群青ノ詩(そらのうた)

背景作家 中村 玲 with 群像作家

第一章 - 窓辺にて


 八月の終わり、西日が図書館の窓を染める頃。

 優子は『海と存在について』の表紙を、今日も静かに開いた。

 夏の光は、まるで透明な蜂蜜のように図書館に流れ込んでいた。古い木の床を艶めかせ、本棚の影を深め、埃の舞う空気を黄金色に染める。その光の帯の中で、一冊の本が、まるで生き物のように優子の手の中で息づいていた。

 ページには微かな染みがあった。誰かの涙の跡か、それとも雨の日に開いた水滴か。優子はその染みに、そっと指を這わせる。この本を読んだ誰かが、どんな表情でこのページを開いていたのか、想像せずにはいられない。それは美しかったのだろうか。

 司書室のドアが開く音が響き、山口が姿を見せる。彼は本を抱えたまま、一瞬窓際の優子に目を留めた。いつものように本を読んでいる。いつものように、夕暮れの光を背に受けて。その光景が、図書館という場所に溶け込んでいくような錯覚を、山口は覚えた。


 隣の隣の、隣に座る河野が眠りに落ちたのは、おそらく『海と存在について』の第三章を読み終えた直後だった。頬に触れる風が心地よく、まぶたの裏で言葉たちが踊っている。「存在するとは、記憶されることである」という一節が、夢の中でも波のように揺らめいていた。

 優子は時折、河野の寝息に耳を傾けながら、ページをめくり続ける。彼の開かれたままの教科書には、しおりの代わりに一通の手紙が挟まれていた。差出人の「美咲」という文字が、夕陽に照らされて微かに輝いている。

 図書館の空気は、刻一刻と色を変えていく。薄い藍色から濃い群青へ。その変化は緩やかで、でも確実に。まるで誰かの心が、少しずつ深みを増していくように。


「ねぇ」

突然、優子は誰に話しかけるでもなく、呟いた。

河野の寝息が、かすかに乱れる。

「この本に書かれていること、本当は分かっていたんだ」

夕暮れの光が、ページの文字を溶かし始めていた。

優子は続ける。

「存在は記憶の中にある。でも、記憶もまた存在の中にある」

教科書に挟まれた手紙が、風で一瞬めくれる。美咲の几帳面な文字で、「大切なお知らせ」と書かれている。河野はまだ、この手紙の内容を知らない。

 優子は窓の外を見る。部活帰りの生徒たちが、下校していく。彼らの影が、夕陽に長く伸びている。その光景が、不思議なほど懐かしく感じられた。まるで、もう随分昔の記憶であるかのように。


 やがて図書館は、深い群青色に沈んでいく。

河野は、まだ眠っている。美咲からの手紙は、まだ開かれていない。優子は『海と存在について』を、そっと閉じた。

 ページの間に挟まれた栞には、一行の走り書きがある。

「ここで、また会えますように」

 それは去年の夏、佐藤先輩が残していった言葉だった。優子は初めてこの本を手に取った時、その文字に出会った。そして今、彼女もまた、同じように何かを残したいと思う。

 夏の終わりの光が、図書館を満たしている。それは確かに存在して、でも確実に消えていく。そんな儚さの中に、永遠が宿っている。明日もまた、誰かがこの窓辺で本を開くだろう。そして優子の存在も、この図書館の空気に、静かに溶けていくのだろう。

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