笑顔

むー社長

笑顔

 深夜0時を過ぎた頃、私は最寄り駅からの帰り道を歩いていた。人通りの少ない住宅街はひっそりと静まり返り、わずかに吹く風が街灯の光を揺らしている。冬の冷たい空気が肌を刺すようだったが、仕事で遅くなった疲れがそれをかき消していた。


 駅から自宅までの道はいつも通る慣れたルートだ。だが、ふと気づいた。路面に映る街灯の影が、奇妙に揺れている。歩くたびに影がついてくるのは当然だが、今回は違う。私の影の横に、もう一つ影が揺れているように見えたのだ。


 振り返ると、道の向こう側に一人の男が立っていた。薄汚れたグレーのコートを着て、フードを深くかぶっているため顔はよく見えない。私が立ち止まると、彼も止まる。その時、胸の奥にじわりと不快感が広がった。


「こんな時間に……」


 私は首をかしげつつも、特に気にせず歩き続けた。だが、少し進むとまた視線を感じた。振り返ると、男はまだ同じ位置に立ったまま、こちらを見つめているようだった。


 なんとか気にしないようにして歩き続け、ようやく自宅のアパートにたどり着く。2階の部屋までは細い階段を上がらなければならない。薄暗い外廊下を歩きながらポケットから鍵を取り出し、ドアを開けて中に入ると、ほっとした。


 部屋は狭いワンルームだ。玄関を入ってすぐ右側に小さなキッチン、正面に広がる10畳ほどのスペースにベッドと簡素な机が置かれている。窓の外には細長いベランダがあり、洗濯物を干せるだけのスペースがあるが、今日は何も出していない。


 コートを脱ぎ、暗い部屋の奥に進む。薄手のカーテンが窓を覆っており、そこから月明かりが差し込んでいる。床にぼんやりと広がるその光は、どこか冷たく不吉に見えた。


 ふと目をやると、カーテンに人影が映っていた。


 心臓が跳ねる。そこには、明らかに人の形をした影が映し出されている。肩幅が広く、長いコートのような服をまとっているように見える。影はじっと静止しているが、こちらを見つめているような気配だけが部屋中に満ちていた。


「……風で揺れてるだけ……だよね。」


 自分に言い聞かせるように呟いてみたが、声が震えていた。月明かりに照らされた影は、まるでカーテンに張り付いているようだった。少しずつ近づいてきているようにも見える。


 耐えきれずに一歩後退する。だが、その瞬間、カーテンの影が明らかに変化した。


 影が動いたのだ。


 ゆっくりとした動きで、顔をこちらに向けるように。カーテン越しなのに、その目が自分を見ているような錯覚に陥る。気づけば呼吸が荒くなり、震える手でスマートフォンを掴んでいた。


 その時、低くかすれた声が部屋に響いた。


「……ねえ、笑ってる?」


 その声は耳元で囁かれたように感じたが、どこから聞こえているのか、まるで掴めなかった。


 気づけば私は、窓から離れるように後ずさりしていた。震える手でスマートフォンを握りしめるが、目が離せない。カーテンに映った影は明らかに人の形をしており、その輪郭は、さっき帰り道で見た男と同じだった。肩幅の広さ、頭部の形、そして異様にじっとした動き――記憶の奥からその姿が蘇る。


 突如、窓ガラスをノックする音が響いた。軽く、しかし異様に耳に残る音。カツ、カツ、と一定のリズムで続く。その音に合わせて影が微妙に揺れ動く。その動きが、人間の意図を持っているかのように感じられた。


 反射的に後退した私は、息が浅くなっていることに気づいた。「嘘でしょ……」と呟いた声は、自分のものだと気づくまでに少し時間がかかった。ノックのリズムが徐々に速くなる。カツ、カツカツ、カツカツカツ。音が窓ガラスを通じてじわりと体に伝わるようだった。


 影がさらにゆっくりと歪み始めた。肩を小刻みに揺らすような動き――――何かを抑えきれないような異様な震えを感じる。


「笑って。ねえ、笑ってよ。」


 カーテン越しなのに、その声は恐ろしいほど近かった。言葉は明らかにこちらに向けられている。背中に冷たい汗が流れ、私はリビングの隅へ後退した。鍵は掛かっているはずだ。それでも、ガラスを叩く音は止まない。音は一度止まるたびに再開され、少しずつ強くなる。


 やっとの思いで震える手でスマートフォンの画面を操作し、警察に電話をかけようとする。だが、画面をタップする指が汗で滑る。呼び出し音を鳴らすまでの時間が永遠のように感じられる中、窓を叩く音がピタリと止んだ。


 突然の静寂に、耳鳴りのような鼓動が響く。恐る恐る窓に目を向けた。


 そこには、もう影はなかった。カーテンの向こうに男のシルエットもなく、窓の外のベランダには月明かりだけが差し込んでいる。だが、不気味な予感が背中を這い上がる。安堵する暇もなく、今度は玄関の扉がノックされる音が聞こえた。


 コンコン。コンコン。


 その音は、窓をノックしていた時と同じリズムだった。音は徐々に速くなり、やがて狂ったような連打に変わる。私は耳をふさぎたくなる衝動に駆られるが、体が動かない。


 そして突然、音が止んだ。


 静寂が訪れる。だが今度の静けさは、それまでのどんな音よりも恐ろしく感じた。震えながら玄関の方を見つめる。


「帰らないよ……君が笑うまで。」


 その声は、背後からだった。

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