8 クノッヘンを目指して
「お、おぉおおおおおぉおお!?」
例えるなら上昇し続けるエレベーターに乗っているような感覚。
高度が上がるにつれて頭上から負荷を感じる。と思うと、ふいに降下して浮遊感に襲われた。慣れ親しんだ重力を失い一気に心もとなくなる。
ジンはメリーゴーランドを思い出した。子供の頃に乗ったアップダウンを繰り返す遊具。あれの出力を最大にした感じだ。
すぐ後ろからシュテフィの声がする。
「分かると思うが、魔法がかかっているのは車体のみだ。自転車から落ちないようにね」
「おい、これ結構怖いな⁉」
「体だけで飛ぶより幾分マシさ」
ジンは
ちらりと眼下に視線をやると、ペダルの隣にもう豆粒ほどになった家が見えた。
多分、一生無理だ。
「まったく、おとなのくせにキーキーうるさいわね」
背後でアンネがため息をつく。
「おとこならどーどーとおちついてるほうがかっこいいわよ? アルドスみたいに」
「そういう自分は俺にしがみついてるだろうが」
「あたりまえ。あたしはこどもだし、あんたのうんてんでおちたらたいへんだし」
くそガキ。言い返す余裕もなく、ジンはハンドルにしがみついた。必死に正面を見据える。
車体の脇に取り付けている荷物も運転の難易度を上げている理由の一つだった。
なし崩し的に受けた依頼であり金銭の取引もないとはいえ、ジンがこの世界に来て初めての野外活動だ。勉強になることも多いだろうし機会を無駄にしないためにも準備は入念にすべきだ。
今朝、ジンが自室で持っていくべき荷物を選別していると部屋に入ってきたシュテフィからある物を手渡された。
「これは出先に薬剤を持ち運ぶための鞄だ。中には私の薬が入っているが、君の荷物も入れてもらって構わない。これからは君に運んでほしい」
革製のトランクだった。角がすり減っているところを見ると相当年季が入っているようだ。同じく革製の手作り感のあるベルトが取り付けられていて、短い持ち手の他にショルダーバッグのように提げたりやリュックサックのように背負うこともできる。
開けてみると、細かい仕切りの内にシュテフィの持ち物が収納されていた。薬瓶のほか出先でも簡単な調合や治療が行えるようビーカーやすり鉢、メスや包帯などの道具も仕舞われている。医療鞄のようだった。
たしかに女性が持ち運ぶには重いかもしれない。
そんなわけで、そこに本や筆記用具などジンの荷物も加えたトランクはなかなかの重量だった。それを車体の片側に取り付けているのだ。浮遊感も手伝ってバランスが取りにくいことこの上ない。
もう一つジンには気にかかることがあった。
今朝、二人を起こしてから今まで、シュテフィとアンネは互いに言葉を交わしていない。
昨日あれだけ言い争った二人だ。おそらく気まずいのだろう。アンネはあからさまにシュテフィと目を合わせないようにしているし、シュテフィもそれを察知してか自分から話しかけないようにしているようだ。
必然的に二人ともジンに話しかけてくる構図になる。
なんとなく常に空気が緊張していて居心地が悪い。
ジンとしてはアンネの方からシュテフィに歩み寄るべきだと考えていた。
昨日のシュテフィの言動がアンネの機嫌を損ねるものだったとしても、彼女は事実を伝えたにすぎない。そのことはアンネ自身も分かっているはずだ。その上でクノッヘン行きを可能にしてくれたのもシュテフィだ。
短い付き合いならばなおのこと、二人がこのままでいいとは思えなかった。
なぜ俺がここまで心を砕かなくちゃならないんだ。ジンは車上で嘆息した。
兄妹はいないが、まるで姉妹喧嘩の板挟みになっている気分だ。
そのとき、急に見えない段差に躓いたように車体ががくんと揺れた。
「強風域だ。バランスを崩すな」
「ちょっと! ぜったいおとさないで!」
