第2話 10人目
そうして僕は歩き出した。
――何だかもう会社を辞めようかな――
そんなうっすらとした影のような思いが頭をかすめる。
そうだ。今からアパートに帰るまでの間に会った人の数を数えていって、十人目が男なら退職願を出そう、そして十人目が女ならこのまま会社に残り、田舎の営業所へ行こう。そんな自分なりのゲームのルールを作ってみた。
いつの間にかバス停三つ分くらい離れた街にいて、しかも今の時刻はバスもないから、かなり歩く事になる。こんな夜遅くでも十人位なら会うだろう。
やがて歩き出すと、向こうからコンビニ袋を下げた若い男が歩いてきてすれ違った。
そしてさらに歩いていくと、近所のゴミ置き場らしい場所に向かって、ペットボトルを抱えた初老の男がやってくるのが見えた。退職願の白い封筒を持つ自分の姿が見えた気がした。
ところがしばらく行くと飲食の仕事帰りらしい外国人女性が二人連れ立って歩いているのに遭遇した。今のところ四人だ。
その後、三人の男性が飲んだ帰りなのか、燥ぎながら歩いているのにすれ違った。これで七人。
次に足早に歩く仕事帰りらしい女性に遭遇。これで八人目。
しまった。次が複数人の人物で男女混合ならどうすればいいのだろう? そう考えていると、向こうから声が近付いてきた。やがてその姿が見えてくると、それは僕と同年代のカップルだった。十人目は男とも女とも言えなくなった。
それにしてもこんな夜遅くに仲良く一緒に歩いているなんて羨ましいし、ちょっと腹が立つ。だが、近付くに連れてそのカップルの深刻そうな表情が見えてきた。会話も徐々に聞こえてくる。
「こっちじゃないんやないと?」
「いや、たぶんこっちやろ」
「一体どこへ行ったんだろ」
どうも探しものをしているようだった。ふとこちらを見て僕に気が付いたカップルのうち男の方が僕に近付き、話しかけてきた。
「あの、すみません。人を探しているんですが。この辺で七十代のおばあちゃんを見ませんでしたか?」男はセーターに黒いダウンを着ている。
今度は女の方が追うように話しかけてきた。こちらはピンク色のセーターとアイボリーのダウン。
「ウチのおばあちゃん認知症で徘徊してて、見つからないんです」
僕は「さあ……」と言いかけて、公園で会ったあのおばあさんを思い出し、はっとした。あの詩的な言い方をするおばあさんを、さっきは認知症だとは考えていなかった。ただ変わっているなとは思ったけど、神秘的だと感じていた。でも認知症の初期というのは、そんなものかもしれない。
「あの……もしかしたら藤色のワンピースを着ていませんでしたか?」
「そう! お気に入りの薄紫のワンピースで出ていってます! どこで見たんですか?」
「向こうの公園、萩町の辺りにある、ちょっと大き目の公園のベンチに座っていました。話もしたんですけどね」
「元気そうでしたか?」
「はい」そう答えながらも、途中の深いため息を思い出していた。まるで僕の代わりについたかのような。
「どこの公園か、詳しく教えて下さい」
しかし酔ってさまよい歩いてたどり着いた公園で、おぼろげな記憶の道のりを、言葉で説明するのは難しい。でもどの通りを歩いて今の道に出たかという事の認識はある。
「説明は難しくて……。一緒に行きましょう」とっさにそう言った。そして僕は、自分のアパートとは反対方向に振り向き、歩き始めた。
「え? いいんですか?」
「はい」僕は短く言った。
カップルは、特に男の方が社交的に見えた。「良い人ですね~」と感激している様子の男。
女の方が「アルトが馴れ馴れしいけん、恥ずかしがっとるよ」と言う。
「アルト?」僕はひょっとして話している相手が外国人なのかと思った。まるでその心の声が聞こえていたかのように、男が言った。「歩むに飛翔の翔と書いて、アルトと読むんです。キラキラネームもいいとこで」
「歩むに飛翔の翔……」 僕はその漢字を頭の中で書いてみて、なぜかこの名前を前から知っている気がした。
「馴れ馴れしいですかね? 俺いつもこんな感じやけ、普通なんすよ」
「いえ、別に」
本当に馴れ馴れしいと感じても、ハイなんて言えるわけがない。でも実際に、歩翔の親しげな話し方は気にならなかった。むしろ感じが良く、おかげでこんな夜中に歩く羽目になっても夜風が心地よく感じられた。
「ホント、でも助かりました。ただおばあちゃんが公園にじっとしてたらいいけど。もし公園にいなかったらその時は近くを探さんと。手伝ってくれますか」と女。
「はい」
歩翔から「もうユーリ。図々しいの、そっちの方だろ」
「ユーリ?」僕は繰り返した。
「ハイ。私は優しい里と書いてユウリと読むんですよ。私の場合はキラキラネームでもないけど、よく聞き返されます」
僕はまたその名前の漢字を頭の中で書いてみた。やはり気のせいか前から知っている名前に感じられてしまう。
それにしてもこの二人の関係は何だろうと想像した。話の内容からすると、兄と妹か姉と弟みたいだけど、お互い名前で呼び合っている。まぁ、そんな事もあるだろうけど。それとも二人はやはりカップルで、どちらか一方のおばあちゃんを二人で探しているのかとも考えた。
歩翔は「こんなに寒いのに、おばあちゃん大丈夫かな」と心配し、優里も「そうやね」と不安そうな顔をしている。僕は早く会わせてあげたくて、つい早足になった。
そうして公園に着くと、モニュメントの側のベンチには、さっきの藤色のワンピースを着たおばあさんの姿が。
「おばあちゃん!」「良かった!」
歓声をあげる二人の間で僕の心も、途中から登板しゲームに勝った投手のように舞い上がっていた。
「ね、スマホ貸してくれる? 施設の人に連絡しないといけないけど俺らのは充電切れてて」テキパキと話しながら、歩翔は僕のスマホを受け取ると、すばやく通話し、話し始めていた。
歩翔はスマホを返しながら「すみませんね。今度食事でお礼するんで」と言い、僕は「いや、いいですから」と答えた。
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