2 今カレ



 冷静でいようと思ったけれど、そこまで気を遣ってやるのも馬鹿らしくなってヤメた。


「無理なものは無理。好きか嫌いかでいったら嫌い」


「そんな……」


 二か月前のことを綺麗さっぱり忘れた目が、わかりやすく非難してきた。


 これもまた、呆れる。自分にとって都合の悪いことだけを忘れ去る脳内スキルを持ち合わせているとしか思えなかった。


 別れの日、なんと言って、わたしとの関係を絶ったのか。いろいろ思い出させてやりたくもなるけれど、二か月前のことを蒸し返したところで、それこそ意味のない「ごめん」が返ってくるだけだろうから、もういい。


「それじゃあ、もう行くね」


 話を切り上げて立ち去ろうとしたところで、


「真歩、待って」


 立ちふさがった太一の手が、まだ話しは終わっていないと伸びてきたが、その手は、わたしの背後からスーッと近づいてきた別の男によって、勢いよく叩き落とされた。


 うめき声をあげた太一が、痛みに悶絶してうずくまる。


 相当痛いだろうな、と思った。太一の手首を狙って叩き落としたのは、鞭のようにしなる長い腕から繰り出された手刀だから。


 大銀杏の真裏に隠れ、この成り行きをじっと見守っていた同級生の男。


 人文学部三年の西湖さいこ はじめ、通称『西湖サイコパス』は、腕が痺れて動けないでいる太一を一瞥してから、


「今しかない、っていうタイミングだったよね」


 青白い顔でこちらを振り返った。


 このとき西湖の口角が、ピクリと動く。極端に表情に乏しい西湖にとっては、これが笑顔だ。苦痛に顔を歪める相手を見下ろすのが快感だとも聞いていた。


 片や太一は、突然に現れた西湖に驚きを隠せない。面識はなくとも、西湖の存在は知っているはずだ。


 なぜなら西湖サイコパスは、略奪&性欲モンスターなマリンちゃんと双璧をなす、学内の有名人だから。ちなみに双方とも、悪い噂しか聞かない。


 その悪名高き有名人が、大銀杏の影から現れ、無言のまま手刀を振り落としてきたのだから、太一の混乱ぶりは想像に難くない。


「なんで……オマエが」


「ああ、そうか。キミはまだ知らないよね。何ひとつまわりが見えていないから」


 太一と視線を合わせるように腰を落とした西湖は、人形めいた美麗な相貌を向ける。


「はじめまして、滝川さんの元彼、倉本君。僕は人文学部三年の西湖始……まあ、知っているよね。それじゃあ、ここからが直情径行型なキミの知らない話」


 白く長い指が、太一の顎を無遠慮に掴む。


 その一瞬で得体の知れない空気をまとった西湖は、無表情でありながら、決して正気とは呼べない目を太一に向けた。


「僕と滝川さん、先週からお付き合いしているんだ。だから滝川さんの今彼は、僕なんだ」


 大きく見開かれた太一の目の奥。そこに西湖は、恐怖を植えつける。


「二度と……僕の彼女にれるな。また手を伸ばしたら、つぎはもっと切れ味のいいヤツで斬るよ。スパッ——と」


 ここで突然の春嵐。強い雨風が三人を襲った。



 ◇  ◇  ◇



「もっと牽制するべきだったかな」


 春の嵐が吹き荒れた直後。


 わたしと西湖は、食堂に併設されたカフェテラスに移動してきた。


「あれで十分だと思う。西湖君が出てきて、本人かなり驚いていたから」


「あの手の男は、あきらめが悪いよ」


「直情径行型だから?」


「あれは適当にいっただけ。小馬鹿にできたらそれで良かった」


 混み合っていた食堂とカフェテラスは、三限目がはじまると一気に閑散とした。


 ちょうど次の時限が空きのわたしは、窓際のテーブルで昼食をとっているのだけど、そのとなりで西湖もまた、のんびりとコーヒーを飲んでいる。


「西湖君、三限は?」


「休講になった」


 そんなはずはない。それであれば、同じく人文学部のわたしの親友もここにいるはずだ。


「人文学部の三時限目は、社会行動学だよね」


「よく知っているね。もしかしてたちばな詩織しおりさん経由?」


「そういうこと。西湖君も履修しているはずだけど」


 返事をせず西湖は「うれしいな」と口角をピクリとさせて喜んだ。


「僕のことを知っていてくれて嬉しい。でも僕だって、滝川さんのことならなんでも知っているよ。交友関係から趣味趣向、金銭感覚。ウーロン茶より緑茶派で、炭酸水は好まない。犬より猫派なところまで。なにしろ片想いをしていたこの二年間、影ながらずっと見守っていたからね」


 背筋というのは、こういうときにゾッとするものだ。


 自分のあずかり知らぬところで、個人情報、行動、嗜好品にいたるまで、多くの情報を調べつくされている。


「西湖君、一応聞くけど」


「なに? なんでも訊いていいよ」


「そこまで詳しく、わたしのことを調べた理由は?」


 迷いのない回答が、かなりの熱量で返ってきた。


「好きだから。好きな人のことを知りたいと思うのは自然なことだよ。どこに住んでいるのか。どんな生活環境なのか。好きなもの、嫌いなものは何か。パターン化された行動はあるか。人間には本音と建前があるけれど、日々の行動をしっかり観察して、分析すれば、好きな人が本当に欲しているものや、潜在的に嫌悪しているものまで、ある程度は理解できる。好きな人のことを知りたいというのはつまり、その人のことを誰よりも理解したいという、この世で最も純粋な欲望だと、僕は解釈している」


 観察に分析……世間一般にはこれを監視といい、ストーカー行為のひとつに数えられるのではないだろうか。


 心理学を専攻し、学生でありながら犯罪心理学の分野で目覚ましい活躍をしている西湖ならば、知らないはずはないのだけれど。


 でも、西湖サイコパスだからな——それで納得してしまえるのが、この男の狂人たる所以ゆえんだ。


 犯罪者に片足を突っ込んでいるような社会不適合者の男・西湖始には、そのあたりの世間一般論は通用しないということは、大学内では周知の事実である。


「幸せだな。これからはこうして目の前で、滝川さんと話せるし、キミの害になる存在は、今日みたいに僕が直接、排除できるのだから」


 潜在的ストーカー気質100パーセントの男が、切れ長の目尻をピクリピクリと二度ほど痙攣させた。


 このわずかな動きが、西湖の最高の笑顔であるということを、この男と付き合い始めた日に、わたしは知った。



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