「ああもう、分かってるよ!」
ジンはハンドルを握り締める両手に力を込めた。意識せずとも運転以外の思考が遠ざかっていく。
どのくらい飛んだだろうか。
風の影響を受けやすいことと上昇下降があることを除けば、あとは通常の自転車走行と同じだった。ようやく運転にも慣れてきて景色を見る余裕も生まれた。
いつの間にか地上は深い緑に染まっていた。どうやらこの辺りは森林帯らしい。ときどき川や湖がある他はどこまでも鬱蒼と生い茂る木々ばかりだ。建物はしばらく見かけていない。
「あ、あめ」
ふいに背中でアンネが呟いた。同時に頬とハンドルを握る手にぱたりと水滴が落ちた。あっという間にシャツの袖が
「
降ってきた、と感じたときにはもうシュテフィが唱えていた。頭上から降り注ぐ大粒の雨がザアッと音を立てて森をさらに色濃くしていく。
雨粒が顔を叩く衝撃は痛いほど感じるのに、冷たさや濡れる感覚はなかった。
よく見ると肌や服の上で水滴が丸くなっていた。水を弾いている。全身が透明な膜に覆われているかのように雨の影響を全く受けていない。自転車やアンネも同様だ。
「降りたらシュテフィに礼を言えよ」
ジンの言葉にアンネは無言で応酬した。
「お前と約束したのは俺だが、俺たちだけじゃここまでたどり着けなかっただろ」
「……わかってる」
雨足は次第に弱まり、降ったり止んだりを繰り返した。
やがて変わり映えのしない景色に変化が現れた。
葉をつけていない木々が増え始めたのだ。
上空から見ていると毛足の長い絨毯にところどころ穴が空いたように見える。周囲の褐色の幹と異なり葉のない木は真っ白な幹が露出していた。そこだけ落葉樹なのかと思ったが、すぐそうではないと気づいた。
やがて眼下の森は白一色になった。
「なんだ、これ……」
今までに一度も見たことのない光景だった。
見渡す限りどこまでも丸裸の木々が並んでいる。
見た目は冬の白樺に似ているが決定的に違うことがあった。
こんなにも植物がいるのに一切生気を感じない。
そのとき視界の奥にひと際目立つ木が見えた。他の木よりも何回りも幹が太い大樹だ。すでに根の方から半分ほど白くなり、色褪せて数も減っているがまだかろうじて葉が残っている。
「アルドス」
アンネが呟いたとき、ペダルが空回った。
「はっ?」
急に自転車のチェーンが外れたようで漕いでも進まなくなる。上体をねじって確かめようとしたとき、ふっと力が抜けるように自転車の浮力が消えた。
制御を失った鉄の塊は重力に従って落下する。
「うわぁああぁああああっ‼」
ジンはハンドルを握ったまま前のめりに九十度回転して落ちた。
みるみるうちに地上が迫る。恐怖のあまり瞼を閉じることもできない。枝の一本一本が視認できる高さになったとき、急に車体ごと背中から引っ張り上げられるように宙吊りになった。
「動くなよ」
少し離れた場所にシュテフィが飛んでいた。左の人差し指を唇に当て、浮遊しながら右手をジンたちの自転車に向け落下を食い止めている。唇から離した指を大樹に向けると、彼女の指先から青紫色の閃光がほとばしった。
閃光は大樹に当たるのかと思ったが直前でかき消えた。と、急に自転車がふわりと回転して正位置に戻った。
「下りよう」
シュテフィに操られるまま、ジンたちはふわふわと森の中に降下した。
足が地面を踏みしめたとき、ほっとして思わず全身の力が抜けかけた。
「おい、無事か?」
真っ先にアンネに確かめるとこっくり頷いた。前かがみに落下したためジンの背中に乗っかる形になり無事だったようだ。逆だったらと思うとぞっとする。
「どうやら何者かの妨害を受けたようだね」
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