。そして彼らの最奥で、深紅のドレスの少女が真っ赤なフルーツゼリーを口に運んだ。

兄は激高した。部屋の壁沿いに整列していた甲冑人形が押し寄せるのも目に入らない。

 食卓の上に跳び乗り、疾走する。肉塊を蹴り飛ばし、スープの釜を倒し、ワイン瓶を割り、パンが空を飛ぶ。

 兄は妹の前に辿り着くと、食卓に膝をつき視線を合わせて言った。

 「帰ろう。ここには何もない。」

 「いいえにいさん。ここにはすべてがある。」

 そう言うと、妹はゼリーをすくっていた匙を食卓へ置き、顔を小さな白い手で覆った。

 「わたしのうしろのまどをみて。」

 兄は妹の言葉を無視して妹を見つめ続けた。あまりにも力強く見ているので、それは睨んでいるようだった。

 妹の背後には壁を丸ごとくり抜いたような窓が開けられていた。黒い空に蜘蛛の巣のように隙間なくヒビが入っている。そうして次第に空が剥がれ落ち始めた。その向こうから金色の日が昇る。

 明朝の日差しが部屋に差し込むのと同時に、妹が手を動かす。仮面を脱ぐように、顔を引きはがした下にあるのは、真珠のようにつるりとした頭蓋骨だ。

 部屋の影法師たちも白い仮面と靄を脱ぎ、骸骨に戻る。この黒い街中で、朝日を浴びた影法師たちが骸骨に戻っていた。

 日の光を直視しまいと目を瞑った兄の横をすり抜けて、妹が姿をくらまそうと立ち上がる。それに気づいた兄が堅い肩を鷲掴んで引き留め、妹の骸骨が靴を履いていないことを確かめた。赤い靴を揃えて並べる間、兄は瞼を通して降り注ぐ光に眩暈を起こしていた。

 金色の光に意識を塗りつぶされる寸前まで、兄は妹の肩を離さなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る