2 満員電車

 午前五時四十五分。

 アラーム音の鳴り響く賃貸のワンルームで墨谷仁すみたにじんは目を覚ました。


 枕元のスマートフォンを手探りで探し当て、アラーム機能をオフにする。まだ寝たいとごねる体を叱咤するように勢いをつけて布団から立ち上がる。

 昨晩浴びれなかったシャワーを浴び、磨けなかった歯を磨く。髭を剃り、寝巻がわりのTシャツを仕事着に着替える。

 朝食は時短のため出勤中にとる。社会人の朝は常に時間との戦争だ。

 そんな生活も高校を卒業してからもう八年も経つとあればすっかり板についた。


 たまに寝坊することがあっても、目覚めた瞬間に超高速で脳が回転する。残り時間とタスクから最適解を導き出し、最小の手数で身支度を整える。結果的にいつもと同じ時刻に家を出られるのだから不思議だ。


 しかし、いかに自分の世話は削れても絶対に外せない日課がある。


 身支度を終えると仁はベランダのガラス戸を開けた。


「おはよう」


 挨拶をしたのはベランダに所狭しと並んでいる植物たちだ。

 柵側に大きめの植木鉢やプランター。壁際にホームセンターの端材で組み立てた自作の棚を据えつけ、サボテンや多肉植物などの小さな鉢を管理している。その他、柵に針金で固定したり頭上の物干し竿から吊るしたり床の隙間に置いているものもたくさん。


 もし植物に話しかけているところを誰かに見られたとしたら死ぬほど恥ずかしい、と仁は思う。一方でかまうものかという気持ちもある。

 はるか昔は植物にクラシック音楽を聴かせると良い影響を及ぼすと言われていた。その頃はせいぜい迷信止まりだった話だが、近年になり植物が音を感知できることが証明された。

 アメリカで行われた実験で、同じ生育条件下に置いた二つの植物に毎日それぞれ意地悪な言葉と優しい言葉をかけ続けた結果、前者は枯れ、後者は成長が促進したという結果も出ている。


 ジョウロを片手に彼らの様子を見て回った。


「今日は曇りで残念だな」


 晴れの日は日光を浴びれるし、空気中の窒素分が溶け込んだ雨は植物にとっては水道水よりも栄養価が高い。でも曇りの日はメリットがないだろ?

 そんな気持ちで話しかけはしたが、実際に彼らがどう感じているかは分からない。返事が返ってくることはないからだ。

 でも一目見れば、彼らが何を求めているのかは分かる。


 土の表面が乾いたアラビカコーヒーノキに水をたっぷりと、葉が乾燥しがちなアジアンタムに霧吹きを、ウチワサボテンを少しでも陽がよく当たる場所に移動させ、直射日光が苦手で普段は屋内栽培しているハオルチアを今日は外に出してやる。

 人間のエゴや都合のいい妄想かもしれないが、適切な生育下に置かれた植物たちは皆いきいきしてどこか嬉しそうに見える。逆もまた然りだ。


 こうして植物の面倒をみる時間は仁にとって一日のうちで最も至福のひとときだった。

 そうこうしているうちに朝の数十分などあっという間に過ぎてしまう。


「じゃ、行ってきます」


 植物たちに声をかけ、仁は玄関に立った。

 瞬間、仕事のことが頭をよぎる。即座に脳内に立ち込めそうになった暗雲を振り払った。

 給料が発生しない時間は意識して仕事のことを考えないようにしている。


 平日朝の東京行きの中央線はほとんど家畜車だ。


 家を出てすぐにぱらぱらと雨が降り始め、駅に着く頃には本降りになっていた。

 終日曇りの予報だったため電車内は湿った人々のごった煮だった。ただでさえストレスフルな満員電車の不快指数が増している。


 出発後、ほどなくして電車が急停止した。


「ただ今荻窪駅にてホーム上の非常停止ボタンが押されました。現在安全を確認しております」


 お決まりの車内アナウンスが流れる。社内の集団は息を止めたかのように静まり返り、続報に耳を澄ませている。


 数分後、再びアナウンス。


「状況の確認がとれました。ただいま中央線は荻窪駅で発生した人身事故の影響で運転を見合わせております」


 混雑した車内に一気にため息のようなムードが充満した。


 舌打ちするスーツ姿の男性、電話口で頭を下げながら会社に遅刻の電話を入れる女性、人身で運転見合わせなう。と即座にSNSで発信する学生たち。

 そのうちの誰一人として本気で当人の心配をしている者はいないのだろうと仁は思う。もちろん自分も含めてだ。


 人身事故。

 運転を見合わせるほどの事態ということは、十中八九誰かが故意に電車の前に飛び込み死んだことを意味する。


 上京したての頃、初めてその意味を知ったときは青ざめた。しかし今や完全に日常の一部と化している。

 それほどに東京では人身事故が多い。特に週明けの月曜日は顕著だ。

 慣れるどころか、今では故人に対して呆れのような気持ちさえ湧く。

 わざわざこんなに大勢に迷惑をかけなくても他になんでも方法があるだろうに。衝動的な行動だとしたらどうしようもないが。

 本気で腹を立てているわけでもなく、淡々と分析している自分にほのかな嫌悪感が募る。

 いつから自分は人の死を感情ではなくデータ処理するようになったのだろう。


 三度目のアナウンスが流れ、この車両は次の駅まで動いてから停車するとのことだった。運転再開目安は四十分後らしい。

 吊り革を握りながら、仁はふと土曜日のことを思い出していた。


 金曜の夜、急ぎの仕事が立て込みうっかり終電を逃した。

 タクシーを探す気力もなく、仕方なく最寄りの公園の東屋でやりかけの仕事を片付けようとPCを開いていたのだ。


 その後、寝不足と疲労から足を踏み外し公園の池に転落した。


 気づいたときには池のほとりに倒れ、パトロール中の警察官の厄介になっていた。


 幸いにも荷物は何も身に着けておらず、記憶は曖昧だったが服がずぶ濡れのため、池に転落したのだろうということになった。その後、半強制的に家まで送り届けてもらった。

 人生で初めてパトカーに乗ったとか二十六にもなって恥ずかしすぎる等の問題はさておき、仁が気になっているのは意識を取り戻す直前に見た夢の内容だった。


 夢の中で、仁は周囲を自然に囲まれた場所にいた。

 時間帯は朝か昼。閉じた瞼の向こうに光を感じたため間違いはない。

 すぐ側に女性がいた。女性は架空の動植物の名を口にし、何かの作業をしていた。やがて彼女がこちらに近づき、強い花の香りがした――


 ただの夢にすぎないといわれればそれまでだ。しかしこんなにも空想じみた内容だというのに、なぜか奇妙なリアリティがあった。それが目覚めてからも内容を鮮明に覚えている理由だった。


 今も鼻腔をくすぐるスイセンの香りをはっきりと思い出すことができる。


 他にも女性の足音、衣擦れの音、頬にかかった吐息、触れた指の冷たさと柔らかさ。それらの繊細な記憶がどうしても幻とは思えなかった。

 もしフロイトが聞いたら鼻で笑うかもしれないが。

 あの瞬間、自分は一体どこにいたのだろう。


 電車が駅に停車した。仁はのろのろとした動作でスマートフォンを取り出した。

 気は進まないが会社に遅刻の連絡をする必要があった。午後一の会議には間に合うだろう。

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